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「誤解」について

「アスペルガー」の投稿をしてから随分、経ちました。こんにちは。
いつも、読んでいただいてありがとうございます。noteをしているうちに書き切りたかった話ではあったので、自分自身はふうっと一息つけています。読んでいただいている方からすれば、いかがだったでしょうか。アスペルガーや自閉症の見方に一役買えたのなら幸いです。

最近、発達障害=ヤバいという認識が少なからずあるようです。noteや様々な場所でその方程式を払拭して正しく理解をと促そうとしている活動がたくさんあるのに、それが僅かな心無い一言で偏見の多い方にまた傾いてしまうのが残念でなりません。自覚もできて、コントロールも容易で、自身も他者も容認できるなら、誰もがとっくにマスターしてるわって思います。
まず最初に、本当に発達障害・未熟なのか、あるいは精神疾患なのかで、この前提が変わってくるのではないかと思います。もちろん、本人が「私○○だから」で特性や症状を主張して、自分が優先されるべきとなるのも違うと考えていますので、それこそ誤解のないように思って頂ければと存じます。両方一緒と思っているのこそ、ヤバいと私は思います。

私はいくつかのnoteでも「私が私で、貴方は貴方であっていい」と書いてきました。今もこのスタンスです。

誤解の代表として、「喧嘩」が挙げられるのではないかなと思います。

皆さんは「喧嘩」はいい事か、悪い事か、どっちだと思われますか?多分、多くは「どんな質問だよ、ダメに決まってるじゃん。」っなるのかなって予想しています。当たってましたか?
私はちなみに、「喧嘩」そのものはあってもいいと考えています。
「論争」は理論と情報のぶつかり合いで、そこに感情の介入がすることは少ないでしょう。逆に「喧嘩」は感情や感覚の対決です。自分と相手が想っている事が飛び交います。子ども同士の夫婦や恋人間のなどなどです。
このどちらもが、善悪を見極める為というよりも、多くは改善と把握をする手段に思われます。
ここでそれこそ誤解して頂きたくないのは「暴力」「侮蔑」を含んでいない事です。だから、相手を物理的に傷つけたりや、自分が優位に立つ為に相手を貶めるのは「喧嘩」ではなく、ただの「強制服従」「命令」「攻撃」あるいは「いじめ」である点です。この単語を出すだけでも正直、不快な頭痛がします。
特に子どもたちの喧嘩というのは、お互いの考えている正当性を相手に言い合う現象そのものだと思います。難しいかもしれませんが、私の知る限り子どもの喧嘩(いじめではないですよ)には、何処かに理由が潜んでいるものです。

幼稚園や学校という組織の中でも「喧嘩をしてはいけません」というように言われることがあるでしょう。それは、一側面で、この攻撃を防ぐためと言える気がします。この予防は規律を守る上では、表面上効果的です。ルールにもきちんと理由があります。ただ、本人たちが納得をしていないと、それは後々膨れ上がって不当を考えるきっかけになるかもしれません。
小泉八雲の「心」で紹介したと思いますが、「目上の言う事に完全服従することが、一生の安泰」という訳ではありません。

一つ私の関わった事のあるエピソードをご紹介いたします。
2人の男の子たちがいました。突然AくんはBくんを後ろから、思いっきり押しました。転倒させようとしました。BくんはAくんがそれをされて、「なにするの!」と言って正面から突き飛ばし返しました。喧嘩両成敗というのであれば、一方が手を出して、もう一方がやり返したから、これで終わりのはずでしょう。ですが、さらにエスカレートしようとしていました。本当は声を掛けるべきではなかったのかもしれません。でも、手を振り上げたのみてそうもできませんでした。
「なんかあったん?」と間に割って入ってしまいました。だいぶ昂奮していた様子でBくんがAくんを指さして、「押してきた!」と言いました。そうなの?と本人に確認しました。頷きました。「この子(Bくん)は、君に何か嫌な事したの?」と聞いたら、首を振りました。「じゃあ、なんで急に押したのかな?」と聞くと、「遊びでいつもBくんが勝って、ずるいってなって、それでむかついた。」と教えてくれました。同じ学校のお友だちだったようです。「ずるくて、むかついた。」というのが引っかかりました。今度はBくんに「こっちの子(Aくん)に、なにか悪口かなんか言ったの?」と聞きました。少し落ち着いてきたのか質問に応答できるようになってました。ですが、Bくんは言っていないというのです。質問の仕方を変えてみました。「じゃあ、例えばだけどね「自分の方が強いもんね」みたいに言ったり、「よっわ」って言ったりしなかった?」と聞いてみました。ビンゴでした。本人は感想としてかもしれないですが、相手からしたら見下されているのが悔しいという不和になってこうなったみたいでした。これを正直、本人たちだけの力で解決するには相当に幼いけど、感情は大人よりも膨れ上がっているように思われました。なので、一個一個、質問してみました。まずはAくんに「そう言われて、厭だったんだね。」と聞きました。正直に頷いてくれました。「でも、よく見て。ここはまっすぐな場所でよかったけど、もし階段とか砂利だったら、お友だちさ、こけるだけだったかな。血が出たり、足変な方向に捻って、遊べなくなったかもよ。それでも、よかった?」というと全力で首を振りました。逆に、Bくんには「その気はなかったかもしれんけど、お友だちに「ざまあみろ」みたいに言われたら、君はどう?」というと嫌だとはっきり言いました。「二人とも嫌な想いを一緒にしちゃったね。けど、このまま、これからもお友だちのこと嫌いなままでいいの?」と訊きました。今にしても、意地悪なこと聞いているなって思います。無論、二人とも「嫌だ」と言いました。「じゃあ、悪い事したらどうするって知ってる?」と聞いたら、「ごめんなさい。」と同時に謝りました。「ちゃんと言えたね。えらいよ。ごめんね、急に入って。」と私も詫びました。勝手に止めたのに、彼らは私に「ありがとう、ばいばい」と言ってくれました。元々は素直な子どもたちなのだろう、それがほんのちょっとのずれで、上手くコントロールできないでいたみたいでした。

お節介で思わず、入ってしまいました。近くに親の方も居なかったので、本当にひやひやものでした。確認の術がなかったら、きっと起点が「押した」というところから、始まっていたような気がします。本当はその前から少しずつ本人たちさえ意識しない間にじわじわと忍び寄っていたんだと思わされました。怒りの後ろにあったやりきれなさ、悔しさ、嫉妬心、軽蔑が本人たちに直接向かなかったことで、大きなケガにならなかったのだけは良かったと思います。

ASDやADHD、LDなどの特徴を、本人が知らないで大きな悲劇に繋がってしまう、当人以外の人が「この人はもしかしたら」とテレビであったりあるいは実際を見て気づくというケースもよくあります。それが障害全体=嫌厭対象=攻撃的な事を言ってもいいような的になっているのは、良く調べもしないでどうなんだろうと感じます。

長い前回のような記事を書いた事が、誰かにとっては自分事で役に立つのもとなればありがたいです。ただ、反対にそれが「うわ」と拒否反応となって離れてしまい、これまでの近しい縁が遠のいてしまう事もあるであろうなという点も頭にありました。特徴を面倒で嫌だなと感じられて、疎遠になってしまうなら、それは致し方のない、覚悟しなきゃいけない事が今だったんだと受け入れられるように考えています。

読んでくださった、お近づきになれた、離れていかれた人も皆々様、等しく感謝しています。いつもありがとうございます。

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