考え方が違うという事について〜ひきこもりと独生独死という事〜

考え方と人とその関係性及び距離感について悩んでいる。予め私の立場を表明しておくと、私は、考え方を軸にして人と関わるのではなくて、もっと考え方以外の部分に、人間関係の核を見出して生きたいという生き方を理想としている。しかしこの生き方には多くの困難や矛盾が発生する、乃至している事も承知しており、さてどうしたもんかと、昨今悩んでいるのである。そもそもであるが、この生き方は独りぼっちな生き方である。誰とも分かり合うという事無く、ただなんとなく一緒に居るという、腐れ縁とも、なあなあとも言える人間関係を良しとする、寂しい生き方である。実際私は、貴方の生き方では誰とも分かり合えないと思う、と言われた事がある。これは全くその通りであろうと思う。

何故、考え方に繋がりの根拠を求めない生き方が困難で、また矛盾を含んでいるのかという考察を、若干であるが行っておきたいと思う。まずそもそもであるが、私が何故考え方人間関係の軸にしたくないのかと言うと、理由は単純で、そんなものを軸にしてしまっては長期的な人間関係等築けないからである。人間は日々考え方が変わってゆくものであると思う。親鸞聖人の御和讃に
『無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ』
というものがある。今回注目したいのは『まことのこころはなけれども』という部分である。つまり、まことの考え方というものが自ら発生しえない我々は、常に考え方というものも変化して、常に迷ってゆく。包み隠さず言うと、無常である。故に、考え方等拠り所にならんのである。そういうものを拠り所にする人間関係は、遠からず崩壊する。

だからこそ私は、そういう人間関係ではなく、考え方に立脚しない人間関係というものを理想とした。しかしながらそういう理想もまた困難であるというのが、この文章の主旨である。考え方に立脚しないという事は、思想的対立の可能性を否定しないという事であり、またその対立の解消も目指さないという事である。対立を対立のままにしておくが、なんとなく一緒に居るという人間関係は、ある種の不可侵条約や停戦協定を結んだ国同士のような関係であり、成程交流は行われるが、何故交流が行われるのかと言えば、考え方以外の部分で利害が発生しており、その観点から交流を行った方が得であるという"考え方"があるが故である。もうおわかりだろうと思う。考え方以外の部分に軸を置いた人間関係、とは、利害を考え方からズラしただけの人間関係であり、結局利害から脱却できておらず、かつ、考え方を利害としないという不可侵条約を結ぶという考え方に立脚しているという事で、矛盾がそこに発生しているのである。

こうなると、私はやはり独りぼっちであると痛感する。根本的な部分で、人と一緒に居るという事を喜んでいないのである。喜びが無い故に人との時間を拒否している自分が居る。そういう自分の果てに、私はひきこもりというアイデンティティを見出したのだと思う。実際には家に籠もっているという訳ではなくても、ひきこもりという自認を捨てられないのはこういう所以だと思う。そしてまた、機縁が熟せば、簡単に現象としてひきこもるのだろうと思う。とうとう人と分かり合えないという自分が、どこまで行っても有る。

ここからは余談であるが、だからこそ私は
『無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ』
という御和讃が好きである。『まことのこころはなけれども』の『ども』から続く『弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ』という部分の不思議を、日々感じざるを得ない。暑くても寒くても、晴れていても雨が降っていても、家に居ても外へ行っていても、南無阿弥陀仏という名乗りだけは、まさに無量光であり、消えない。何にもわからないし、ろくに人とも付き合えず、相変わらずひきこもりという自認を持っている私であるが、今日もこの名乗りを聞いて、なんとなく生きるのである。あれこれ考えたとて、結局はそういう生き方に行き着く自分が居る。別に聞こえたとて何がある訳でも無いのであるが。


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