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観音経6ヶ月目

観音経の読経をはじめて、
もう6ヶ月が経過しました。

一日2回から、3回にすると、
徐々に読めるように
なってきました。

唱える回数、多い方がいいです。

観音経は般若心経とは
また違う気持ちに
なるのが不思議です。

観音経はとても長いと
思っていたのですが、

だんだん読めるようになると、
長いとは思わなくなってきました。

むしろ読んでいる時の心地よい感じが
出てきて、もはや観音経なしの
生活って考えられないくらい。

文章の内容は全然わからないのですが、
わからないままでいい。

最初のころは、10分近くかかっていた観音経全文ですが、

今では7分くらいで
読むようになりました。

自分なりに早いペースですが、
とてもいい感じです。

早めに読むようにしたのは、
生じてくる雑念を振り
飛ばすためです。

視線は文字にだけ集中し、
目線を文字に完全固定、ロックした状態のまま音読する。

無理がない程度の早めの速度で
読むようにしました。

ある程度速さがあると、文字を追う目と読みあげる声で
雑念が入る隙がない。

はじめは読むのは間違える、
雑念入る、など全然でした。

でも雑念あれば、別にそれでもいい、
と思うようになって、

力まずに読むように
なっていきました。

毎日続けると、
だんだん無心で読めるように
なってきました。

般若心経より10倍くらい
観音経は長い気がしますが、

だんだんと文字を追う目、
読む筋肉でもついてきたのか、

多少は覚えてきたのか、
読むのは楽になってきました。

読経って文章は長く、
息を吐き切る状態に
なりやすい。

吐き切って空気を吸う、肺やお腹、喉など、いろいろな
部分の筋肉が一気に鍛えられる
ように思います。

目線を文字に合わせて
たどっていけば、文字にだけ
集中できるようになる。

実は瞑想もできている、
ってことに気がつきました。

瞑想、ってこれまで何度もやってみたことがあります。

ただ黙って座ってやる瞑想は
実は全くできず、

歩きながらする、
歩行瞑想もだめ。

でも、読経なら、
瞑想がいとも簡単に
できていることに
気がつきました。

瞑想しているつもりではないけど、
瞑想だった。

読経は呼吸のトレーニング、音読、
さらには瞑想も兼ねている。
もちろん、その後のお祈りも。

読経で瞑想すれば、簡単ばかりか、
他の副産物が多いことに
改めて思いました。

読経で気がついたのですが、
真言(不動明王真言など)、

また神社にある
冊子などに書かれている、
祓詞(はらえことば)、ひふみの祓詞など、どれも慣れたら読みやすい。

ある程度練習すると、
読んで詰まることがない

読むと、結構気分が
いいものです。

観音経はやや長いので、
音読していると、水に
流れているかのような
気分にもなる。

読むのは、回数を重ねれば、
だんだん慣れていくのは
わかってきました。

それと、お経の日本語自体がとてもきれいな音で構成されているのか、

意外にも読みやすくできている。

特に、日本人には読みやすい文章の流れになっているんじゃないかと思う。


観音経、とても読みやすい。


日本人ならではの
特権、とも言えそう。

唱えるお経って、実は
読みやすいように
構成されているんじゃないかと
思うくらい、慣れたら読みやすい。

読経するための
筋肉でもできてくれば、
おそらく誰でも読めると思う。

ピアノをひく、
泳ぐ、書を書く、
その他体を使うものって、
独自の筋肉があると思う。

読経もきっと同じ。
あご、のどか、また普段使うことのない
筋肉を使っていると思う。

般若心経は3年目に入っていますが、
回数は一日で30回以上、
二年目で効果を実感。

呼吸が深まった。
お経を読む筋肉は
きっとついている。

観音経はまだ6ヶ月目ですが、
回数は一日3回以上、としてきました。

1、2回じゃ全く読める感じが
しなかった。

毎日3回で少し慣れて、
いつからか、観音経で心地よい
気持ちになれた。

呼吸がさらに深まり、
気分が良くなってきた。

きれいに読める、というわけではないのですが、

いままでずっと例外なく
継続できています。

お祈りの時間も別途入れているから、
続けられているわけですが、

読経は何かと良い気が
してなりません。

意味や内容はまったくわからない。

そもそも1000年を超える歴史の
お経が簡単にわかるはずがない。


仮に要約等で知ったとしても、
真髄まではわかったことにはならない。

まして、素人が瞬時に理解できるものではないはず。

現に般若心経が、一切空(いっさいくう)としても、

全てが実体のないもの、
といわれてもわかるようで
よくわからない。

むしろ、意味がわからなくても
単に読めばいいと思う。

かの三島由紀夫も、何かの本で
寺子屋のように孔子や漢文の音読することの大切さを説いていました。

意味わからなくても、
ただ読む。

そう考えると、
結構気楽にできます。


今、はっきりわかるのは、
読経で呼吸する力が
ついてきたこと。

ガンには般若心経を
30回毎日唱えるといい、という
理由は今ならわかる。

つまり呼吸が深くできれば、
体の臓器も働く。

腎臓が機能して、
毒も出していく。

呼吸で酸素か
生命力の源のなるようなものを
取り入れれば、血流も良くなる。

血流良ければ、体は改善していく。

呼吸力を鍛えるのに
費用かからず、身につけていけるのが、

般若心経の30回以上の
読経。

多いようだけど、
30回以上と言う人がいるから、そのまま従うだけ。

30回以上するから、
呼吸の力がつくと思った。

本当、意外な盲点で、
呼吸が深くできるようになると、
もういいことしかないです。

なにしろ、とても深く眠れる。

時々遅い時間に寝ても、
頭が痛い、目覚めが悪いことが
ない。

とにかく体が楽です。

また自然の中の空気を
味わえるようにもなる。

空気を食べているような、
感覚なのですが、人に話しても
やっぱり伝わらない。

健康法なんて世にあふれているけど、
お金で健康は買えるのか、

って考えると、
買えるとは言いえない。

きっかけくらいなら
買えるかもしれない、

むしろ、作っていくものじゃ
なかろうか。

健康は育んでいくもの、って
言えると思う。

簡単にすぐに組み立てられないけど、
一つ一つ、積み上げていく
レンガみたいなものかも。

積み上げるのは難しくはないけど、
続けないと完成しない。

完成がないんだろうけど、
ある程度は形ができていく。

積んでいく作業も苦痛でするか、
何か楽しく、幸せを感じながらするのか、で随分違う。

同じ食事を食べても病気になるのと
ならない違いも
きっとどこか似ている。

良い積み立て方、良い食べ方が
あって取り入れ方次第で
おそらく全然違う結果になる。

読経を毎日、
薬のようにすぐに効果は出ない。
でも着実に力がつく。

思えば薬は頼ること、他力だけど、

読経なら、自分で
やっていくしかない。

自分で育っていく。

植物みたいに花が
咲くわけではないけど

何か変化か新たな発見が、
いつしか現れるかもしれない。

読経は、面倒だと思わなければ、
難しいわけでもない。
ただ声に出して読む。

歩きやすい靴を
買ったなら、いっぱい歩く。

ほうきを買ったなら、
毎日庭掃除をする

とても簡単なことです。

要は使っていくだけで
健康の一部が積み重なって
できていくことになるのかも。

ふと思うと、
三十三間堂で随分前に買った冊子に
観音経全文が書いてあって、

たまたま再読すると、
般若心経も書いてあった。
このセットが
とてもよいきっかけになった。

ふりがなも、句読点などもあって、
読みやすい。

観音経に特に思い入れや
観音経信仰があるわけでもないのに、

観音経を読むのは、たまたま
冊子があったからです。

読み始めたら、レンガみたいに
簡単に何かが積み上がって
いくように思う。

たぶん今でも三十三間堂には
売っていると思います。
どこで区切れば良いか、長く読むと分かりにくいもの。句点(。)があると、切ってもいい場所がわかる。
後から知ったのですが、
短い観音経と長いものがある。三十三間堂のは全文。
やや長いですが、全文の方が
ずっといいと思いました。
紙の質もいい。
延命十句観音経などもある。

読むのが色々あって
よくわからないけど、
何も気にせず、とにかく全部読んでます。

全部読んでも、
そう長くもない。

ふりがなもある。

冊子は小さく、
読みやすい文字の大きさ、

毎日使いやすい。

結構いい買い物でした。
あとはうまく使っていくだけ。

京都三十三間堂って、観光名所で
人は多い。

でも午後に人が少ない時間が
あります。長い間行っていないですが、
とても荘厳なところです。


そこで何年も前に手にした冊子が
あとあと役に立つとは
思えませんでした。

まだまだ呼吸の力は甘いとは思います。
それでも、きっかけがなんであれ、

飽きっぽい私が
三年以上続けてきている読経は、
きっと誰でもできるんじゃないか、
って思う。

今住んでいるところで、おそらく70歳以上の人は、何種類かのお経を
暗誦できる。

暗誦が大事じゃなくて、
読む習慣があった。
続ける読経がいいと思う。

昔から読んで
いたから暗誦できるんだろうけど、

次の世代、子供、孫には
受け継がれていない。

宗教なくても、宗教心のようなものは
あった方がいいと思うし、

宗教心も、買うものじゃなくて、
きっと毎日作っていくもの。

忘れやすいものかもしれない。

観音経であれば、慈悲心ですが、
これがなかなかできない、て思う。

いくら猫や動物に優しく、
てんとう虫や時に出会うキツネに
心が動かされようが、

最近、大量に出るカメムシには
冷たく当たってしまう。

靴下履いたら、中にカメムシがいた、
どこから出るのか、
大量のカメムシに心が乱れる。

ほんの些細なことなのに、
気が乱れてしまう。

後で振り返ると、
どれだけ情けないか。

観音経の慈悲心なんて
完全に忘れてしまうわけですね。

だからこそ、
読経で毎日、慈悲心を持つ筋肉を
鍛えて忘れないように
しているとも思う。

読経って、意味はわからないですが、
毎日の音読で、何か
気がつくことがでてくるかも
しれません。

今、わかっているのは、
読経は回数が多ければ、それだけ
鍛えられる。

呼吸が深くできて、
体がとても楽、ばてにくい。
寒さも暑さも対応しやすい。

おそらく丹田呼吸も
できていたのかもしれない。

呼吸が深くなると、
車の排気ガスの味か
その他の空気の汚れを
感じやすくなった。

香水や洗剤、
シャンプーの匂い、以前は全く気にならなかったけど、
ここ最近は、匂いが強烈に
強く感じてしまう。

香害、って実際あるそうだけど、
わかる人って体に良くないものを
察知する力があるのかもしれません。

はじめは嗅覚が上がったと
思ってたけど、
どうも違うみたいです。

要は街中の空気が思ってた以上に
汚れていることを
感じるようになった。

あともう一つだけ言えるとしたら、
嘘は完全に見抜けないにしても、

胡散臭さを感じることがある。

「あ、この人、言っていることがおかしい、嘘言ってる」って思うことが
時々ある。

これは最近のこと(読経で三年経過してから)です。

カメムシ如きで心身乱される身で
偉そうには言えませんが、

少なくとも上辺だけで言っているのは
本当によくわかる。

口から出た、頭からでている言葉の
ようで重みがない。


とにかく、呼吸の力をつけることは、
一つの健康を
育む手段、ってことは間違いない。

ヨガとか、他にも色々あるんだろうけど、なんであれ、「呼吸」、呼吸さえできれば、って思い出すことがある。

運動も食事も、健康も考えてみれば、
呼吸ができてこそ。


呼吸は生きる根源みたいなものかと
言えると思う。

食事なら一日止まっても
問題ない。でも呼吸は
ほんの数分でも
切らせられない。

呼吸する力をつけていくといい、
これだけは本当、間違いない。

きっかけは、なんでもいいと思う。

私にとっては、読経でした。

さらに瞑想すらできていなかったのが、
読経で簡単に解決。
そして副産物多し。

観音経、般若心経、あるいは神道の
祓詞(はらえことば)、真言、
その他、読むものなら
なんでもいいかもしれない。

ただ、般若心経は一般的。

仏教を簡略化し、要素が
詰まっているというので、
多くの日本人には当てはまると思う。

お祈り
呼吸
瞑想
三点かそれ以上を兼ねて読経で
できるのは、大きい。

お金はかからないし、かかると言えば、
冊子の千円程度。

読経で何かが
育まれていく、これは言えると思う。

たぶん極めていけば、
普段見える世界の貴重さが
感じられるように
なっていくと思う。

空海も般若心経のことを言ってるし、
空海が見ていた世界と

当時の庶民が見ていた世界は同じでも
見え方はきっと違う。

空海とまではいかなくても、
何かが変わってくる、

般若心経と観音経の読経で
何か良い方向に変わっていく、

これだけは今の段階で
はっきり言えます。






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