現代日本の仏教は、果たして宗教的な感動を信者に届ける事が出来ているのか

この前、クリスチャンの桑原さんに誘われて、プロテスタントの教会の日曜礼拝に参加した。その日の日記にも書いた様に、私はこの教会で過ごした時間でとても居心地の良さを感じたし、何よりも楽しくて、そして楽しさを感じられた事で、とても嬉しかった。今は、その教会での時間が過去のものになっている訳だが、それ故にあの時間は何だったのか、何故楽しかったのか、と云った事を反省する事が多い。

謂わば何らかの情熱を持ってあの時間を振り返っている訳だが、何故そこまで情熱的に振り返っているのかと言うと、それは、私の中の宗教的価値観が刺激を受けたからである。その教会の日曜礼拝では、音楽に合わせてみんなで歌ったり、一斉に手を合わせて祈りを捧げたりする時間がしばしば有った。私はその光景に呆気を取られて思わず教会の全体を、首を様々な角度に降って見回したのだけど、その時の教会の中には、感謝、喜び、安堵、と云った多様な感動、或いは幸福感が充満している様に思えた。

私は、その感情の充満に、神聖な熱を感じた。"熱狂"と表現しようかどうかやや悩んだけども、"熱狂"と表現をしては、この整った、落ち着いた、感情の充満を表現出来る気がしなくて、でも感情がどんどん湧き出て来る事がわかる様にこの教会内の状態を表現したくて、暫定的に、私はこの感情の充満を「熱」と表現する事にした。暖かくて、確かな柔らかい感触のある、熱である。

私は仏教徒だが、未だ嘗て、この様な集団的な熱を、仏教的に体験した事が無い。教会でこの熱を感じた時、私は感動を覚えたのと同時に、この教会へ足を運んでいるクリスチャンの方々がとても羨ましくなった。そして、この様な神聖な場を提供しているこの教会はとても素晴らしい宗教団体だと思った。そして更に、果たしてこの様な神聖な場を、現代日本の仏教教団は提供する事が出来ているのかと、甚だ疑問になった。

当然ながら、仏教にも、感謝、喜び、安堵、と云った多様な感動、或いは幸福感を与えてくれる教えは有る訳で、実際に私は仏教の教えに触れて、その様な感情を抱いたから、今日仏教徒を自称するに至っている。私も、個々の仏教的信仰心が、先日のこの教会の中に有った様な「熱」になる光景の中の一員になりたい。仏教的な感動を、多くの他者と共有したい。私は先日の日曜礼拝で刺激を受けた結果、そう思うに至った。

しかし、近所のお寺でそうやって定期的に集会をやっているとか、そんな話は聞いた事も無い。私の住んでいる地域が偶然仏教的信仰心の無い地域なのだろうか。いや、きっとそんなはずは無い。全国何処へ行っても恐らくその非常に冷めた状態は同じだと思う。更に、現時点では別に私は日本の仏教が特別好きな訳では無い。仏教に全体的に存在する、苦しみからの解放に向けて試行錯誤する、この共通の課題解決へ向かう精神が好きなのだ。だから仮に、近所で何らかの宗派のお寺が集会を行っていて、その集会に参加をしても、私とその集会に参加をしている他の方々では微妙に信仰の対象が違う可能性が高い。

物凄く雑に言えば、仏教的な仲間、仏教的な居場所が私は欲しいのだけど、現代の日本社会の中でそれを求めるのは難しい気がする。いっその事自分で仏教サークルでも作ってしまおうかとも思うが、仏教に関心を持っている知り合い等殆どいないし、そんなサークルは簡単には作れないだろう。ううん、どうしたものか。現代の日本仏教は暗い。

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