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“眠り”を犠牲に“少女だったあの頃”を召喚したい私を見つけないでよーー村上春樹『TVピープル』収録「眠り」

村上春樹が文學界にて新作を発表するらしい。だから、今書きつつあるこの文章には、彼の作品について一度は書いてみたいという私の願望とともにちょっとした商売気が含まれている。

私の夫は村上春樹が好きだ。彼は普段小説をあまり読まない人なのだけれど、村上春樹の作品だけは小説からエッセイ、翻訳など本棚に一通り揃えてある。
けれど彼曰く、「俺はハルキストではない」ということで、どうやらその一言は彼において重要な意味合いを持っているようだ。

一方の私はというと、教養としての村上春樹という感じで代表作は大体読んでいて、大抵楽しい気持ちで本を閉じ、しかし、彼の作品について語れるものはそんなにないというめちゃくちゃライトな読者だった。

そんな二人が付き合いはじめた当時、夫となる彼にベタ惚れだった(や、今もだけどね)私は「絶対にテメェと結婚してやるからな」という強靱な意思によって彼の家に身の回り品全て持ち込み籠城。押しかけ女房を地でいくといった塩梅だった(迷惑千万)。休日になると日がな一日彼の家のシングルベッドを占拠し、プライベート時空間を侵食され怒髪が天を衝きかねない彼を尻目にハルキ・ムラカミとしゃれ込んだ(ちなみに、彼はこの決死の籠城作戦にわずか2ヶ月で白旗をあげ、私との結婚を決意する。粘り勝ちですな)。

上述の通りライトな読者として、村上春樹の有名どころの長編ばかり読んできた私にとって、彼の短編集はなんだか新鮮でついつい没頭してしまった。喋り始める猿、かっこいい女ドライバー、病室の彼女のデコルテ、全てが私を魅了し、さらに付き合いたての大好きな男が好きな作家の作品であるという半ば性欲に支配されたラヴパワーの後押しもあって、私は作品の細部まで読み込んだ。結局、結婚する頃には、私は村上春樹は長編より短編派な女、となっていた

そして、およそ一年前の春、川上未映子が村上春樹に行なったインタビューが書籍化したと知り、「買わねばならぬ。何事も」という使命感に追われ大学生協に買いに走った。

そのインタビューの中で、川上さんが「眠り」について言及する場面があった。

とにかく、こんな女の人を読んだことがない
川上未映子、村上春樹「みみずくは黄昏に飛びたつ」p252

なにそれなにそれ?て、TVピープル!?慌てて夫の本棚を探す。しかし、ない。『パン屋襲撃』やら『国境の南、太陽の西』やら『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』やら次々と出てくるのに、『TVピープル』だけがない。結局、娘を背負いながら丸1日探して、見つからんかった。

その晩、本を散らかしっぱなしにしていて夫に叱られた。

しこたま説教された後、『TVピープル』の所在を聞くと「多分実家。」ということだったので、私はその週末、本屋で「眠り」を立ち読みした(そこは買えよ)。

帰りは呆然としていてあんまり覚えていなかった。

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🌾以降、この本についてネタバレがあります。

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本を読んでいても、私はすぐにべつのことを考えてしまう。子供のこととか、買い物のこととか、あるいは冷凍庫の調子があまりよくないこととか、親戚の結婚式に何を着ていけばいいかとか、あるいは一カ月前に父親が胃を切ったこととか、そんなことがふっと頭に浮かんできて、それが次々にいろんな派生的な方向に膨らんでいくのだ。そして気がつくと時間だけが経過して、ページはほとんど前に進んでいないということになった。村上春樹、『TVピープル』Kindleの位置No.1530-1534

どうしてだ…。どうして私のことがわかるんだ、ハルキ…。私はそう思わずにはいられない(結局『TVピープル』の文庫本は見つからず、Kindleで買いました)。

「眠り」の主人公は「私たちの住むマンションから車で十分ほどのところに診療所を持っている」歯科医の夫と「奇妙なほど(夫と)よく似た手の振り方をする」小学生の息子を持つハウスワイフな「私」だ。「キャサリン・マンスフィールドについて書いた卒論」が「最高点」をとったことをさらりと言ってのけるあたりに村上春樹お馴染みの鼻持ちならないスカした主人公であることが伺える。しかし、そんな鬱陶しさは置いておいて、彼女の語る言葉は私に内在する漠然とした母という、妻という鎖を顕在化させる。

彼女はある日“眠り”を失う。その代償に、育児や家事、親戚づきあいや夫とのセックス、そして加齢から解放される自分だけの時間を手にする。

チョコレートを食べながら、好きなだけ本をめくることができたあの頃を、あの時代へのノルタルジアを、あの少女への羨望を、心の奥底から引き出される。

私は今現在に、夫を尊敬し、夫に馴染み、子供の甘やかな香りと溢れんばかりのエネルギーを目の当たりにする日々に満足しているはずなのに、私は、心の片隅で少女に戻りたいと願ってしまう。たとえ“眠り”を代償にしてでも。

きっと、私と似たような思いを抱く女性も少なくないはずだ。しかし、どれだけ多くの女たちがこの短編に震わされていようとも、ハルキ・ムラカミはこう言いのけるのだ。

僕はただ思いつくまますらすらと書いて、こんなものでいいのかな、女の人って、という感じでした。
川上未映子、村上春樹「みみずくは黄昏に飛びたつ」p253

ふざけんな。ふざけんなよ。マジで。なんだよ、すらすらって。なにが、こんなものでいいのかな、女の人って、だ。そっ、その通りなんだよ!

こうして、浅薄で意志薄弱な私は村上春樹の手中に落ちていくのだった。

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色々と語りたいことはあるのだけれど、とりあえず、
私は絶対にハルキストではない。これだけは、一つ、よろしく。


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