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現実が夢ではないことをどう判断するか?


こんにちは。シロクマです。


突然ですが、今まさにこの記事を読んでいるあなたはどうやって"この瞬間"を「夢ではない。」と断言できますか?


この問いに対して、アメリカの4歳の少女がこう回答していました。


「Cuz I'm thinking (考えてるもん。)」(なるほど...)


「我思うとこに我あり」ということですね。


近年、技術の進歩により、数十年前の世界では考えられなかった"自由な選択"をすることが可能になっています。


社会から溢れ出るほどの自由から、私たちは"自由意思"に従い人生を歩んでいます。


自由とは、「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。」とありますが、今回は、この自由にまつわる、"現実と夢の区別の錯覚"に関して話ができればと思います。


自由の裁量


まず自由の中には、与えられているものと与えられていないものがあります。


★与えられている自由★

ex) 結婚する。食事をとる。選挙に行く。

私たちは、したいときにこれらの行動をとることが可能です。


✖与えられていない自由✖

ex) 寿命がある。重力がある。

これらに逆らって自由に生きることはできません。
(※将来的に与えられるかもしれません※)


過去と現代で上記のような自由に大きな差はないでしょう。


しかし近年、この自由という概念が変わりつつあります。


なぜなら、現実と夢の境界線がわからなくなっているからです。


半世紀前の人たちは、自由にできることとできないことの分別能力が現代人よりもはるかに備わっていたでしょう。


それは、現代のような無数の自由が存在していなかったからです。


しかし、急速なインターネットの発展は我々の生活形式に大きな変化をもたらしました。


今や、人間が想像できることは、人間が必ず実現できる。とまで言われている時代です。


その結果、人々の脳内では現実と夢の錯覚状態に陥ってしまっているのです。


自由が増えるということは、自由な"意思"が増えることを意味し、"社会の複雑性"もそれに比例して肥大化してしまいます。


インターネットが発達し過ぎたデメリットとして、人々のそうした自由意思が、SNSというプラットフォームで容易に"対立"を生み出し、"闘争"へと発展させることです。


我々はあたかも、インターネットを通して見たい情報を見たいタイミングで閲覧しているかのように思い込んでいますが、実際は見たい情報しか見ていません。


また、SNSでは完全な"法の支配"は及んでおらず、いかなる場所からでも対象者を攻撃することが可能です。


対象者を攻撃するための組織を結成することも同じです。


憧れや、自身と共通点を持つ人には好感を持ち、そうでない人には、攻撃や情報のシャットダウンを徹底する。



人間は、他人と居ることを好みますが、他人と居ることを嫌うこともあります。



人は他人から抱かれるイメージに満足できないからです。



どれだけ意見を正当化しようが、どれだけの美貌を手に入れようが、万人からの指示を受けることは不可能です。


それは、自身の自由意思のみならず、他人の自由意思が存在して社会が成り立っていることを意味しています。


他者の自由意思は、自分が自分であるために必要不可欠な要素ですが、自らのイメージを損なう可能性もあります。


私たちは、お互いを写し合う、常に不完全な存在であるのでしょう。



最後に


自由に生きることは個人の自由であり、何人も誰かに強制されるべきではありません。


しかし、自由に生きすぎて優先順位を間違えては肝心なことを見落としがちです。


無限に溢れる自由から選択した行動が、あなたや周囲の人間に大きな影響を及ぼしていることを再認識する必要があるかもしれません。


現実と夢を錯覚していては、大事なものを見落としていることに気が付かないためです。


他人の自由が羨ましくなり、同じような自由を求めても、果たしてそこに理想の自由はあるのでしょうか。


現実と夢の違いを分かっていても、見分けることは至難の業ではないかと感じました。


最後まで読んでいただきありがとうございました。



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