33.私、じっと、鏡の中の大っ嫌いな自分を見ると腹が立つのです!
「鏡の嫌いなわたし」
どこの家にも鏡があります。
朝顔を洗い、歯を磨き、髭を剃り、女性はお化粧やヘヤーセットで大忙し。男性より女性の方が鏡に向かう時間が多いですね。
でも、この鏡というのは自分の顔や姿を映し出すだけではなく、もう一つの世界、もう一人の自分が見る世界です。
じっと、鏡の中の自分を見つめます。
すると、映った自分の姿は素直に正直に反応をしてくれます。
疲れた時は、疲れた顔、やつれればやつれた顔、悲しい顔をすれば悲しい顔、怒った顔をすれば怒り顔、楽しそうな顔をすれば楽しい顔になります。
鏡は嘘をつきません。
きっと正直なのですね。
しかし、道具としての鏡は必要不可欠なものですが、それ以外は、あまり好かれないようです。どうやら、正直者の鏡はそんなところが嫌われているのかもしれません。
じっと鏡の中の自分を見ると腹が立つ人もいます。
誰が見ても美しい人なのに、その鏡の中の自分は大嫌いだという女性がいます。年老いたシワだらけの自分の顔、髪の毛が薄くなった自分の顔、顔全体が年と共に変化する自分の顔。どんどんと嫌いになって行きます。
しかし、それは鏡のせいではありません。
鏡はただ、真実を見せてくれているだけなのですから。
こんな鏡のお話があります。
マリーは鏡を見るのが大好きな子です。
鏡はとても不思議。
自分が普段から眺めている世界なのに、鏡から見る世界が違うからです。
どうしてでしょうね。
もうひとつ大好きなことがあります。
それは、マリーには友だちがいません。小さな時から病気がちで外に出られず、誰ともお話ができませんでした。
そこで、マリーは鏡の中に映る自分とお話をすることを思いつきました。
そうすると、毎日が楽しくなります。
ママのことや仕事で忙しくて会えないパパのことをお話しするのです。
鏡はマリーの友達でした。
「マリー、元気。今日は楽しいかなあ、何か良い事があるかなあ…」
このように話を続けます。
ある時は鏡の中の自分に本を読んだり、一緒に音楽を聞いたりします。
でも、とても悲しい時があります。
それは、パパが仕事で何か月も帰って来ないときです。
そんなときは、ママも寂しそうです。
家族が三人揃うとき、その大きな鏡の前で三人が頬を寄せ合い記念写真でも撮るかのようにポーズします。
鏡の中にいる、パパとママに話しかけます。
「パパ、ママ、愛している」
「ママもパパもマリーを愛しているよ」
とても楽しいひとときでした。
しかし、マリーが11歳になった頃、パパは戦死してしまいました。
その後、ママは18歳の頃に肺炎でこの世を去り、マリーはママの妹のおばさんところに預けられ暮らすことになりました。
何もかも想い出を置いてきてしまいましたが、無理をいって大きな鏡は持ってきました。
しかし、マリーは、その大切な鏡にシーツをかぶせて見えなくしてしまいました。その理由は、いつも鏡の中の自分が泣いているからです。
鏡に映る自分の姿が悲しすぎて見なくなったのです…。
やがてマリーは素敵な男性と出合い、結婚し、二人の女の子に恵まれました。そして、シーツが外された鏡の中に優しい夫と可愛い娘二人と四人で記念撮影をしているかのように映し、話しかけました。
とても幸せそうです。
マリーは鏡の前で子どもの頃のことを娘に、こう話ました。
「この鏡はね、私のママとパパが住んでいるのよ。
私たちもここにいるの。
嬉しいとき、楽しいとき、この鏡の中にいる自分に話しかけてね。
〈よかったね〉って。
自分が負けそうになったとき、
〈がんばれ〉〈負けないで〉って。
とても悲しい時は、
〈わたしはわたしを愛しているよ〉〈大好きだよ〉って。
間違えたことをしたとき、悪い事をしたときは、
〈ごめんなさい〉って心から謝るのよ。
苦しい時は〈大丈夫だよ〉〈きっと良くなるよ〉ってね。
嫌なことがあったらその〈嫌なこと〉を話しなさい。
そしてね、〈鏡さん、ありがとう〉って言うのよ。
そしてね、〈人生はどんなに年老いても素晴らしいもの〉と言うのよ。
人は、悲しい顔をすると、悲しくなるの。
不幸な顔をすれば不幸になる。
でもね、楽しい顔をすると楽しく、幸せになれるのよ。
鏡には魔法の力があるわ」
ほとんどの人は、自分の姿がわかりません。
他人のことは良くわかるのに、意外と自分のことがわかりません。
ですから、自分が見ている世界だけが真実かと思い込んでしまいますが、そこには〈もうひとつの自分の存在〉があることを認めなければなりません。
それは、自分が考え、思っているほど相手はそう見ていないということです。
つまり、自分の姿ほど自分が勝手に決めつけているイメージとなっていることです。
例えば、誰にも、欠点がありますね。
しかし、自分が考え、思う欠点ほど他人はそう思っていない、ということです。逆に、その欠点は長所の場合が多いものです。
前回の「不機嫌なわたし」のように、自分では笑っているつもりなのに、他人から見たら怒っているように見えたり、いつも不機嫌な顔に思われたり、そのために敬遠されたりもします。その点、写真や、鏡などはその姿を冷静に正しく映されます。
ある人は、自分の姿を写真で見て、「これはオレの顔じゃあない…。映し方が悪い…」と真実を認めようとしない人もいます。どうやら、笑顔や表情は意識(努力)する必要性があるようです。「私は自分の姿が映る写真は嫌い、だから見るのも嫌だ…」という人も多くいます。
マリーは子どもたちに教えました。
「いいわね、鏡に映った自分に、〈ありがとう、わたし〉」と話すように伝えました。
そして、
「鏡の前では涙を拭いて、ニッコリと笑顔でいなさい、その笑顔はあなたを笑顔にしてくれるから…。手を振ってもいいわよ、必ず手を振りかえしてくれるからね。あなたの一番の友だちは、〈あなた〉なのよ…。だから、大切にしなくちゃね」
さて、今日のあなたも不機嫌な顔をしていますか?
それとも、笑顔ですか?
幸せですか?
〈ありがとう〉と自分に話していますか?
さあ、笑って。
「笑ってください!わたしのおかしな、不可思議なおはなし」
私は子どものころ、鏡が嫌いでした。夜中になるとその鏡から手や足が出てくるのではないか?誰かが鏡の向こう側から私を覗いているのではないか?家の中に誰もいないとき、暗闇の中にある鏡が何かに反射したりするのが怖かったのです。特に怖かったのは、眠るときに父や母が、いつもそばにいないことでした。私はただ怯えていた子ども時代でした。
鏡って不思議に思いませんか?どんな科学的な光の屈折だの反射だとといわれても、自分の姿が映し出されます。子どものころはよく手を伸ばして自分の手に触れようとしました。
でも、右手で鏡に触れると、鏡の中では左手になります。左手で触れるとその手は左手となるように、あべこべになります。例えば、本を手に持つと反対の手に本があり、その本の表紙のタイトルなどはさかさまになります。時計なども見にくくなりますね。とても当たり前のことなのですが、鏡に映るもう一人の自分は、逆の世界にいるわけですから、本当の自分ではないような気がするのです。
ですから、私は鏡に映る自分は、もう一人の自分、別人格の自分のような気がするようになってから恐怖心がなくなりました。
最近になって、少しばかり、鏡の中の自分に対して優しくなったような気がしています。
coucouです。note初めてもう少しで1か月目を迎えることになりました。みなさんの応援と励ましにはいつも感謝しています!ありがとう!ごきげんよう、今日も素敵な一日でありますように!
さあ、笑って!
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