【長編小説】漂白剤社会 | 第四話・十六歳
奈恵は新幹線の中にいた。
逮捕されたあとは、着の身着のまま、手錠と腰縄をかけられた状態で東京駅へ向かい、有無を言わさず新幹線の切符を渡された。乗り込む時は、周りの視線とスマホのシャッター音がした。
「どこ行くんですか?」
「高知。長旅になるぞ」大柄の男性刑事がそう答えた。
「高知ってどこですか…?」
奈恵は、地理が苦手だ。だから東京から高知県がどこまで遠いのか、感覚が分からなかった。そして、未だに逮捕されたことの実感もなかった。
窓際の奥に座らされ、隣に志津里が座った。
志津里が声をかける。
「お茶、飲む?」
「大丈夫です…」
奈恵は、窓の外を眺めながら、ぽつりと答えた。
夫はきちんと朝ごはんを食べられただろうか。犬は、きっと寂しがって鳴いているだろう。私はこれから、どうなるのか。
夫と、犬のことが気がかりだった。
そう言えば、私は何で東京に来たんだっけ。
奈恵は、単身で北海道から上京したことを思い出していた。
十六歳のことだ。
高校は、東京の私立に通うことが決まっていた。
私は父の承諾も得ず、無理やり、北海道の高校を受験しなかったのだ。
せめて高校は出てほしいという父の願いもあり、まだ受験を受け付けていた東京の高校に進学する事が決まった。両親は水産業の自営業をしていたため一緒に引っ越すことは出来ず、東京行きはひとりで行くことになった。
父は、渋々だった。心配で仕方なかったのだ。
住まいは、池袋にある格安アパートを両親が用意してくれた。
隣人は、無精ひげの生えた不愛想な男性で、私は少し怖くて挨拶できずにいた。
これからの生活は、学業を両立しながら、少しの仕送りとアルバイトで何とかしなくてはいけない。幸い学校は、アルバイトを禁止していなかった。決して余裕のある状況ではなかったが、私はモデルになるために東京へ来たのだ。そう思うと、どんな辛いことも乗り越えられるような気がした。
東京に来て一か月は経つが、北海道とは違う景色に、なかなか慣れないでいた。左右を見てはビル。上を見てもビル。大きな迷路に迷い込んだような都市。それが憧れた、東京の第一印象だった。
その日、私は渋谷にいた。
モデルの体験授業を受けるために指定されたスタジオに向かっていたのだ。だが、事前に送られた地図を見るも、どの方向へ行けばいいか、さっぱり分からない。
よし、人に聞こう。
そう思って周りを見渡すと、見たこともない無数の人々が街を行きかっていた。
日曜日の昼過ぎ。皆、早歩きだ。近くにいた人に声をかけた。
「あ、あのー…」
その人は私を見るや否、耳にイヤホンをかけた。冷たい視線が胸に刺さる。「す、すみません…」
足早に立ち去ると、今度は人にぶつかってしまった。
「いてぇ!」
「あ、あ、すみません!」
大きく頭を下げた。その人は舌打ちをしながら、走って信号を渡った。
声をかけても誰も足をとめない。心細く泣きそうになっていた、そんな時、ひとり中年の女性が声をかけてくれた。
「お嬢ちゃん、どこに行くの?」
「ここ行きたいんです、も、もう時間もなくて、ど、どうしたらいいか分からなくて」
焦る感情が、早口となって言葉に表れる。私の吃音と、少し訛った言葉に、全て察したかのような顔で女性は言った。
「大丈夫よ、落ち着いてね」
「最寄りが代官山駅ね、代官山は分かる?」
「ごめんなさい、わかりません」
手がそわそわした。
「大丈夫よ、落ち着いて」
「何時に待ち合わせなの?」
「十三時です」
女性はすぐに腕時計を見た。きらきらのゴールド色で、文字盤にあるダイヤモンドに一瞬で目を奪われた。
なんて素敵な女性なんだろう。
それは高級で品のよい時計を身に付けているからではなく、佇まいから気品を感じたからである。
文字盤に見とれて忘れた時刻に目をやると、十三時を五分も過ぎていた。
「ど、どうしよう」
とうとう渋谷駅前の真ん中で、私は泣いてしまった。
コンクリートに、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「お嬢ちゃん、タクシーで行きなさいね、おばさん出してあげるから」
そう言って、有無を言わさぬよう私を引っ張っていくと、道路の方へ連れて行った。その人は手を上げてタクシーを待ちながら、今度は小声でこう言った。
「あなた、東北か、その辺の方かしら」
私は泣き止み「…北海道です」と言った。
「そうなのね、あなたの言葉。なんとなく、方言が私の出身と似ていたの」
そして、笑みを浮かべてこう言った。
「私も北海道なのよ。もう何年も帰れていないけれど」
「え、そうなんですか?」
もっと話が聞きたいと思った矢先、タクシーが目の前に止まった。
「タクシー来たわね、良かった」
女性は、地図に書いてある住所を運転手さんに告げると、私に五千円札を持たせて、車に押し込んだ。
「運転手さん、お願いしますね」
お礼を言おうとした、その瞬間、つい吃音が出てしまった。
「あ、あ、あ、あ」
バタン。
ありがとう、を言えず、車の扉がしまった。
その人は手を振っていた。
私は、お礼を言えなかったショックで茫然としてしまった。そして、お札を握りしめた手を、窓に押し付けることしか出来なかった。
少し進んでから後ろを見ると、まだ、その人が立っていた。車が角に曲がり、見えなくなるまで手を振ってくれていた。
『ありがとう』
言えなかった言葉。
私は、自分が吃音であることを、これほど、後悔したことはなかった。
しばらくしてタクシーが止まると、横に大きな白い建物があった。
「お客さん、ここのビルみたいですよ」そう運転手さんが教えてくれた。
私は運転手さんにお礼を言うと、握りしめたお札を渡した。お釣りをもらうと、足早にタクシーから降りてビルの階段を一気に駆け上がった。ハァハァ。息が切れる。もう三十分も遅刻していた。
扉には『アクト事務所・撮影スタジオ』と書かれた紙が貼ってあった。
実は、東京の高校を受験をする際、一度、母と上京している。その時に、原宿の竹下通りでアクト事務所にスカウトされていた。名刺を渡してくれた男性は事務所の代表であり、フォトグラファーの人でもあった。母と一緒ということもあり、スカウトされた当日にそのまま事務所へ行った。
「もし東京の学校に来ることがあれば、一度、所属してみませんか?」
私は舞い上がるような気持ちだったが、母は冷静だった。
「お金、かかりますか?」
そう母は単刀直入に言うと、厳しい声で続けた。
「私たちのいえ、お金ないです。お金かかるなら、いらないです」
私はチャンスが、ふいになるのではないかと口を尖らせて言った。
「私、アルバイトするから!」
「そういう話じゃないよ!」
母が、強く突き放す。
「いえ、所属するのにお金は一切かかりません」
芥田さんは、安心させるように事務所の紹介や、練習の様子など交えながら説明してくれた。
「モデルの練習も大切ですが、学業も大切です。責任もって練習も学業も、見守ります」
芥田さんの真剣な気持ちが伝わったことで母に納得してもらい、まずは練習生として所属したのだった。
その練習の第一回が、遅刻だ。
私の額には汗が噴き出していた。ゆっくりと扉を開く。その瞬間、アクト事務所の代表が、開口一番、大きな声で怒鳴った。
「遅い!何やっているんだ!現場でも遅刻して行くのか!」
私はビクっとして即座に謝ったが、内心は少し不満だった。そんな私の不満は顔に出ていたのだろう。その日、代表の芥田さんは、とにかく私に厳しかった。
フォトグラファーも務めており、モデル撮影の練習は、必ず芥田さんだ。 私はカメラの中心に立つと、事前に練習してくるように言われて覚えたポーズをとった。自信があった。
モデルを夢見た時からずっと雑誌を参考に見ては、ポーズを真似ながら練習をした。ポーズの意味も分からなかったが、とにかく真似すれば同じモデルになれる気がした。気付いたら、ポーズをいくつも取れるように暗記したのだ。
きっと褒められるに違いない。そう思っていた矢先、また怒声が飛んだ。
「違うだろ!」
私は咄嗟にポーズをかえた。それでも怒声は止まらなかった。
「違う!そうじゃない!」
ポーズをこうして、ああしてなど、アドバイスらしき言葉は一切なかった。私はそれが不満で、ますます眉間にシワを寄せた。
「ポーズと顔が一致していない。ダメだ、今日は帰れ」
私は腹が立ったので、言い返した。
「芥田さん、どうすればいいのか分からないままじゃ帰れません」
芥田さんは驚いた顔をして、また怖い顔に戻った。
「こっちに来なさい。これを見てみろ」
呼ばれた先に向かうとそこにはカメラに繋いだ一台のパソコンとモニターがあった。いかにもモデルの撮影現場、という雰囲気を醸し出していた。
芥田さんは、次々と撮った写真を映し出す。
一枚一枚、映し出された写真は、あれだけ笑顔のつもりだったのに、すべて無表情だった。
芥田さんは、低い声で、写真を指してこう言う。
「あなたの弱点。ポーズをとると無表情になり、笑顔つくると、今度はポーズができない」
続けて諭した。
「モデルという仕事は、決して華やかな世界ではないんだ。このモデルを見てごらん」
ある雑誌を手渡した。そこには、とても凛とした佇まいの女の子が表紙を飾っていた。笑顔ではないけれど、不思議と芯を感じる強さと美しさがあって、いつか北海道のコンビニで見た雑誌モデルと同じ、強さのある眼ざしをしていた。
「ただ立っているだけの写真でも、瞳と鼻先、指先にもポーズは宿るんだ」
モデルは、ただ笑ってポーズをとれば良いだけではないことを、私はこの時に知った。
今日は厳しく言ってしまったが、と前置きをした上で、芥田さんは続けて言った。
「あなたには、ただポーズをとるだけのモデルになってほしくないんだ」
「モデルという仕事は、多くの現場の人達に支えられて成り立つ仕事だ。どんなに苦しくても、周りを明るくするほどの笑顔を作らなければいけない。そこまでの覚悟があるか?いいか、本物のモデルになるんだ。君には素質があるんだから」
あの時の私は、芥田さんの言葉の意味がよく分からなかった。だが今は、それが間違いなくタレント活動のキャリアに繋がっている。
芥田さんと出会えたことは、幸運だった。
吃音を隠すため、軽い気持ちで選んだモデルという仕事だったが、奈恵は、気付けばプロになりたいと練習に没頭した。
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