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Kの字

お昼を少し過ぎたまだ温かいちゃぶ台には、2日前あたりから早生ミカンとかりんとうが置いてある。

何度か台所とちゃぶ台を行き来したものの、食後にチヤホヤされていた頃の面影はない。

ひと月前に、82歳の兄が死んで「次は俺の番だ」と思い込んでいる爺さんは元気がなかった。

「そうかもね」くらいな顔をした婆さんがお茶を出したが、爺さんは長年の勘でそれを察していて、すぐには口をつけない。

少し冷めたお茶をすすり終えた爺さんは「散歩に行ってくる」といって、

行き先も告げずに帽子をかぶり、もう捨てた方がいいと思われる、綻んだ紳士用のサンダルに足を通した。

そういえばここのところ、こうして行方をくらます爺さんの背中を見送ることが多くなった。

どこへいったのか、夕焼けが染まる時間まで帰ってこない。

どうせサンダル履きだし、きっとそこら辺にいるのだろうと思っていた。

ひと雨ごとに季節が進み、夕暮れ前に冷え込むことが多くなった。

秋が深くなったら、もう少し早く帰ってきてほしかったけど、

やけにさっぱりとした背中を見送るたびに、肝心なそれは言えなかった。

散歩から帰ってきたあとの爺さんは、湯気こそ上がっていないものの、風呂上がりのようにふんわりと機嫌がよかった。

玄関に入る前に、頼みもしない物置小屋から塩漬けのフキを少し出してきて、慣れた手つきで婆さんにほいと手渡す。

「きんぴらにでもしようかね」

「そうだな。薄味にしてくれ」

年のせいか、婆さんの味付けが年々塩辛くなるのを、爺さんも気づいていた。

一週間後のある日、道路向かいの伏古川に爺さんがいた。

川に向かって立って居た。

---なんだ児玉さんの爺さんも一緒じゃん…

ヒマを持て余した爺さん二人たそがれている。

とうの昔に男としての体を成していない。

何もせずに立っているだけで、そのまま土に還っていきそうだった。

「俺たちの人生いったいなんだったのか」

…などと口走るのは、50過ぎの男と相場が決まっている。

遅くても60頃には、誰しもが通る道らしい。

けれど、爺さんくらいの年代になると、何もかもを超越しているので、

目の前にあるものすべてが「新しい記憶」なのか「過去の思い出」なのか、

気を抜くと、「無」という格子状のスキマに吸い込まれてしまいそうだった。

茫然とたそがれながら、何を思っているのかな。

戦争から「生きて」帰って来れただけでも人生の大半が幸福だったと感じ、

戦士した仲間たちのことを時折思い出しては、

子どもを抱く朝と、女を抱く夜に、後ろめたい気持ちを噛み砕いて生きてきた。

「何だったのか」という、ちょっと先のとがった無意味な疑念を持つこと自体、戦没者に対し、無礼で愚かなことだとわかっている。

爺さんは年とともに、余計なことはおろか、大事な話もしなくなり、

後で家族が大変な迷惑をこうむったりもする。

そんなことでもないと集まらない親戚たちの「ご無沙汰感」がちょっと楽しく思えた。

今思えば、ボケたふりした爺さんの「みんなの顔がみたい作戦」だったのかもしれない。

先日、田舎の山奥にある墓の件で、80歳近い爺と婆が言い争いになり、近所迷惑を起こす。

祖父母宅の向かいに住んでいる私は真っ先に呼び出され、呼んでもいないのに、はす向かいの寺崎夫妻も転がるように飛んで来た。

昔からデリカシーのない婆さんによる失言によって、

爺さんが戦後よりひた隠しにしていた「弱さ」が化学反応を起こし、「逆ギレ」という形で世に出てしまった。

女は弱った時に泣いたりするが、男も泣けばいいのに、なぜか怒るのでたちがわるい。

長年連れ添ったはずの婆さんにはそれがわからないようだった。

血のつながった孫の私には秒でわかる。

自分が好きな人の心はわかりたい。この「わかりたい」という構えが、婆さんの体内から消滅しているようだった。

大正生まれだ。長く生きていれば、大切なものだっていつの間にか失ってしまうし、保管場所がわからなくなることはよくあることだ。

しかたのないことだろう。

爺は秘かに実兄の死の件を引きずっていた。

長男から決まりよく順番に死んでいく爺さんの兄弟。先日逝ったのは爺さんのすぐ上の大伯父だった。

こうなると、すでに「嫌な予感」しかしない爺さんの日常に、婆さんが発する毒気を帯びた言葉はあまりにもタイミングが悪い。

「いい年をして、どっこも悪くないんだから」と、爺さんを励ましたつもりだったらしいが、

爺さんの兄弟は死ぬ寸前まで「どっこも悪くない」のだった。

婆さんのデリカシーのなさは、私の母にダイレクトに受け継がれた。

そんな母系の劣性遺伝を自覚していながらも、言葉の失敗が多い私は、

いつしか本当のことを口に出すのをやめ、こうして文章に書くことにしている。

後で簡単に訂正できることも、ポイントが高い。

川辺に佇む退屈そうな老人たちの様子を婆さんに話すと

「そういえば児玉の爺さんね、胃がんだって」

もう長い事がないような意味合いの強い病にもかかわらず、さっぱりとした声が返って来た。

少し離れたまちに住んでいる児玉さんは、私が物心ついた時からうちに出入りしていた。

そう遠くない親戚だと思っていたのに、赤の他人とあとから知ってひっくり返ったことがある。

毎年減っていく親戚が、突然目の前で消えたさみしさを感じていた。

子どもの頃、キャラメルはくれたが小遣いはもらったことがないので、親戚ではないと知った時は、これが「オトナの事情」ってやつかと、あけた口を閉じ、ものわかりのいい中学生を演じてみせた。

あの頃は、

もう立派な大人だと思っていたが、おとな風の立派な子どもに過ぎなかった。

「ちょっと行ってくる」

ある日の午後。2時半くらいだろうか。爺さんはどこかへ出かけて行った。

今日も児玉さんと伏古川の散歩かとふんでいたが、肝心のサンダルは残されており、靴箱の運動靴が消えていた。

あれから児玉さんは、亀のような形の雨漏りシミがある、自分の部屋の天井を見ながら逝きたいと願ったが、それでは後々手間がかかるからと周囲に反対され、数日前から最後の入院を遂げていた。

気の毒だった。

まさか死ぬために病院へ行くことになるなんて、児玉さんもゆめゆめ思わなかっただろう。

川辺に爺さんの姿はなく、烏の帰る時間にはまだ早いが少し心配になってきた。

散歩に疲れた2歳の息子を抱き、---子どもじゃあるまいし…などとひとりごとをいいながら、

高くなったススキや、何年経っても「白うさぎのヤケド」を連想させるガマの穂を眺めていた。

不安な気持ちを抱えたまま歩いていると、悲しい内容が盛り込まれた絵本の表紙が浮かんでくる。

そういえば、あのトラはどうしてバターになってしまったのか思い出せない。

「はいどうぞー」

「きをつけてー」

聞きなれたしゃがれ声の方に目を向けると、交通安全の黄色い旗を持った爺さんが交差点の角に立っている。

軒下の小さな陽だまりに、雪虫が飛びはじめていた。

児玉さんの葬儀が終わり、爺さんのライフスタイルも少しだけ変わった。

爺さんは「しごと」といって交通指導員のボランティアに行く。

小学校が休みの日でも運動靴を履き、交差点を見守るように通学路を散歩をしているようだ。

あのサンダルは、履かないようなので勝手に処分し冬物を新調して置いてあるが、いつまで経っても気づいてもらえてない。大げさに痛がっていた膝のことも言わなくなった。

ひとの人生って、生きていれば目立つのに、なくなったとて、特に意味をなさないナイフのKの字みたいに思えてきた。

だいたいKの字なんて、発音するのが面倒くさくて黙字になったというではないか。

…ちゃんと生まれてちゃんと死ねれば、途中経過なんでどうでもいいような気がしてきた。

そこに無理やり意味を持たそうとするから、

人は「マチガエタ」と嘆き、「どうしていいのかわからない」と苦しみ、「これでいいのか」と迷ったりする。

爺さんを見ろ。80を過ぎても、「順番通り」という胸騒ぎにつぶされまいと、神さまも気づかないような、小さな徳を積んでいる。

だけどもう、たぶん、さほど長い事はない。

それでいいのだと思った。

爺さんは元来、まじめに足が生えていきているようなひとで、

最後も「順番」を守り、旅立っていった。


問題はもうひとりいた。

伏古川にマガモがたくさん来て羽を休めているという。

時々、真っ白で大きなサギに出会ったら「当たりだね」と住民は思っていた。肉眼で見ていればいいものを、カメ仙人のような風貌のどこかの爺さんが写真を撮っていた。

そんなにがしゃがしゃ撮って、誰に見せるの?という質問を思い浮かべてしまった私は、はいはい、すんません。そうやって撮ることに「意味」があるんでしょ、でもそれってKの字だけどね、独り言ちる。

悪態をつくのが伝統芸の母方の遺伝子は、最近ようやく「まま」といえるようになったわが子にも受け継がれているはずだが、それでもとても平和な毎日だった。

「ばあちゃん、運動がてら川まで散歩にでもいこうか?」

「いやだね。ボケたら勝手に徘徊するから心配しなさんな」

婆さんは自信たっぷりにそう豪語していたが、最後までシャンとして散歩ひとつしないまま、

そのほとんどを台所で過ごし、思い出ゆたかな「発音さえされない」Kの字の生涯を終えた。

#エッセイ

#ゆたかさって何だろう

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