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親になる、ってこと。

想像したことくらいはあった。
自分が親になったら、母になったら、ということ。突然にその想像が現実となったとき、ちょっと戸惑いながらも、やっぱり嬉しかった。

35歳。結婚願望もそれほどなかった私は、ある男性とお付き合いしてすぐに妊娠した。そう、なのでこれから結婚とかもするらしい。


母になる。本当だろうか。
実は私、昔から体も弱く、そのくせノリと勢いだけで生きていたせいで学生時代から無理のある生活をしていた。運動も勉強もそこそこ頑張ってたし、大学ではサークル三つとアルバイト三つを掛け持ち、授業はほとんどそっちのけで課外活動と社会勉強ばっかりに熱を入れていた。

昼夜逆転の生活を、何年していただろうか。家に帰らず、飲食店では朝まで働いて、バイトがなければ友達と遊んで、合宿に行って、海外旅行に行っていた。スケジュール帳は、今見ると恐ろしいほどにびっしり埋まっていた。数時間の隙間が、怖かった。その間に人に会う、働く、とにかく動いて痛かった。泳ぎ続けていないと死んでしまう、マグロのようだった。泳げないにも関わらず。その頃の記憶はあんまりない。たぶん、躁鬱だったのだと思う。

そんな無理のある生活のせいで、生理はほぼ不規則で、数ヶ月来ないのも普通になっていた。気づいたら、もう出血も生理痛もほとんどなかったのだ。それも数年間。たまにドッと血が出たと思うと異常に重い生理痛が私を襲い、それでもスケジュール帳の中で泳ぎ続けていた。

20代の初めの女子の生理がそんな異常周期なもんだから、母には一度でいいから病院へ行って来なさいと促されて、昼夜逆転の生活で体がだるいまま数回病院へ通ったのだ。その時先生に言われた一言は、

「あんた排卵ないからね、このままじゃ子供ができにくいよ。」

だった。普段からちょっとずれている私は、結婚になんの理想も抱いていなかったし、この先自分がすると思わなかった。だから子供を産むことさえ想像したことがなかった。そうですか、とは言ったがピンとこない私は、先生の言葉を他人の話のように聞いていたのを覚えている。

あまり言えないが大学生以来、健康診断なんてものにも行っていない。たまに通院する病院で血液検査をしていただけだ。だから自分の子宮とか卵巣とかを信用してなかったし、若い頃の無理が祟ってきっとどこか悪いだろうと思い込んでいた。

私は子供ができにくい。できないかもしれない。
年々、自分の中でその意識が大きくなり、いつの間にか「私は子供ができない」と思い込んでいた。ただ、昔の医師の勧めで、生理を定期的にこさせるピルを飲み続け、そして気づいたら数年前からずいぶん規則正しい人間らしい生活を送っていた。体調がすぐれないことが多かったので、食生活も自分なりに見直して、いつの間にか健康な肉体と精神を育んでいたようだ。

そして、今年1月。
じわじわと体調の変化を感じ、ネットで症状を調べるとほとんど該当した。まさかと思って検査したところ、陽性反応だった。自分にとってはあり得ないことだったのでどうしようと思ったが、切実に孫を欲しがっていた母の顔が思い浮かび、素直に嬉しかった。子供が欲しくなかったのではなく、長い間、どこかで諦めていたのだとその時悟った。

ただ、相手はすぐに結婚を望んでくれてだったのだが、私の方は仕事や家のこと、先のことを考えて不安が増すと、昔患ったパニック障害が再発しそうになり、一時は結婚を見送ろうと思ってしまった。本当に、相手には辛い思いをさせてしまった。今は、ゆっくりと落ち着いて将来を考え、足並みをそろえて一緒に前を向くことが出来ている。あわてんぼうの私がそうやって居られるのは、その人のおかげだ。本当に心から感謝している。


やりたい放題に生きてきて、これからも自分の道を突き進むと信じて疑わなかった私が、親になる。子供をもつことについて右も左もわからぬ私が、ちゃんと親になれるのだろうか。そんな不安もありつつ、でも家族や友人、みんなが笑ってくれたのだ。だからこの人生を前向きに受け入れたいと思うし、これからが楽しみでもある。

そして、母。
私の人生の中で一番に憧れ、一番愛らしく、一番偉大な存在。
報せた時、その母がこれ以上ないほどに喜んでくれた。それが何よりも嬉しかった。きっとひっそりと泣いていたのだと思う。
その母を見たとき、私の道はこれでいいんだ、と強く思えた。


先のことはわからない。
でも十月十日という限られた日々の日常、その中で変化する感情や境遇について、できるだけここに記していきたいと思い、書き始めた。

まだ見ぬ小さな命のために、何ができるんだろうか。
ぼんやり、そんなことを考えている。





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