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「お仕事何をされているんですか?」に身構えてしまう。魯迅『故郷』の教えとともに

友だちと会う約束して当日会うまで暗澹あんたんとしてしまう。当日になって友だちと会えばそのようなことを忘れて、享楽の時間をすごしている。会う約束を取り付けた瞬間は、天にも昇る心地なのだが、時間が経つにつれて「あわよくば中止の連絡こないかな…」と少し期待してしまう。約束したときは行く気あるし行くと楽しいのに、当日を迎えると憂鬱な気分になってしまう。僕は大人なので、体調に問題なければ約束はちゃんと守る。これは僕だけに起こる問題なので、相手にとっては知ったことではない。

きたる4月3日、大学時代の同期と2年ぶりに会ってきた。グリニッジ標準時間でいうところの2:30に、東京駅のオアゾ内にある丸善に向かう。

東京駅。せっかくなら正面から撮りたかった。
丸の内オアゾ

時間になり、約束していた友人と合流する。

久しぶりに会う友人と会った時の第一声といえば「元気にしてた?」とか「最近仕事の調子はどう?」のように、お互いの近況を報告し合うものだが、我々は違った。

簡単に挨拶を済ませ、第一声に友人が言う。

「持統天皇の人物叢書出てたんだね」

だった。


「うわ!直木孝次郎じゃん!!!」と言うので

「え、なに?有名な先生なの?」

「古代史を研究してたら必ず出てくる大御所の先生だよ!」

会って1分も経たないですでにこういった会話がなされた。

本屋にて1冊の本に3人群がってあーだこーだ言い合ってる友人たち。さすが、学問を共に深めあった仲だと実感する。


ここで1つ考えたことがある。

久しぶりに会った友だちから「仕事の話」とかされたらもう友だちではない。

仕事を通じて知り合った友人なら「最近調子どう?」と言われるのはわかる。”仕事”を媒介しているだけあって、そういう話になるのは至極当然である。しかし、学生生活の中で知り合った友人が数年のときを経て、仕事やビジネスの話をしだしたらどうだろう。

あぁ、あの頃の仲に戻れなくなってしまったなぁ

と、寂寥感に苛まれる。魯迅『故郷』に出てくる「私」と同じ気持ちである。

久しぶりに再会した幼なじみは、かつて僕の英雄だった頃の輝きを失っていた……切なさと次世代への期待に溢れる「故郷」
魯迅『故郷』あらすじ Amazonより

主人公の「私」は20年ぶりに故郷へ帰ってきて、幼馴染の閏土るんとうと再会を果たすが

立ち尽くす彼の顔には、喜びと寂しさの色が入り交じり、唇は動いたものの、声にならない。やがて彼の態度は恭しいものとなり、はっきり僕をこう呼んだのだ。
「旦那様!…」
僕は身ぶるいしたのではないか。僕にもわかった、二人のあいだはすでに悲しい厚い壁で隔てられているのだ。僕も言葉がでてこなかった。
魯迅著、藤井省三訳『故郷/阿Q正伝』(光文社古典新訳文庫) Kindle版 位置No.724-725

中3の国語の授業で読んだ魯迅『故郷』の主人公の気持ちってこうだったのか。どんなに付き合いの長い友人でも、時間的隔たりと身分格差によって、人間関係を劇的に変えてしまい、仲の良かったあの頃に戻れなくなってしまう人間関係は寂しいものがあるという、古典の教えというのは正しいことを実感する。

なぜ休日に時間を割いて会う友人とそういう話をしないといけないのか。友人といえど、相手がどんな仕事してるかってそこまで気になるだろうか。そういえば、はじめましてで会う人も決まって

お仕事何をされているんですか?

と聞かれる。「普通に会社勤めしてますよ」と言っても「何の業種ですか?」と、やたら仕事のことを聞いてくる。

「事務やってます」「SEやってます」「公務員です」と言ったとて、相手の印象が変わるのか…?暗に経済的地位や社会的地位を見られているような気がして、それで僕はもうその人と関わるのが億劫になってしまう。

僕は別に隠しているわけではないので、聞かれたら普通に答える。1度あったのは「お仕事は何をされているんですか?」と聞かれ、普通に答えて、「ちなみに〇〇さんは何を…?」と聞くと

個人事業主やってます

便利な言葉になってしまったと感じる。「個人事業主」とか「フリーの○○です!」と言われても、僕は個人事業主でもフリーランスでもないので、「結局なにをやってる人なの?」となる。その点、そういった話をしない友人やオフ会で知り合った知人は非常に好感が持てる。

僕には「友人」と呼べる人は3人しかいない。でもそんな友人は、2年ぶりに会っても「あの頃の仲を思い出させてくれる」ものが今でも続いている。

そんな友人と回らないお寿司屋さんに入って、談義をくりかえす。

2年という期間の隔たりが何事もなかったかのように話は盛り上がった。おそらく魯迅『故郷』は、変わりゆく人々の心情や人格、身分を感じて生きていかないといけない中国の現状を伝えてくれているものだったに違いない。

ぼんやりとしている僕の目の前では、一面に海辺の深緑の砂地が広がり、頭上の深い藍色の大空には金色の満月がかかっている。僕は考えたー希望とは未来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
魯迅著、藤井省三訳『故郷/阿Q正伝』(光文社古典新訳文庫) Kindle版 位置No.808

どれほどの長い付き合いの友人であったとしても、社会的地位や経済的地位が変わっても、それを気にせずに生きられるような友人が一番かもしれない。どんなことがあっても、人同士が互いに心を通わせ合うことのできる未来がいつかくればいいと思う。

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