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映画「悪は存在しない」感想

「悪は存在しない」

非常に知的な作品だと感じるし実際そうなんだろうけど、
エモいかエモくないか、という部分で言うとさほど乗れず。

それはドライブ・マイ・カーでも思ったことなので、映画に何を求めているか、という部分でのマッチング不全ってなとこでしょう。

展開や場面や演出の「意味」「効果」ってのはある程度つかめますし、
へえー、すげえなー、と感心はするんですけどね。

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以下、思いつくままに単発の感想を。

・タバコを吸うシーンがいい。巧がただ立ってタバコをふかしてるところの無意味さというか、何も語ってこなさというか。

・コンサルと社長がステロタイプで、さて、あれはあれでいいのでしょうか。若干肩透かし感があった。会合のシーンが終わり、場面が切り替わり、東京の街並みが写ったときに予想できること、をそのままなぞった印象がある。高橋編に切り替わるなら「どうせふざけたコンサルとふざけた社長の間で板挟みになるんだろうな」と思っているとそれが起こるので、眠くはなる。

・水くみシーンの長さ、だるさ、に意味があって、意味があることが個人的にはちょっと覚める。
これは贅沢というか天邪鬼な感想かもしれないけど。
序盤にクソ長い水くみシーンがあって、せっかちな私としては「わかったからさっさと終わらせろや!」と思ってしまうんですけど、
あそこでおっさん二人が、わさびがどうの、以外の会話をしないことで、キャラクターの紹介にもなっている。
無駄話をしてコミュニケーションを取るタイプの人種ではないことがはっきりわかる。
そういう「効果」があるのがなんというか、小賢しい。
また、うどん屋のシーンで「人手ならあるから」というセリフがあって、
あそこで観客から笑いが起こったんだけど、あれは前半にクソ長い作業をみているから笑えるのであって、単に水くみを手伝う、のではなく「あの作業」をさせられるんだな、というのがわかってしまうから笑えるんですね。
つまりあの「長さ」に意味があるんだね。
そういう、意味がある(またはありそう)なことが多くて、それがなんかしょうもね、と思ってしまうんやね。
結果的に意味を持った、ならわかるんだけど、そのへんは好みだろうな。
このようなパズル的な映画が好きな人はたくさんいる。

・だるまさんがころんだ、についても同様。あそこで子どもたちがどうしてもあれをやりたくてやってる感が無い。
やらされてるんだろうな、ここで動かない子ども、みたいな画をいれるがために、だるまさんがころんだをさせられてるんだろうな、と感じる。

・音楽がぶつっと切れるのも不快で、「不快だと思わせるためにやってる」と感じられるのもさらに不快です。
なんとなく切っちゃった、気分で音楽終わらせちゃった、ならギリわかるんですが、どうせ考えてやってる。
そんなふうに安心してたら音楽なんて突然終わるよ? 何油断してたの? 人生なめてんの? みたいなことを言われてるようで不快。
夢の中で楽しませてくれたっていいだろ、ケチ。という気分になります。

・花が死ぬ(私は死ぬと捉えた)のはある程度予期できる。それは予期できるように作られている。たとえば、一回目のチェイスシーンでカメラが横スライドで巧を追うが途中で前が遮蔽され見えなくなる。巧が見えなくなってもカメラは横移動を続け、最終的に花をおんぶした巧が出てくる。
あれなんかは、あきらかにあの森は安全でも暖かくもなく、ある意味ダンジョンというか迷宮というか、入っちゃいけない場所であるように感じられる(ように撮られている)。そういう場所に迷い込み、今回は無事に出会えたが、次はどうなってもおかしくねえな、と思える仕組みになっている。
したがって、高橋と黛と水くみをしたあとに「あっ、いっけね」と巧が頭をおさえたところで、「ああ、やっぱ死ぬんやな」と覚悟した。
そっからは死体探し、ということになるので、あんまドキドキはしないすよね。いや、まあ、死ぬお話だね、と。

・最初と最後について。
最後の展開の率直な感想は「はあ?」であって、特に必然性を感じなかった。
「高橋の相手してないで花を助けに行けや」という意見もあろうが。
私としては、あの編集のごちゃごちゃ感の中で一応の時間軸はとらえており、

① ひとり迷った花が鹿の親子と遭遇する
② 鹿は撃たれている。
③ 花は鹿を心配して手を差し伸べる。
④ 鹿は花を敵とみなし角で刺し殺す。
⑤ 花はその場に倒れて死ぬ。
⑥ かなり時間がたって(翌日?)巧と高橋が到着する。
⑦ 巧は倒れた花を認識する。

というふうに感じた。
つまり、ちょうど花が鹿に襲われるところに出くわしたのではなく、
死んだ花を巧たちが発見する、という流れかなと。
じゃあ、鹿がいた画はどうなんねん、ということですけど、
それは巧の想像という解釈(つまり、花がなぜそこに倒れているか→鹿にやられたんだ…)でもいいし、科学的じゃないけれどもなんらかの残像と考えてもいい。
ともかく、巧と高橋が見たのは花の死体だった、というそういうふうに思います。

よって、あとから理屈を考えるならば、鹿が花を殺したのと同じ理屈で、巧は高橋を殺した、と捉えることもできるなあ、と。

鹿は「花が撃った弾」があたったわけではなく、花単体には何の落ち度もないわけでして、しかも、逆に手を差し伸べようとしているので味方なわけですね。
でも鹿にとってはそういう理屈はぜんぶふっとばしたうえで、鹿を撃つという現象を引き起こした「きみら」が悪いよね、と人間チームをぶっ殺すという意味で花を殺した可能性はある。
で、巧と高橋の関係性も同じで
巧にとって、花が殺された直接の原因は鹿、である。
だが、それは理屈であって、そういう理屈をぜんぶふっとばしたうえで、花が死ぬという現象を引き起こした「きみら」が悪いよね、という理屈で開発チームをぶっ殺す、という意味でとりま高橋を殺したという解釈もできるのかな、と。

これはたぶん、正しい正しくないのはなしではなく、
作り手からしたら、これを見て何を感じるかはあなた次第ですし、あなたが感じたもの、あなたの解釈がそのまま答えです。
てな話になるんだと思う。
だから卑怯だなと思うし、しゃらくせえな、とも思う。

そういう「幅」を楽しめるほどには、全編通して俺はそこまでもてなされてないなと笑。

やっぱ、めっちゃ楽しませてくれて、最高やなこの映画、と思わせてくれてたら、ラストも
「ひー、なんて展開だ、すっげえ!」
となるんでしょうけど。さほど、だったもんなあ。

で、冒頭の森長回しなんですけど、確か一回か二回、巧の声が入るんですね。咳払いみたいなうめき声みたいな。

なんで、ひねくれた解釈ですけど、冒頭の画ってのは、ラストの続きなんじゃないかね、と。
ラスト、死んだ花を抱いて巧は森の中に消えていく。霧が晴れていく…
その後、森の中を進んでいくシーンじゃないのかな、とか。

じゃあ真上を見上げてるのは誰視点やねん、ということですが、それはまあ、死んだ花視点じゃないすかね。
死んでるけど。

カリートの道、という映画があって、
あれは冒頭、アルパチーノが撃たれて担架にのせて運ばれていく。
そのアルパチーノ視点で、駅の天井の蛍光灯がずーっと映されるシーンがあるんよね。
映画のラストも同じシーンでして、(終着点がこことわからせて始めるパターン)ラストでやっぱ撃たれて運ばれていく。そして天井の蛍光灯が流れていく。

まあそんな映画の画とすこしかぶるので、今作はなんとなく冒頭から、怪我した人かなんかが、ソリに乗せられて森の中をひきずられていく、
その怪我した人視点なんかなあ?とか思ったりしてました。

だから無理に当てはめるなら、死んだ花視点としておこう。

で、だから何が面白いの?
というのがこの映画というか、濱口映画とのマッチングであると思われ。
私には、あんまそういう映画をかみくだいで出てくる汁をちゅうちゅう味わうようなチャンネルがないんだな、と。
そう思うわけです。

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