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自由って不自由。

noteを開いて友達の投稿を読んだり、職場のnoteの投稿を任されてからは何だか自分のnoteを書きたいと思う気分でもなくなり、いつの間にか最後の投稿から4か月の月日が流れた。

いつも書いていない間が空くと思うのだけれど、書いていない間にも新たにフォローしてくれる人や過去の記事に「好き」してくれる人は居て、その通知を見るたびに、「いつでも帰ってきていいんだよ」と言われてるみたいでなんだか温かい気持ちになる。

昔から「書く」ことは好きで、好きなことを仕事にしがちな私だけど不思議と「書く」ことを仕事にしないのは、仕事にすると書きたいことだけを書くということにはできないことも義務になる事も感覚的に分かっているからだと思う。

だから赴くままにたまにふらっと書くくらいがちょうどいい。
そんな気ままなnoteを読んでくれる方々、ありがとう。

なんとなく、noteを書きたいなと思って開いたものの、何を書きたいのかもわからないままこうやって書いている。

奈良に来てもうすぐ2年が経つ。
2年前に想像していた未来とはだいぶ違って、もう奈良にいる理由もなくなったし、どこに行こうが何をしようが自由の身になった。

だけどなんだか動く気にもなれない。
頭の中にしたいことは浮かぶのに。
自由なのに不自由だ。

最近とある人に
「自分が元気じゃないとひとは与えられないからね!」
「逆に自分が元気なら自然と人が集まってくるものよ」
「人は収穫の時期と耕す期間があるの。のんちゃんは今、耕す期間なのかもね。でも耕す期間を大事にしないと実らないからね」
と言われた。

ああ。そうだった。摂食障害になって人のつながりに助けられて回復して、前職でも人のつながりの豊かさを感じたから、奈良に来てからの私は人とつながることに必死になっていたな。

そんな風に思った。

思えば、摂食障害の回復の過程も前職で働いていた頃も、人とつながろうとしてつながったわけじゃなかった。
自分がやりたいことを必死に頑張ったり、クライミングや作業療法の勉強を楽しんでいたら自然と仲間ができたんだった。
そんな風に応援してくれる仲間が出来たら、安心につながって勝手に動き始めたんだった。

離婚して、奈良にいる理由もなくなり、人生リセットというか、自由にこれからの未来を描けると思っていた。でもある意味「自由」は誰からも守られない。行動はすべて自己責任。藤沢には仲間がいるけど近くにその仲間がいない、後ろ盾をなくしてしまったような心細さや不安感なのか。

「自由」なのに「不自由」な時よりも臆病だ。

「自由だ!これからどうしようかな」
そんな風に焦って決めようとしていたけど、すぐに決めなくていいのかも。
引っ越し、結婚、離婚、転職と人生の転機を乗り越えたばかり。
「そんな揺れ揺れの中で動かなくてもいっか」
そう思えた。
たまに
「いつまで休憩してるんだろ」と焦るけど
耕し期間。
まずは今を大事に。

きっと楽しんでいればまた勝手につながる。
また勝手に動き出す。
そんな風に思う。


読んでいただいて、ありがとうございます。 自分のために書いた文章が 誰かの心にも何か残ったら嬉しいです。