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ノルウェイの森

私にとって、とても身近な大きな存在だった人が逝ってしまった。
突然亡くなるのと、長い闘病の末に亡くなるのと、
どっちがいいかなんてことを話し合ったり考えたりしたことがある人は多いと思う。もちろん私もある。
答えは簡単で、どっちがいいとかはなく、まだ生きていたいと思っていた本人にとってはどちらにしろ不本意なことだ。
ゆっくりとお別れする心の準備ができる時間が持てた方が後悔が少ないとか、
苦しむ姿を見ないであっという間にという方がいいとか。
結局どちらも当人ではなく周りのエゴだ。
それでも遺された人は、自分目線で考えて何とか乗り越えていく術を見つけるしかないのかも知れない。
コロナの情勢のせいで、その人の闘病の最期は、あまり人に会えないままひっそりと逝ってしまった。
お葬式も家族葬にするらしい。
「本人は痩せ細った最期の姿じゃなく、元気な姿を覚えていてほしいはずだから逆に良かった」と、さも本人の気持ちを代弁するかのように、周りの人は勝手にそう言いはじめる。
逆になんてないし良くはない。死人に口なしだ。
私は、「そうですね」とは言いながら、そうやって目の前で起きている事柄全てを、
一人一人の死への向き合い方や悲しみ方を、
見逃さないように注意深く、だけどそっと静かに、
あくまで一つの事柄として見る。
ただその事柄を体験する。

誰かの死に対面したら必ずこの言葉を頭で繰り返す。

"死は生の対極としてではなく
その一部として存在している"

村上春樹の『ノルウェイの森』の言葉。

唱える。噛み締める。唱える。
全てはその後。

死も悲しみも喪失感も変わらない日常も
生の一部だということに
向き合っていくために、
まずは唱える。言い聞かせる。

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写真は、
フランスの晴れた日の丘の上の十字架と
フランスの森を抜けた先に雨が止んで見つけた十字架

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