見出し画像

七夕なので 〜マチネの終わりに〜

よく行くスーパーマーケットで、七夕の笹を見かけた。
私は下世話な部分を持ち合わせている人間なので、神社に行くと人々が絵馬に何を願って、書いているのか見るのが好きだし、スーパーの七夕の笹の短冊を見るのが好きだ。
例外として、病院の七夕の短冊は読まないようにしている。1つ1つの願いの重さに、見ると辛くなって泣きそうになるから。
だから、スーパーにある笹はちょうどいい願い事が書いてあって見るのが楽しい。「サッカー選手になれますように」とか「○○くんとずっと一緒にいれますように」とか読んで、へぇーっ…と感心して人の心を知るようにしている。
でも、今年のスーパーの笹の短冊には、「コロナがきえますように」「コロナの人がなおりますように」「学校に行けますように」「せかいが元に戻りますように」と、子供の字でも大人の字でも書かれていた。子供はもっと馬鹿馬鹿しくて自分の小さな世界の願い事を書けばいいのに、今は子供にそういうことを願わせる世界なんだなぁとなんだか悲しくなった。
私の願いなんて、
①早く旅に出たい、
②帰国したら、PCRを何回でも綿棒を鼻にブッ刺すから、2週間の隔離というルールが撤廃されますように、
③お金持ちになりたい、
④あと8kg痩せたい
このたった4つしかない。
だけど不要不急な願い事ではないので、短冊には書かずにそっと世界平和を祈ります。

七夕といえば、
七夕って梅雨時期だから雨が多い。織姫と彦星は年に一度しか会えないのにかわいそうだ。
私とスタンは年に一回しか会わないような、もう恋人とは呼べない関係だけど、コロナのせいで今年は会えないし、もうこれから会うことはないかも知れない。
20代の「いつも会いたい!」「24時間好きって言ってて!」と言った赤名リカみたいな恋愛至上主義タイプでもない、40代半ばに差し掛かり、結婚したくなくて子供も産むつもりもない、そこらに恋愛がもう転がっていないタイプの私は、年一ペースで好きな人に会うのはそれほど苦ではない。いや全く苦ではなく、むしろ都合がいい。
それでも、最後にベルギーで一緒に過ごした時に、一緒に生きていくのは無理だという話をして、お互い自由になることにした。時々、連絡はし合っているし良い友達関係ではあると思うが、彼が誰かと出会って上手くいけばいいなとも思う。

かと思えば、以前読んだ平野啓一郎の小説「マチネの終わりに」では、(以下、※ネタバレあります)
40歳の洋子は婚約者がいるのに少し年下のギタリストの蒔野と出会い、お互いに6年間でたった3回少しの時間しか会っていないのに、しかもその間にそれぞれ別の相手と結婚して子供もいるのに、お互いにずっと思い続ける、なんて信じられないようなラブな話があった。織姫と彦星もびっくりだ。しかし、そこはあくまで小説の中の話だなと思う。

あと、小説の中で、
過去は変えられないってよく言うけど、これから先どう生きてどんな未来になるか次第で、過去は変えられるという話がすごくいいなと思った。

人は変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。
だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。
変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。


洋子の庭にある大きな石は、洋子にとって、子供の頃おままごとをしていた楽しい思い出がよみがえる石だったが、何十年後かに祖母が転んでその石で頭を打って亡くなったことで楽しい過去が変わってしまった、という話があった。
過去っていうのは、未来によって意味が変わる不安定なものということがとてもよく分かると思った。
ある出来事はとても悲しい思い出として残っていても、未来次第では、とてもいい思い出に変わるかも知れないと思えれば色んなことは乗り越えられるかも知れないなと思う。コロナで大変な今も、先の未来から振り返って、今が何かのいいターニングポイントになっていればいい、と子供の短冊を見て思った。

だけど、年に一回会えるか会えないかという人を思い続けることはできても、お互いに思い合って、先の未来で結ばれるというのは甘めの小説か神話の中でしか無理な話だよなと七夕の日に改めて思う現実主義の私。
短冊に願わずに、自分で頑張って努力して痩せようと思う。



この記事が参加している募集

#読書感想文

191,896件

サポートしていただければ、世界多分一周の旅でいつもよりもちょっといいものを食べるのに使わせていただきます。そしてその日のことをここで綴って、世界のどこかからみなさんに向けて、少しの笑いを提供する予定です。