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【長編小説】漂白剤社会 | 第六話・傷跡

第五話・眼差し | このお話のマガジンはこちら | 第七話 ※執筆中※

 
 
 どんなに暑くても、長袖を欠かさず選ぶ志津里にとって、スーツは都合の良い服装だ。

「昼、食べたか?」
座っている机の後ろから飯山の声がした。
飯山は大柄な体格で、時折、関西弁が混じった話し方をする。

「飯山さん、あまり食欲がわかなくて」

「しっかり食べるのも仕事だぞ」
飯山は、志津里に菓子パンを手渡した。

大きな騒ぎになることなく、無事に奈恵を逮捕できた。
「とにかく情報が漏れないよう徹底したからな」
そう、飯山は言う。

奈恵の逮捕時は、マスコミが押し寄せないよう徹底的に警戒した。そして早朝の逮捕後、即座に高知県まで移動する事で混乱を避けた形だ。

それでも報道されるのは時間の問題だろう。

「彼女の容態は聞いてるか?」
飯山は、束になった資料を机に出した。

「何かあるんですか?」
志津里が目を丸くすると、「あとで記録を見てみろ」と奈恵が留置所で倒れたことを話した。

「持病があるんですか?」そう聞くと、飯山は、
「それも合わせて事情聴取してくれ」と言い放ち、自分の席へ戻った。

奈恵の担当は、わたしになった。

今日は暑い。
わたしは左の手首をなでるように押さえた。




 そういえば、あの日も同じ暑い夏だった。
専門学校に通っていた頃のこと。自宅でひとり料理をしていた時のことだ。

ドタン…!

突然、眩暈がしたわたしは床に倒れてしまった。
ぐるぐる周るような耳鳴り、胸の激しい動悸、そして吐き気に、包丁を持つ手が震えた。

ハァハァハァ
必死に深呼吸する。上手く呼吸出来なかったが、なんとか息を吸うことに集中して頑張った。

十五分、経過したところだろうか。やっと胸の激しい動悸と眩暈が治まり、冷静さを取り戻したわたしは、血の気が引くような感覚を覚えた。
もし、このまま息が止まっていたら…そう思うと、心の底から恐ろしいと思った。

これは、ただごとじゃない。何か悪い病気でもあるのかもしれない。わたしにとって、ここまで生死を分けるような経験をしたのは初めてだった。

 わたしは、すぐ近くにある内科の病院に行ったが、原因は分からなかった。だが、診察してくれた医師は意外なことを言った。

「精神科を受診する事も検討してください」

まさか、と思ったが医師は紹介状を書いてくれたので、仕方なく受診することになった。

 紹介された病院は、住んでいる地域から離れた場所にあり、わたしは精神科を受診するという後ろめたさから、知り合い等に会う確率の少ない郊外にあることが最終的に受診する決め手となった。

 予約して病院に向かうと、個室の部屋に案内されて、様々なテストやカウンセリングを受けた。カウンセリングは臨床心理士が話を聞いてくれた。臨床心理士は、わたしがパニックにならないようにゆっくりと質問し、さすがの対応だった。

 診断結果は、双極性障害、そして心的外傷後ストレス障害だった。

 当初、診断結果を聞いた時は信じられなかった。精神的な病は心の持ち方でどうにかなるものであり、これから警察官を目指すわたしが、そのような精神疾患になるとは、到底、考えられなかったのだ。

「しっかりお薬は服用してくださいね」

 念を押したように精神科の医師は言った。
 次の診察予約を聞かれたが、「予定を確認して、また電話します」そのような当たり障りのない返答をした。

 わたしは病院を後にすると、貰った処方箋を破って公園のゴミ箱に捨てた。薬は飲みたくなかった。薬を飲んだら、現実を直視することになる。

あれから数十年も経っている。わたしは乗り越えたんじゃないのか。
わたしは、もう忘れたんじゃなかったのか。
自問自答が頭をかけめぐり、公園でボーっと立ちすくんだ。

薬は飲まないと決めて、その後、半年が過ぎた。

 診察のことも忘れかけていた日の午後、たまたま興味深い新聞記事を見つけた。ある女性の体験記だった。

『数年前受けた記憶を、最近になって頻繁に思い出すようになった。涙が止まらなくなり、過呼吸の症状に見舞われた。精神科を受診し「うつ病と複雑性PTSD」と診断を受けた。治療やカウンセリングを受け、ようやく被害を振り返り、受け入れることができた』と、書かれてあった。

どんどん深く調べ始めると、ある一般社団法人のアンケートの記事に読み当たった。

『例えば、暴力やわいせつ行為を受け、それを被害だったと認識できるまでに平均で6~7年かかることがわかった。更に、内閣府の「女性に対する暴力に関する専門調査会」によると、被害に遭ったことを思い出さないように、記憶に蓋をする『回避』の傾向もみられる。ただ、記憶はなくすことはできないため、いずれ無理が生じてフラッシュバックが起こり、PTSDの発症につながることもある』

わたしは、半年前の心のもやもやが取れたような気がした。

「もう一度、病院に行こう」
新聞記事が、わたしの背中を押した。


忌まわしい中学の記憶。
放課後、担任の教師に、多目的室に呼ばれたことを思い出す。

今のわたしだったら、きっと行かない。

行っちゃだめだ。
もし、タイムマシンに乗って、”過去のわたし”を引き留められたなら。
そう何度、わたしは思っただろう。


志津里の左手首には傷跡がある。

それは、苦しみから解放されたいと、自殺を試みた大きな傷跡だった。

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