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『貝に続く場所にて』を読んで


もう少し凝った記事のタイトルをつけようと、幾度も考え直しているのだが、しっくりこない。

この本の題名があまりにも秀逸だから、この題名を付さずに記事を書くことが難しい。

だから、小学生がこう書いたら、きっとダメだしするであろうタイトルを、私は仕方がなくつけることにする。



読む前から、この本が美しいだろうということは覚悟していた。


美をこよなく愛する人が書いた本だから。


でも、この本がこれほど優しい物語であるとは、予想していなかった。


いつまでも、胸の内に通奏低音のように響き続ける息苦しさ、言葉にならない思いを、彼女はひとつひとつ拾いあげる。


彼女の紡ぐ静かな言葉が、ひたひたと私の心を満たす。

美しい。だが、装飾的ではない、言葉。

そこにあるべき、言葉だ。


私は、この小説の主人公・小峰里美と、筆者である研究室の先輩とを不可分に捉えているが、私自身とこの主人公も重ねて読むのもまた不可避なこと。


あの日、私も、彼女も、宮城の水のこない場所にいた。


周りの被害の大きさを見渡せば、自らを被災者と称することは憚られる。

しかし、何の被害もなかったと言えるほど強がることもできない。


あの日、揺さぶられたのは、大地だけではない。


明かりのない夜がどれほど心細いものなのかを知った。

寝衣を纏わず眠る心地悪さを知った。


安全神話の崩壊。

水、電気、ガス、物流、人の命。すべてのものが細い線で繋がったものに過ぎないのだと悟った。

自分がこれまで当たり前だと思ってきたすべてのものが揺らいだ。


世界の危うさが浮き彫りになって、世界への不信感に押し潰されそうになっていく。


いまでも、西洋美術を見るとき、逃避しているような、後ろめたさを覚える。

だが、愉しげな景色が描かれているから、そこに逃げ込むのではない。

夥しい数の、血塗られた光景とあの日の光景を重ね、その先にある救済を信じる力に縋りたいのだ。


主人公の美術へのまなざしが、あの日へのまなざしへとゆるやかに結ばれると同時に、この物語が、私自身の記憶を呼び覚ます。

私と彼女が、同じときに同じ場所にいた、同じことを同じ場所で学んだからと言って、私がこの本の全てを知るわけでも、彼女の胸の内を代弁できるわけでもない。


だが、この物語を読んで、私がどう感じたのか、それをここに残しておきたいと思う。



アトリビュートを持たざる者の物語


私は、この物語を一読して、これはアトリビュートを持たざる者の物語なのだと思った。


この物語は難解だという感想をいくつか拝見したが、このアトリビュートの概念はこの物語を読み解く鍵になると思うので簡単に説明する。


アトリビュート(持物)とは、その者がその者であることを、特徴づけるもの。

真善美が基本となる西洋美術において、多くの人物は美男美女で描かれるから、身体的特徴でそれぞれの人物を見分けるのは困難である。

文字を読めない者にも、登場人物を見分けられるよう、彼らには持ち物が与えられている。日本の七福神を思い浮かべてもらうとわかりやすいだろう。

七福神であれば縁起のいいものを手にしているが、キリスト教の殉教聖人の場合、自身を拷問した道具や剥ぎ取られた身体の一部を手にしていることもある。

この物語に出てくる作品の外扉には、聖ヤコブの物語、その扉を開くと、イエスの物語が描かれ、一番内側に聖人たちの浮き彫りがある。その浮き彫りの中に、アトリビュートを手にする殉教者たちがいる。


作中には登場しないが、この物語を読む間、私の頭の中にひとつの作品があった。

この作品のイメージを持っておくと、幾分この物語が読みやすくなるのではないかと思う。

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ジョヴァンニ・ベッリーニ
《聖ザッカリア祭壇画》
1505年頃
500×235cm | 油彩・板(画布) | サン・ザッカリア聖堂、ヴェネツィア

この絵は、この物語にも登場する、聖カタリナと聖ルチアが描かれる。

この絵画作品には深く立ち入らないが、この聖女たちの姿を見てほしい。

画面中央の聖母子の両脇に立つ彼女らは、殉教者であることを示すヤシの葉を手に持つ。聖カタリナの足元には彼女の拷問道具として使われた車輪の一片があり、聖ルチアは彼女の名前(イタリア語で光)を示す灯明を手にしている。(聖ルチアは、拷問の際目をくり抜かれたので、ほかの作品では目をアトリビュートとしているものもある)。

彼女たちの穏やかな姿から、その清らかさを感じとることはできるが、その壮絶な最期を直接的に知ることは難しい。彼女たちは完全なる美を湛え、静かにそこにいる。

彼女たちが殉教者であることを示すのは、ヤシの葉や車輪といったアトリビュートなのである。

彼女たちの清らかで穏やかな姿と、彼女たちが殉教者であることを示すアトリビュート。
魂の救済と、表裏一体にある死。
栄誉と痛みを伴う記憶のカケラを彼女たちは、死後も持たされつづける。


このイメージを念頭において、物語を読み進めてみてほしい。



※ここから先は、物語の内容に深く立ち入ることになるので、物語の内容を読む前に知りたくない方は、読後にまたお会いしましょう。




アトリビュートを持つ者、持たざる者

アトリビュートについて、簡単にまとめたが、アトリビュートを持たざる者とは、どういうことか。


この物語の主人公は、あの日、宮城県の内陸部にいた。

被災者とも自称できず、なんの被害もなかったとも言えない。

どちらに属すこともできず、自身のアトリビュートを見出せずにいる。


私には、その主人公の感情が痛いほどわかる。

苦しくても、苦しいとは言えない苦しさを抱えていた。

もっと辛い思いをしている人が、周りにはたくさんいた。


物語の中で、聖女と同じ名を持つ者たちは、自身のアトリビュートを森の中で見出していく。彼女らは、アトリビュートを有する者たち。

殉教者たちと同じく、彼女たちは自身を苦しめたものをアトリビュートとして受け入れる。

東日本大震災で行方不明になった、主人公の知人・野宮も森の中で見つけたホタテ貝を手にする。

野宮がそっと貝を手にする描写は、彼が海に攫われたという、彼の悲しい最期を象徴するものにも思える。

だが、貝にまつわる野宮の記憶は悲しいものではない。どんな記憶が付与されているのかは、ぜひ物語を読んで確かめてほしい。

貝は、彼が海に消えた犠牲者であることを示すものというよりも、彼が海とともに生きた証として、また彼の魂を導く道標として描かれているように思う。


貝の意味

この物語のタイトルには、おそらくいくつかの意味が重ねられている。

一つには、野宮のアトリビュートとしての貝。

そして、聖ヤコブのアトリビュートとしての貝。
この物語の舞台ゲッティンゲンは、聖ヤコブの遺体が置かれたサンティアゴ・ディ・コンポステーラへと続く道の途中にある。貝へと続く場所というのは、貝=聖ヤコブ=サンティアゴ・ディ・コンポステーラへと続く場所、すなわちゲッティンゲンの街そのものを表しているのだと思う。

本書のタイトルは、物語の舞台が、野宮の生きた海へと想いを馳せる場所であり、聖ヤコブの眠る場所へと続く場所であることを示しているのだろう。

さらに、主人公がマドレーヌを焼き、紅茶と共に食す場面では、プルーストの『失われた時を求めて』を連想した人も多いのではないかと思う。
貝には、あの日失われた時間と、失われた時のイメージが重ねられているのかもしれない。


イマージュの物語

この物語には、貝だけでなく、いくつものイメージが重なり合う。


たとえば、宗教画と物語の重なり、そして惑星と街の重なり。


聖女の名を持つ女性たちが、主人公を取り囲む。宗教画が、死者を弔いながら、祭壇の前にいる信者を正しい教えへと導くものであるとすれば、この物語もまた、震災の犠牲者への鎮魂歌であると言えよう。主人公が野宮と少しずつ向き合う中で、行き場のない思いを抱えた生者たちの想いを掬い取ってくれる。

ゲッティンゲン(月沈原)という街は、惑星の軌道と重ねられている。冥王星とは、その名のとおり冥府の神の名を冠した星であるが、惑星から外されても、人々の意識から消えても、その軌道は惑星のそれとも交差し、そこに存在し続けている。物語の中で、消えては現れるその星の曖昧さは、冥府と現世の間を揺れる野宮という存在と符合する。

それらのイメージの重なりは、モノと表象の間のような、ベルクソンのいうイマージュのようなものに思える。

本書を読んで、たくさんの美しいイマージュと出逢っていただきたい。


歯というアトリビュート

主人公は、アトリビュートを持たざる者だと書いたが、この物語の後半、主人公はアトリビュートのようなものを手にする。

それは、歯だ。

主人公が、その歯とどう出会うかは、物語を読んでのお楽しみ。

ここでは、なぜ主人公が手にしたのが歯なのかということを考えてみたい。

といっても、確たる考えがあるわけではないのだが、本書にもあるように、震災後に身元のわからなくなった人を歯で識別していたことは記憶に残っている。

歯というのは、誰だかわからなくなってしまっても、その人だと突き止める証になりうるものなのだ。それは、わざわざアトリビュートだと言わなくても、誰もが持っているものである。

物語の中では、彼女のアトリビュートなのか否か、はっきりとは語られない。

それを言葉にしてしまえば、誰もがアトリビュートを持ちうるとか、人は皆生まれながらに唯一無二の存在だとか、陳腐な教訓に帰結してしまうかもしれないが、それを言葉ではなく、言葉を用いたイメージで語るところにこの物語の美しさがあるような気がする。


あとがき

この物語を読み進めたい気持ちと、読み終えるのが惜しい気持ちとが拮抗しあい、僅かに前者が勝って、なんとか最後まで辿り着くことができた。


noteを休むと宣言したのに、結局この記事を書いてしまって、休む休む詐欺をしてしまっているが、この本を読んで感想を書かないわけにはいかなかった。


この本を書いたのが、知人だからではない。


この本を読んで溢れ出る感情を、書き留めておきたかったからだ。


私の文章には、ある種の湿り気が通底していると人に言われたことがある。その理由を一つに帰すのは乱暴だが、あの日の記憶は私の脳裏に染み付いている。

思い返せば、このnoteだって、震災のときに亡くした祖父の記憶をどこかに書き留めておきたくて始めたのだ。

向き合おうとした。

何度も、何度も。

でも、私は、結局逃げ出した。

あの街から。

逃げたことを後悔しているのを、免罪符のようにして生きてきたのだ。


遠くから想い続けるなんて、そんなの綺麗事だと思っていた。

この物語を読んだからといって、その気持ちが100パーセント変わったわけではない。

だが、この物語に、そして、先輩に、遠く離れた場所からでも、故郷を想うことはできるのだと教えてもらえたような気がした。


だから、私は、この物語を優しいと感じた。


今も苦しんでいる人がいることを忘れてはいけない。


でも、私もつらかったのだ。


主人公が、そして、先輩が、異郷の地からも、故郷を思い続けてくれるのはうれしい。でも、その距離に対して罪悪感を感じる必要はないのだと、私は思った。

私自身にその言葉をかけることはまだできないけれど、逃げたという事実を自身のアトリビュートにするのはやめようと思った。


私は、生きたかった。


まだ、それを綺麗事だと糾弾する、自身の声が聞こえる。


でも、そんな声が聞こえたら、この物語を開こう。


今、私の立っている場所は、何に続いているだろうか。

急がずに、これからの自分にふさわしいアトリビュートを探しにいこうと思う。




最後に、主人公が見たかったであろう、青の景色を添えて。

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