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205.うつくしく 名づけられて いのち  うつくしい おなじ名をもち いのち

1.月曜日生まれの子どもは器量がいい


月曜日生まれのこどもは器量がよい

火曜日生まれの子どもは品がよい

水曜日生まれの子どもは苦悩が多い

木曜日生まれの子どもは遠くへ旅立つ

金曜日生まれの子どもは気前がよい

土曜日生まれの子どもはあくせく働く


そして安息日に生まれた子は


かわいくて陽気 親切でほがらか


                  谷川俊太郎訳


2.うつくしいのは げつようびのこども


うつくしいのは げつようびのこども

ひんのいいのは かようびのこども

べそをかくのは すいようびのこども

たびにでるのは もくようびののこども

ほれっぽいのは きんようびのことも

くろうするのは どようびのこども


かわいく あかるく きだてのいいのは

おやすみのひに うまれたこども

                 マザーグースより


マザーグースって知っているだろうか?

《マザー・グース》の名前の起源はフランス17世紀の作家ペローが1969年~1697年に出版した童話集の副題が「がちょうおばさんのお話」となっていて、1929年に英訳された時、副題が「マザー・グース物語」と訳されたのが英語に登場した最初となった。

マザー・グース 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マザー・グース 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

その後、18世紀後半にロンドンの児童ものの出版屋ジョン・ニユーベリーが自分の編んだ童謡集を「マザー・グースのメロディ」として出版したのが、英国伝承童話集の代名詞として《マザー・グース》の始まりとなった。現在伝承童話として800編以上が集成されているという。

マザー・グース 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「書かれたおとぎ話を読み聞かせるマザーグース」と名付けられている一図である。ここでは、いつも読み聞かせてくれるのは(わたしたちの)優しいお婆さんであり、わたしたちの優しいお婆さんはマザーグースなのである。

※注マザー・グース (英:Mother Goose ) とは、イギリスで古くから口誦によって伝承されてきた童謡や歌謡の総称で通称。英米で広く親しまれている。元来は「マザーグースの歌(英:Mother Goose's rhymes)」といった。

次の「芥子(けし)の実ありき」は、coucouさんが関連している病院のクラークにいる女性のお話です。


3.芥子(けし)の実ありき

 

人が受け入れ難いものの一つに『二人称の死』があります。 

二人称とは、自分にとっての『あなた』。

大切でかけがえのない人のことです。

 

むかし、インドに幼い子どもを亡くした母親がいました。

母親は愛しい我が子を喪ったことに耐え切れず嘆き悲しみました。

何日もの間、気も狂わんばかりに泣き叫んでも涙は枯れず、悲しみは一向に癒えません。それどころか悲しみは増すばかりです。

母親は我が子の死をどうしても受容れることができませんでした。

そんなある日、母親はお釈迦様の元へ行き、どうか我が子を生き返らせてくださいと懇願します。

哀れな母親を目の前にして、お釈迦様は言いました。

「そうか、そうか・・辛かろう。そなたを悲しみから救えるか分らぬが、ひとつ芥子の実を探してみてはどうかな?」

母親は我が子を生き返えらせたい一心で、お釈迦様の言葉に藁をもつかむ思いでうなずきました。

お釈迦様は加えて言いました。

「ただし、死人が一人もでたことのない家から、五粒の芥子の実をもらってくるのですよ。」

 

そこで、母親が町へ出ると、すぐに芥子の実は見つかりました。芥子の実を分けてくれようとする家の人に母親は訊ねました。

「こちらのお宅では、誰か死んだ人はありませんか?」と。

 

すると家人は、

「昨年の暮れにおばあさんが亡くなったばかりだよ。」と言いました。

気持ちの急く母親は、気を取り直して次の家に向かいました。

けれど、その家の主も芥子の実はあるが、先月、妻を失くしたばかりだと言います。

次の家も、また次の家も、生まれたばかりの赤ん坊が死んだ、おじいさんが死んだ、夫が死んだと、どれだけ多くの家をめぐっても死人がでたことのない家はなく、たった五粒の芥子の実さえも見つけ出すことはできませんでした。

大切な人を喪うという悲しみを抱かぬ者はいないのでした。

けれどどうでしょう、母親の眼に映る人々は悲しみなど無いかのように見えます。みな幸福そうにさえ見えます。

そこで母親はやっとお釈迦様の御心に気づいたのでした。

「わたしは何と愚かだったのでしょう。自分の悲しみばかりに打ちひしがれ、何とかこの苦しみから逃れようと必死だった。母親のわたしがこんなにも悲しんでいたら、幼くして死んでいったあの子もさぞかし辛いことでしょう。ごめんなさい、許してね。」

そう思えるようになると、我が子のぬくもりが甦ってくるのです。

「ああ、ありがとう、わたしの許へきてくれて・・。あなたを授かったわたしは、なんと幸せな母親だったのでしょう。」

こうして母親はやすらかな涙を流し、死んだ子は母の心の内にしっかりと抱かれたのでした。



病院では人の死が身近にあります。

昨日お話していた患者さんが、あくる朝には亡くなっている。

元気になって退院されていく患者さんの傍らで、そんな出来事もしめやかに繰り返されます。

死亡診断書を医師から渡され、ご家族の手元に届くよう事務処理をするのがわたしの仕事のひとつです。

二十年近く務める間にどれほどの数、死亡についての診断が下されてきたことでしょう。

死亡診断書に目を落とします。

そこにはひとりの人間の死が証明されています。

死亡者氏名、死亡者生年月日、死亡日時、死亡場所、死因とされる病名、死亡診断医師名・・記載を確かめながら文字を追っていきます。

医師が記載すべき要項に洩れはなく、科学者としての看取りの使命が果たされています。

死亡診断書を携えて次の課へ赴くとき、透けるように薄いこのひとひらの紙を降り注ぐ陽にかざしたら、故人の人生が浮びあがるかしらと想うことも度々です。

 

医療の現場に勤めてまだ間もないころ、わたしは死の尊厳ということばを教えられ、心打たれたものでした。

それからの年月、終末期を生きる人たちの傍で過ごして実感するのは、死の尊厳は生の尊さに気づくということでした。

生命は死を、死は生命を、その懐に秘めているということです。

医療従事者は生命を健やかに保つべく助力をし、できる限り命が存えられるよう尽力するのですが、現代のどんな医術をもってしても死を回避することはできません。

最後の使命は看取りです。

死にゆく人に寄り添うことです。

診療、看護、介護、看取りのくり返しのなかで、医師、看護師、介護士たちが死を身近に感じない日はありません。

重症の患者さんを心配して、毎日お見舞いにみえていた家族の方がある日突然、患者さんを残して先立って逝くということだってあるのです。死の前では、若いから、老いたから、病だからと言い訳もつきません。

重厚と想えていた扉は、時がくればあっさりと開かれ、生命はためらいもなく、こだわりもなく、その場所へと導かれていきます。

 

 うつくしく

 名づけられて いのち

 うつくしい 

 おなじ名をもち いのち

 ことほぎの いのち

 すべてのものに

                  (寿命)いしいみえこ作 

4.死んだ後にも尊い贈り物

 

2年前、母方の祖母が103歳でこの世を去りました。

明治、大正、昭和、平成にわたる長寿を前向きに生きた人でした。

100年を超える歳月には、多くの苦難や悲しみもあったでしょうが、終生ほがらかに、日々を楽しく過ごしていたという印象を残してくれました。

人生の終焉を迎えるころには、小柄な身体がより小さくなって、よくぞこの身体で6人の子を産み育て、多くの子孫を残せたものと改めて感じたものでした。

 祖母の葬儀を終えて間もないころ、母がつぶやきました。

「幾つになっても、母親がいなくなるのは嫌なものだねえ・・寂しいよ。大勢の人を見送ったおばあさんも生前よく言っていたけど、本当にあの世というのは、よほど良いところなんだろうねえ・・みんな逝ったきり、誰あれも返っちゃこないんだから。」

大往生だったと胸をなでおろす一方で、身を分けてくれた母親との別れに、一抹の寂しさを感じてうるむ母の眼の奥には、あまたの慈しみが棲んでいるようでした。

こうして人が抱く寂しさや悲しみの質を手繰り寄せていくと、感謝という念にたどり着くのではないでしょうか。

人は大切な人たちへ贈り物をしながら生き、死んだ後にも尊い贈り物を残します。

出会えたこと、共に暮らせたこと、支え合えたこと、見守り合えたこと、ずっと変わらずに、わたしの『あなた』でいてくれたこと。

かけがえのない人を亡くして、喪失を感じない人などいないでしょう。何も変わらないなどということもないでしょう。

誰にも代わることのできない人だからこそ、喪う悲しみは深く、寂しさは計り知れない。同時に、それほどの人と共に生きられた奇跡を、生きられたという恵みを、わたしたちは平等に授かっているのだということを芥子の実は教えてくれます。

 

 たったひとすくいのこの命で

 たったひとすくいのこの一日を

 どんなふうに残したらいいのだろう

 千のことばでも

 万の想いでも

 言い尽くせない 表しきれない

 いましがた透ったこのときに

 ちいさな ちいさな芥子粒が

 ちいさな ちいさな虫たちが

 ちいさな声でささやきながら

 見えないものを

 聞こえないものを

 触れないものを

 この命に伝えてくれる

 西の彼方へ旅する陽の流れが

 過ぎ去るこのときに

 すべてのものに宿すひかり

 そんな大きなものを

 たったひとすくいのこの命から

 どんなふうに残したらいいのだろう

              (光るとき)いしいみえこ作

coucouです。みなさま、ごきげんよう!

死は、『今』を切に生きるということ。

時間は『いのち』、いのちは『今』

私は父と母の死亡診断書を今も持っています。

たかが医師が書いた紙切れ一枚だと思うのですが、それを処分することができません。それは出生証明書とはまるで違います。

この世に生まれたという証明書、この世から去ったという証明書。
この世は何でも証明が必要。

でもね、そこには父や母の名前と同時にこの世を去った時刻まで記載されているのを見ると、人間が勝手に考え、勝手に決めた時間なのですが、じっと見入ってしまいます。

いずれ私もこの死亡診断書という卒業証書をもらうのでしょうね。でも、私はそれを手にすることができません。きっと、誰かが手にして目にするのでしょう。

たったひとすくいのこの命で

たったひとすくいのこの一日を

どんなふうに残したらいいのだろう


今日も、最後まで読んでくれて

みんな~

ありがとう~




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