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孤独と孤高のおはなし Festina lente =フェスティーナ・レンテ (悠々とゆっくり急げ)

思春期を経て、青年期の入り口で孤独を感じることは、誰にでもよくあることだ。孤独感の度が強すぎると、よく精神の病にもなります。

じぶんは、若い頃、“孤高を気取って生きる”って言葉を信じていたことがあったが、52歳の現在ではなんて青臭くて、バカな考えだったのだろうと思う。

若いと自分自身の値打ち、価値にこだわりを持つ。自分が価値ある姿になろうとする。価値のあるモノを手に入れようともがく。

「価値」とは、読んで字のごとく「あたい(価)(値)」のことだ。値は相対的なメジャーで測定したりする。相対的なものさしとは、すなわち他人と比べることにもなる。他人に認められて評価を受けることを意味する。

若い人は結果にこだわるが、人生長くやっていると、価値があるのは結果ではなく、結果に至るまでの道程、ディテールに人生の意味があることに気づく。
結果はただの事実にすぎない。

人生の最大最後の結果は、天から寿命をまっとうして死を授かることだ。だから人生はその歩みの道程そのものに、意味や価値があるのです。

“自分”とは、自ら(みずから)の取り分って意味もある。若い人は自分が貰える私の取り分が気になって仕方がない。明日も明後日も、その先も、価値のある人生の取り分が欲しいと思って、走ることをやめない。

走ることに疲れたら、歩みなさい。たまには休みなさい。Festina lente(フェスティーナ・レンテ)というラテン語の格言がある。悠々とゆっくり急げという意味だ。

寓話のウサギとカメの徒競走の話があるが、駆け足に自信のあるウサギがゴールの手前で、驕りをみせて寝てしまい。最後は鈍足ながら着実に歩を進めたカメが先に人生のゴールを手に入れる。

結果はいずれ、おとずれる。Festina lenteは、ローマ皇帝アウグストゥスの座右の銘の一つで、大臣な成熟した大人のすべき人生の道のことでもあります。

悠々とゆっくり人生を歩んで、確実な結果(必ずおとずれる人生の急ぎの用、すべきこと)を行いなさい。手に入れなさいということです。

人生の意味や価値は、その道程にあるのだから、招いた結果を憂いたり、不安に思っても仕方のないことなのです。それよりも、歩む道のりに、やりがいや生きがいを探すことの方が人生有益です。

自身が保持する価値ではなく、他人の(為 ため)に為する行為が、ひいては自分に返ってきて人生の大きな意味になるのです。自分自身が保持するための価値にこだわることをお止めなさい。そしたら、世間が広く大きく、深く見えるようになります。

若い人には、所得が少ない。己の身が小さいから、もっとたくさんのモノを得ようと思うのでしょう。残りの人生が長い時間あると(永遠)を夢想するようなところがあるのでしょう。

100年もしないうちに自分の人生の結果は、いずれ出るのです。己一人にこだわっては、生きていけなくなりますよ。無人島に漂着したロビンソン・クルーソーにも実は、最後に隣人がいたのです。

愛することと、愛されることの孤独は、自分独りだけでは、どうすることも出来ない。隣人と分け合うことから、始まるのです。隣人をペットに求める人もいます。隣人を世界平和への願いに求める人もいます。幼なじみの初恋の少女にいつまでも求め続ける人もいるでしょう。でも。それはやがて老います。

愛は惜しみなく奪うものでもなく、与えるものでもなく。愛とは隣人と分け合うものです。孤高で一人勝ちするのではなく。自分の愚行を隣人に慰めて貰えるような、或いは隣人を思いやる様な、分かち合う生き方をどうかして下さい。

Festina lente (悠々とゆっくり急げ)

人のご縁なんてものは、人生を誠実にひたむきに生きていたなら、自然とやがておのずと訪れてくるものです。good luck!

何かのお役に立てば幸いと、綴って行く所存で御座います。ご厚情に感謝致します。