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67.言葉を話せなくなった父が、最後に優しい目で、さよならの挨拶をした。ありがとう、って。

世の中には、幸せな人と不幸な人がいますね。でも、あなたは本当に不幸なのでしょうか?本当に幸せなのでしょうか?そして、不幸だと思っている人は、もしかすると、幸せだったらどうしますか?

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©NPО japan copyright association Hiroaki

幸せな人と不幸な人

むかし、むかし。中国の北方の塞(とりで)の近くにおじいさんが住んでいました。
ある日、おじいさんの大切に飼っていた馬が逃げ出してしまい、村人はおじいさんのことを気の毒に思っていました。

しかし、おじいさんは「このことが幸運を呼び込むかもしれない…」といいました。

その後、逃げた馬が戻ってきました。しかも、足の速い立派な馬を連れて来たのです。村人は、そのことを歓迎していましたが、おじいさんは「このことが禍(わざわい)になるかもしれない…」といいました。

すると、この馬に乗っていた息子が馬から落ちて足を骨折してしまいました。村人がおじいさんのところへお見舞いに行くと、「このことが幸いになるかもしれない…」と、おじいさんはいいました。

やがて戦争が始まり、多くの若者が命を落とすことになりましたが、おじいさんの息子は足に怪我をしていたので戦争に行かず無事でした。

これは中国の「淮南子(えなんじ)」という書の「人間訓(じんかんくん)」という部分に載っている「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」という話しで、幸せや災いというのは予想ができないという意味です。

災いと思っていたことが幸運の原因になり、幸運と思っていたことが災いの理由になり、さらにそれが幸運となったという話です。

また、塞翁が馬の「塞」は砦、要塞という意味で「翁(おきな)」はおじいさんです。「塞翁」は、砦のそばに住んでいるおじいさんのこと。人間万事の「人間」は世の中、世間のことで「人間万事塞翁が馬」だということです。

出典の「淮南子-人間訓」は、「えなんじ-じんかんくん」と読みます。また、中国語では「人」は日本語と同様に人そのものですが、「人間(じんかん)」と書くと「世間、この世」という意味になります。
「人間万事塞翁が馬」は「世の中のことは何が幸いして、何が災いするか分からない」ということです。


人生において、幸運と不運の基準はどのように判断したら良いのでしょう。
とてつもない不幸に見舞われたが、しばらくしたら、それがとてつもない幸運だった、という経験は誰にもでもあります。
とても幸運だと思っていたら、最悪の状況を迎えてしまった、などという場合もあります。

「失敗」なども同じですね。

大失敗だったと思っていたことを後に振り返ってみたら、その失敗がなければ今の成功はなかった、ということもありますね。


私などは、人生で取り返しのつかない大失敗を繰り返してきましたが、あれから25年、大失敗して良かった、と思えるようになりました。
不幸、不運、失敗はその時点で決めることでなく、後の時間が判定するものだということに60歳を過ぎてからわかるようにもなりました。
逆に、幸福、幸運、成功などもまるで同じで、後の時間が判定してくれるわけです。

この中国の書「人間万事塞翁が馬」を知った10数年前には、あまり意味がわかりませんでしたが、こうして年を重ねてみて、改めて理解できるようになりました。

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生きていればいい、生きているだけで幸せじゃあないか…ほかに何が必要なんだ!

私の父は、このお話のおじいさんと同じでした。
「息子が大怪我をしてしまった」「息子が学校を辞めた」「娘が仕事をやめてしまった」
すると、「身体が元気ならそれでいい…」と、いつもいいました。

「親友が倒産した」「友達に騙されてしまった」「お金が足りない」「生活が苦しい」「仕事がうまく行かない」すると、「やめればいい…」

「病気になった…」「妻が治すことができない病気になった」すると、「生きているか?生きていればいい、生きているだけで幸せじゃあないか…」といいました。

「会社がつぶれそう…」すると、「殺される訳じゃあない…生きていればいい」と。

ある日、不整脈が続いていた父は心臓病の手術に踏み切りました。
「これで心臓が動くようになった。手術は若い方が良い(その時、父は86歳)。心臓が止まっても自動的にペースメーカーが動くから、死んでも心臓は動き続けるなあ…」と笑って自慢していました。

その後、父は脳梗塞となりました。
この時も「…ありがたいなあ、まだ歩ける」と。

しかし、薬の副作用でふらつくようになり、転んでは脳挫傷を繰り返しました。

ある寒い雪の日、溝に頭から落ちて逆さまの状態で5・6時間動けずにいました。救出され、救急車の中で血だらけの父は「死ぬかと思ったよ…」と笑顔でいいました。

そんな父は、90歳になっても車の運転をやめませんでした。家族が心配して注意すると、笑いながら「歩けなくても、車があればどこへでも行けるから」といって、毎日、愛車で仕事場を往復していました。

その後も入退院を繰り返し、5年から6年分の治療費の請求書を眺めながら「3,000万円儲けた…」(後期高齢者は一割負担なので300万円で済みました…)と、数年間の治療費の合計額を見てほくそ笑んでいました。

やがて、歩くことも、車の運転をすることもできなくなり、私が仕事場へ送り迎えすることになりました。父の身体を抱え、仕事場の椅子に座らせると、「…仕事ができるっていいなあ、幸せだなあ…」といい、94歳まで現役を続けました。

いよいよペンを持てなくなり、ワープロも打てなくなったので、私は父の話す言葉をパソコンで打ち続けました。父の最後の仕事、それは自分の記録を残すことでした。

「…まだ文字が読めるぞ、いい本だ…」

文字も見えなくなり…せめて本の完成までは、と…。
完成していない原稿に触れては「みんなに読んでほしい…」といっていました。

そして、またあの言葉…
「人は生きているだけで、あとは何もいらないじゃあないか」

病院のベッドの中で、言葉を話せなくなった父が、最後に優しい目でさよならの挨拶をする。
「ありがとう…」という言葉が聞こえた…。

そして、もうすぐ7年目の命日を迎える。

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思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
                                                 マザーテレサの言葉より


    ©Social YES Research Institute / coucou

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coucouです。ごきげんよう!

最近、私は若き日のことを、よく思い出すようになりました。それは年を取ったせいなのでしようか?別に懐かしかったり、あの日に戻りたいというような感傷的なものではありません。

あの日、あのとき、あれだけ苦しかった出来事が、世の中を恨み、独りぼっちだった私。もう、この世から去りたいと願っていた、あの日。

悲しくて、悲しくて、とても寂しくて泣き続けた、あの日。

それが、数十年の時を超えた今、とても愛おしく、哀しく、素晴らしく光り輝いていた時代だったと感じるようになりました。

あれだけの酷い時代なのに、あの時が、私の人生の一番の大切な、かけがえのない時間だったと感じるようになりました。

それは、なぜ?

それは、社会を知らず、間違いをし、知識もなく、能力もない自分でも全力で力の限り、あらん限りの力を振り絞り生きてきた事実がわかるようになったからです。

ああ、あれだけ苦しくとも、今振り返れば、もしかすると、あれも幸せの一部だったのだのかもしれない、と……。

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