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「純粋無垢な」と「無知な」の違いはどこなんだろう

全然、話が前に進んでいないのと、たぶん自分の中で整理が出来ていないのと、答えが出ていないのとで、言葉がうまく纏まらず、文章になっていないのです。ごめんね。

アニメ版の最終回や旧劇場版「Air/まごころを、君に」と、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」で僕の中で大きな違い。ヱヴァの本当の最終回。

【バッドエンドで死ぬ人間がいない】

今までにあった、謎が謎のままで終わる。
負の連鎖や、いわゆる鬱展開、悲しい終わりにならない。

これはもしかしたら、一部のファンがヱヴァンゲリヲンに対する期待する答えでは無いのかもしれない。
けれど、「最後の」と言われると、主人公たち彼、彼女たちには幸せになって欲しい。報われて欲しい。そう願う気持ちがあっても不思議ではないと僕は思うのです。

ここで全員死んでしまったり、世界が人類補完計画の通りにならずとも最悪の結末の紙一重の所で話が終着するというのを今まではしていた事実が確かにあるのだけれど、そこで「これがエヴァだ」「これでこそエヴァンゲリオンだ」と言う人もいるのだろうけれど。



でも、今作で庵野監督が導いた答えは「ヱヴァンゲリヲンの無い世界」、そしてそこに生きていく新しい道を見出した主人公たちの姿。
今までの残酷な、負の連鎖、ループからは抜け出せた世界だと思う。
そうやって子供(チルドレン)たちは大人になった。
大人になっていくのだと思う。


確かに、エヴァンゲリオンが存在しない世界を選んだ碇シンジの成長した姿や、あの駅のホームで、綾波レイや渚カオル、アスカ「らしき人」が、それぞれ別で映ります。

もしかしたら四人とも、その世界でも繋がっているのかもしれない。
チョーカーが外されるシーンがあるので、記憶があるのはシンジとマリだけかもしれない。どこまでいっても「かもしれない世界」で終わります。

バッドエンドな死、あるいは紙一重、退廃的な世界が無い。
不安定さ、情緒不安定な空気や世界の色が無い。

そこをどう評価するのか、感想に結び付けるのか。
それはファンの、その時の生きている環境や状況。道。
価値観、年齢に影響されるのだと僕は思う。


僕は基本的にハッピーエンドな映画も漫画も好きではない。
音楽の傾向も比較的そうだと思う。

少なからず、映画や映像作品にハッピーエンドは求めていない。
美しさに感動するとか、ストーリーに涙するとか。

感動なんて簡単に容易くするものではないと思っている。
お涙頂戴の感動ポルノ(ロマンス)なんて嘘、偽善、死んでしまえ。




「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を見始めてから毎日が疲れる。

映画を見てる時は3時間くらいジェットコースターに乗ったような気分になる。終わってからはずっと不安定に落ち続けている。今の所は。

理由は
映画を4パートに区切った時に第三村のパートにあたる所にある。



最初のパリでの戦闘シーン。赤のエッフェル塔の下からの映像が綺麗で、戦闘シーンも、守られながらシステムを復旧させようとする伊吹マヤの台詞も含めてカッコいいと思う。

そこから、赤黒い廃墟をあるく碇シンジやアスカ、レイの歩くシーン。
純粋な混沌色と僕は思う。暗く、退廃的な印象と感情で過ぎていく。

前を歩く二人は、自分の知っているアスカやレイでは無い。

綾波レイに関しては、劇中でも既に、シンジや僕らが知っている綾波レイではないのは明確になっている。

その後、大人になったトウジやケンスケたちと合流し、生き残った人々が暮らす第三村のパートに入る。


そこにあるのは、素直な、人間臭くも素朴で安心感のある風景。
どこか懐かしい風景。
そして、その第三村の生活でのシーンが繰り広げられる。

アヤナミレイが「そっくりさん」と呼ばれながら。
見るものすべてに興味や関心を持ち、村の中で生活することで、様々な感情を知っていく。

おはよう
おやすみ
ありがとう
さよなら


最後はネルフ以外の場所では生きていけない(個体を維持できない)アヤナミレイは、シンジに対して「名前を付けて欲しい」と頼み、その感情はクローンとして作られた綾波シリーズにプログラミングされているものだと言われても、「それでも良い」と言い、「好きな人と一緒に居たかった」と最後、LCL化する。

名前を付けてもらいたかった。

村での生活もっとしてみたかった、稲刈りをしてみたかった、つばめ(赤ちゃん)の成長を見ていたかった、と、死期を理解した上で、感情と素直な思いを言葉にして、黒いプラグスーツが下から白く変色して生き最後は死んでしまう。

それは、後悔の気持ちも、素直な気持ちも、もうあと数秒で死ぬ事が解っている人間はどう感じるものだろうか。

感じるというより、伝える事に一生懸命なのだろうと僕は思う。
伝える事が精一杯。伝える事しか出来ない。
なぜなら、それが出来る事の限界点なのだから。

アートスクールにもそんな歌がある。似たような歌がある。
「あと数秒で」

大嫌いな歌だ。



元々、25年前から止まっている僕の綾波レイという存在のイメージは、感情が無い(わかりにくい)イメージで。声も感情を持たない人間を意識されているのかなと思うくらい冷たい時や声。優しいような温かい声質の時もあるけれど、平均して感情や自我が弱いイメージがあった。

大怪我をしていても命令に従い戦い続ける、感情の読めないというよりも、【健気な少女】だった。

それがクローンの存在が明らかになって、何者でもない「そっくりさん」としてのアヤナミレイは【幼気な少女】にみえる。



僕がいつも理想とする「純粋無垢な子」というのは、実はこのアヤナミレイに合致する。

【純粋無垢】と【無知】は違う。
あと何も知れない【無知】と、知っていても解らない【馬鹿】はまた違う。
【無知】は確かに罪ではあると僕は言うのだけど、【純粋無垢】は【罪】とも遠い所にいる(ある)。

この「純粋無垢な」というのは、どこまでいっても僕の理想だ。
だから今の今でも、こんな人生を送っている。


「犬、可愛い」「猫、可愛い」「つばめ、可愛い」


僕が現実に求めてしまっているイメージや理想の中にあるヒロインは。
これに近いのかもしれない。

昔、ショートフィルム用に録音していた友人との会話に

「例えば、お前スロットするんだろ?○○って機種の〇姫ってキャラクターいるじゃん。ほとんど日本語も「父上~」くらいしか喋れない、あとはまともに喋れない赤ちゃんみたいなキャラクター。可愛いじゃん。例えば、あれ見て、「可愛い、あ、みーちゃん」みたいな。可愛い物イコール彼女、みたいな理論や理屈が頭の中で自然と瞬発的に生まれるんだよ。だから、猫を見ても、可愛い、あ、みーちゃん。イコール、みーちゃんってのが俺の頭の中で成立してしまってんだよ」

こういう会話を録音していた。これは素材として残してあるだけで、どこにも使用していないし、どこかで使えるものなら使いたいとは思っているけど、今はショートフィルムも創作活動もする気になれないから使う予定が無い。


こんな感じ。

会話の内容も言葉も、上の文章は脚色もしていない。
正直、スロットとかギャンブルの話から説明しようとしているので、もっと良い例え話や、まともな会話から引用したかったのだけれど、パソコンのデータファイルを見ていて、自分の今の話の説明に近い会話の内容がこれだったからこれを引用した。


だから。何も知らない。
世間や社会、人間の汚れ(けがれ)。悪意や敵意。殺意や害意。
醜い生態や社会を知らない。極端に言えば、何も知らない人間を純粋無垢と僕は認識してしまっているのです。


その反対は。
自分よりも才能や魅力がある。ようは、尊敬できる人。

音楽以外の趣味で、自分の特別な世界(趣味や特技)があって。
それを誇張も顕示もしていない。
名前も売れてもいないのに、痛々しい自称でもない、才能がある人を僕は尊敬する。
痛々しい自称アーティストなんてのは、同じ空気も吸いたくない。
同じ空間に居たくない。


ちょっと話は脱線したけれど。

前者は完全に支えなければいけない存在。後者は対等に共生できる存在。

自分が人生をかけて、その人を支えたい、守りたいと思うのが、どちらに対しても持つ共通の想いだと思う。だから。

前者は非現実的。後者は勝算無しだ。



夢見過ぎだと言われるけど、夢見て何が悪い。
お前らに何が解かる。

いや、今になると言えるんだよ。解っているんだよ。

「お前には解るんだよね? それでは幸せになれないって。」



「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」で初めて見たアヤナミレイというのは、怪我をしても命令に従い健気だった綾波レイのイメージから変わって、純粋無垢なイメージに何度か劇場で見ている内に僕の中のイメージが変わっしまっている。今では綾波レイのイメージがそのイメージに変わっていて、ああ、やっぱり魅力的だなと思う。

どの人物像も魅力的だとは思うけれどね。


・・・・・・・・・・・・


話を飛ばすように進める。

僕は同情や涙を誘うような、感動ポルノは大嫌い。

一杯の掛け蕎麦や、マッチ売りの少女の話なんて、こうやって文字に起こして書くのも精神が悲しくて狂いそうになる。

こういう性質的な性格が「エンパス」と呼ばれる原因なのかもしれない。
別に好きに、好きなように呼べばいいと思う。
前提に「自分に害が無ければ、自分の周りに危害が無ければ」が絶対的に付くけれど。他人の好き勝手というのは気にしないというか、相手にしない事が少しずつ出来るようになった。

少しは大人になったのかもしれない。



とにかく僕は、感動ポルノで優しくなったり、そんなものを見たり聞いたりしなければ涙を流せない汚れた人間ではない。

教育として、そういう話を聞かせて道徳の授業や教えにしようと思うなら、僕にはそこまでしなければ人の痛みも解らない、人に優しく出来ない、心が普通以下の鈍感な人ではない。残念ながら、そこまで出来た人間ではない。

悲しそうな雰囲気の人がいるだけで、辛い。
辛く痛いという話を本人から聞いてしまうだけで本人以上に悲しくなってしまうのが僕の悪癖らしい。


だから物心がつく頃、母親に感動ポルノ的な童話や読み物を読み聞かせられた記憶が蘇ってくると、異常なまで生理的吐き気がする。



世の中には、こんな人間もいるので、そういう境遇に一時的にでもなる人間や、精神的に、そこらと関わると精神が体調まで悪く引っ張られます。
安定剤を持っている理由はそれもあるのかな。



まだnotoにプロフィールをどう書くかどうかも決めていないので、今の時点では悩むけれど、ここで隠すべきではない理由があるので少し書いておく。

自分は境界性パーソナリティ障害で、強不安、ADHDの診断と双極性障害の診断を受けています。あと、解離性記憶障害を一年間、経験しています。
でも実体は、ただの普通の人で、能力がないだけ。
アスカの台詞を引用させてもらうと「メンタルの強度」が弱い人間だけです。

だから良い人か悪い人かというのもどちらでも無くて、どちらかというと悪い事をしなければ大切な人や物、存在を守れないなら悪いと呼ばれてもする。きっとそれは善悪というより正義の話になるのかな。戦争と同じね。

人として人間として世の中から見て「良い」か「悪い」かというのは受け取る相手の解釈や理解の問題です。
だから、「変な奴ですけど、良い人です」と自己紹介します。


ただ境界性パーソナリティ障害というのは、まさに「メンヘラ」です。
情緒不安定で常に、0か100かの極論で生きます。考える癖があります。
衝動的な自己破壊行為というのも、書きませんが、リストカットではない自傷行為癖は常にあって、それはコントロールしています。

年に一度や二度は意識が飛びます。狂います。
依存が強い事も隠しておきたい言葉ですが、誤解が無いようにしたい。

どうせ見る人は見るし見ない人は見ない。
読んでも理解できない人は理解しない。今は気にしないようにします。その上で覚悟して、notoを書いています。
自分や僕らに、実害が無い限り、気にもしません。


あと薬物治療はしていません。安定剤のみストックしています。
耐性がかなり強いので薬でどうのこうのなる事はありません。
大量にODして、アルコールでも入れば分かりませんが、そんなことはもう限りなく限りなく0に近い可能性です。昏睡誘拐された経験があるのですが、後から相手本人から聞いた話で、僕は何度も狙ってやったけど出来なくて(効かなくて)残り最後の薬で、倒れたそうです。だから余程の量を盛られたのか、珍しい薬だったのだと思う。


少し話は脱線したけれど、わかりやすいように書きました。

だから、可能性は0では無いので、この数年間で迷惑かけたり助けてくれた大切な友達や人達には感謝しています。
人間いざとなった時に助けてくれたり、本人は知らなくても、その気が無くても、僕(当人)がこの人が居てくれてよかったと思えば、その人は感謝すべき大切な人、存在なのです。

だから、無責任な人や、言葉が軽い人は。
どれだけ普段(通常時)に仲良くしている風にしていても、一切、信用も信頼も尊敬も感謝もしていません。

これからはもう絶対に、一切、しません。





話は戻して。

ADHDの薬や抗うつ薬は今の自分には必要ありません。
でも持っている理由は、どうしても振り切った感情を維持して前を向いて戦わないといけない時。全力で走り切れる体力や精神力は無いので、三環系抗うつ薬(第一世代)を持っています。これは違法に手に入れた訳ではありません。
この手の話に詳しい人は副作用も知っていると思いますが、ようは僕みたいな双極な人間が服用すれば意図的に「躁状態(躁転)」させることが出来ます。

人生で数えれるくらいしか経験させてませんが、それでも持っていて選択肢のどこかに入れてあるというのは、そこの覚悟や理解はしているという事です。僕の場合の副作用は、虚脱症状と、肉体的には足元の感覚が浮いているような感覚になります。後者の方は名称は解らないけど、副作用は虚脱が一番苦しいんじゃないかな。

幸せの前借という言葉がどこかにあるけれど、力の前借みたいなものだと思います。だから、決して良いものでも、覚悟があろうが無かろうがするべき事でも、そういう状況にならなければならなくなること自体が普通に生きている上で、幸せになる上では間違った道なのだと思います。

使用中と使用を止めた時の副作用も自分にとっては、例えば「夢が崩れ去った時」「生きがいを失った時」「生きる事に無気力になりそうな時」「負けてしまいそうな時」に立ち止まることが出来ないから、副作用も覚悟で、毒を食らわば皿までなのです。

引き籠って横になってばかりいられない僕にとっては、わかりやすく「躁」と「鬱」で例えるなら、鬱で自滅するくらいなら、躁状態で乗り切って壊れた方がまだましだと思っているのです。

そういう性格なので、普通の人には理解も思いもしない所に地雷や沸点の低さがあるのかもしれない、ね。。


だから。
そこら辺を良し悪しの判断材料にされると、「まともな人間ではない」と思います。

今夜は疲れたから終わり。


2021/6/15 18:修正、加筆

エンパスって何?って何人かに聞かれたので、説明は簡単なんだけど、
繊細なのね、から、優しすぎるのよ、まで言われてしまうので
自分は優しい人でも良い人でもないという事を言えない(伝えられない)間柄の人や、言葉が汚い表現でしか伝えられない自分なので、下に最近見つけたネット記事と、僕に「エンパスだよ」って言ってきた子が送ってきたサイトのURLを貼り付けます。

僕は正直、どれも確かに近い、限りなく似ているとは思うけれど。
僕は正直、自堕落で、ダメなロクでもない人間、親の血を引いたサイコパスで不幸になる人間だと思っています。狂ったのは誰のせいかと言われたら、「自分と親のせい」と断言します。

僕がどれに当てはまるかなんて、あなたの気持ちに僕がどうのこうのいえるものではないと思います。

uu。


【エンパス】とは
https://media.ululaau.com/what-is-empathy/

https://forzastyle.com/articles/-/56610

【HSP】とは 僕は違う。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca3d38f82fb5c30e68cf578987bab6cb4e793359

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