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日本人へ 危機からの脱出篇 (塩野 七生)

(注:本稿は、2014年に初投稿したものの再録です)

 この塩野さんの「日本人へ」のシリーズは、1作目の「リーダー篇」、2作目の「国家と歴史篇」ともに以前読んでいます。

 本書は、その3作目。現代社会の「危機」に対する構えについて、例のごとく塩野さん一流の歯切れのいい主張が紹介されています。

 具体的な内容は「文藝春秋」のコラムをベースにしたものなので、その時の世相を反映した小文の集合体という体裁です。採り上げられているテーマは、やはり、イタリアや日本を舞台にした政治的なものが多いですね。

 たとえば、「世界中が『中世』」というタイトルの章では、多くの国家が集う国際会議を材料に、そのなかでのリーダー役の要件について論じています。

(p58より引用) 『ローマ人の物語』を書きつづけている間頭からはなれなかった想いは、「勝って譲る」という、あの人々に一貫していた哲学だった。勝ちつづけながらも、一方では譲りつづけたのである。ローマが主導して成り立った国際秩序でもある「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)とは、この哲学の成果であった。
 結局は譲るのだったら、始めから勝つこともないのに、と思われるかもしれない。だが、勝つことは必要なのだ。なぜなら、他の国々に、主導されることを納得されるためである。

 このあたりの着眼や言い回しは、まさに“塩野流”ですね。

 もうひとつ、新首相(当時は民主党)のリーダシップについて語ったくだり。
 日本大震災直後の東北地方の復興プロセスにおける政治&政治家の役割を指摘しているのですが、短いフレーズで的確ですね。

(p112より引用) 政治とは、窮極のインフラストラクチャーである。インフラを整備するところまでが政治の分野で、それをどう活用するかは国民各自の自由。・・・自らの守備分野を冷徹に認識できたとき、人は「凡」から脱せる。つまり、政治家志願者から政治家になる。

 こういった視点にみられるように、本書では、前著からの流れを引き継いだリーダー論・統治論を綴るにあたって、「東日本大震災という未曽有の大災害に直面した日本の政治・社会」という切り口が加えられています。

 その中から、特に私の印象に残った部分をご紹介しましょう。

 仕事で日本に帰国した塩野さんは、自分の目で見るために震災の被災地を訪れました。
 現地の宮城県庁がれき処理担当の方との話は、塩野さんにとっては、何とも情けなく、また、居たたまれないものだったようです。

(p160より引用) もう一つ心に残ったのは、私たちはお願いする立場ですから、という言葉だった。あの未曾有の大災害に耐えてきた人々に、お願いする立場ですからなんて言わせて、心が痛まない日本人がいるのだろうか。いたとしたら、どんな顔をして、がんばろう日本、なんて口にできるかと思う。
 がれき処理は、日本人全員の問題である。・・・私に話してくれた係の人は、東京都が引き受けてくれると知ったときは涙が出たと言った。こんなことで涙を流させては、日本人の恥ではないか。

 当時の東京都の対応についての報道です。

「東京都が東北以外の自治体で初めて、東日本大震災で発生した災害廃棄物(がれき)を受け入れて処理を始めたことに対し、都民らから反対の声があることについて、石原慎太郎知事は4日の定例会見で「(放射線量などを)測って、なんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい」と語った。・・・石原知事は「放射線が出ていれば別だが、皆で協力して力があるところが手伝わなければしようがない」と指摘。「皆、自分のことばかり考えている。日本人がだめになった証拠だ」と述べた。(2011.11.4)」

 私は、石原前知事の基本的な政治観について賛同するものではありませんが、このケースは、言い方はともかく、あるべき姿に向かったひとつのリーダーシップの発揮形態として評価されるべきだと思いますね。

 最後に本書を読み通しての印象です。
 今後の塩野作品としては、小文の再録ではなくて、それなりのボリュームでの随想を期待したいです。本書を含めた3部作は、元が雑誌のコラムであるがゆえに、その執筆時のトピックを意識したタイムリーなものなのですが、そういう時勢に囚われない “真正塩野的「日本人論」” をゆったりと説き起こして欲しい気がしました。



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