のあ
はじめまして、のあと申します。 2022年冬の段階で30代半ばの女性で、 職業は、とあるコンビニのフランチャイジーで複数店舗経営している会社の社員です。 どこにでもいる普通の女性ですが、かなり強い霊媒体質です。(俗に、HSPやエンパスと言われたりします) 合わない職場で働いて精神を病んでしまったり、原因不明の体調不良にたびたびなり、救急車で運ばれたこともありました。 運命アドバイザーである、七条文堂氏(まおさん)(instagram: https://instagram.
居酒屋を退職してすぐ、わたしは住んでいた家を引き払い、職場の近くのマスターの家に居候させて頂くことになりました。 マスターにはわたしと同年代の息子さんがいて、わたしが就職した本店の近くで、彼女(後に奥さんになります)と二人で2号店を切り盛りしていました。 最初、何故かわたしはとても息子さんから嫌われていて、 最初はあいさつしても無視されていて、 マスターの家の3階に住んでいたので、3階と呼ばれていました。 3ヶ月ほどお世話になり、近くにアパートを借りたのですが、 それか
クビになったパスタ屋と掛け持ちでアルバイトしていた居酒屋は、ママさんには娘のように可愛がっていただき、とてもお世話になりました。 出勤するとほぼ毎回、仕事終わりに仲がいいお客さんと飲みに連れて行っていただいて、 その帰りにママさんの家に泊めていただいていました。 ママさんの家はダブルベッドで、わたしはいつもママさんの隣で寝ていました。 ベッドの中で、眠る前にママさんの昔話を聞くのが好きでした。 ある夜、ママさんのお兄さん夫婦の話になりました。 お兄さん夫婦は商売をしてい
仕事をクビになったことを、お弟子仲間のUさんに話すと、 「一緒に仕事を探そう!」と言ってくださり、 Uさんの家の近くにある、個人経営のレストランを紹介してくださいました。 クビになって3日後、隣の県にあるレストランのマスターに会いに行きました。 最寄りの駅から徒歩10分のところにある、営業35周年の、個人経営の洋食レストランでした。 出てきたマスターは背が高く、怖そうに見えましたが、 話すと九州訛りで物腰が柔らかく感じました。 やはりわたしは当時も常識がなく、 レスト
震災からひと月ほど経ち、わたしは誕生日を迎えました。 その年の誕生日は新宿のパスタ屋でアルバイトしていたのですが、 仕事中に店長から、「今から仕事を抜けて、徒歩数分の本社へ行って、本社の人と面談して」と言われました。 言われた通り、店から徒歩数分のオフィスビル内にある本社に行くと、会議室へ通され、座って待っていると人事部の偉い人と、スーパーバイザーの女性が入ってきました。 話の内容を要約すると、 「喫煙所でうちの店長の悪口を言いふらしているそうですね。あなた辞めてくださ
その日は早く店を閉め、全員帰宅を促されました。 当時、前代未聞のことでしたので 電車をはじめとする交通機関は完全にストップしていました。 帰宅しろと言われたら、歩くしかありません。 わたしは新宿から自宅が40キロほどあったので、 新宿から25キロほどのところにある友人宅に泊めてもらうことになりました。 私が向かう先と同じ駅近くに家がある、同僚のYさんと一緒に帰宅することになりました。 同じように帰宅難民になったたくさんの人たちと列を連ね、甲州街道をひたすら下りました。
まおさんと知り合ってから、 今までの仕事や悪友らとの縁が切れていき、 もう繁華街に出向くこともなくなりました。 新しい仕事は、自然と飲食業を選択していました。 学歴がなくてもできて、食べることが好きなわたしにぴったりだと思ったからです。 昼間は新宿の地下街のパスタ屋でアルバイトしながら、 夜は新宿から自宅までの帰り道にある居酒屋で終電までアルバイトしていました。 2011年の冬から春になろうとしていたある日 いつもどおり、仕事の休憩中でした。 当時喫煙者だったわたしは
3回目の浄化旅で出会ったかつてのお弟子仲間のUさんは、統合失調症でした。 前述のとおり、Uさんの、最初のわたしに対する印象は悪かったのですが、 何故かmixiでやりとりがはじまって、流れでうちの近くまで遊びに来てくださることになりました。 Uさんは当時、隣の県に住んでいたのですが、 わたしの家の近くまで、電車で2時間くらいかけて来てくださいました。 Uさんとは昼前に落ち合い、駅前のパスタ屋さんでわたしの心の荷物を軽くしようとずっと話を聞いてくださり、陽の落ちた夕方過ぎに
3度目の東京浄化旅は、その後すぐに、渋谷と新宿の境目にあるゲストハウスで行われました。 そこで、後にわたしがとてもお世話になるUさん(後に詳しく記しますが、今はまおさんと縁が切れています)と出会います。 そこで、てんてんさんとUさんが、みなさんにご飯を振る舞ってくださいました。 それがあまりにも美味しく、お代わりをせがむ私にUさんは「人数分しかない」と言ったのですが、わたしは引き下がりませんでした。 そんなわたしに、てんてんさんは困った様子で、少し分けてくださいました。
それからすぐ、2度目の東京浄化旅があり、参加させていただきました。 その時、今でもご縁があるレオさん(https://instagram.com/reochiichan?igshid=YmMyMTA2M2Y=)と、てんてんさん(https://instagram.com/_ten_ten_616?igshid=YmMyMTA2M2Y=)と出会います。 レオさんもてんてんさんもとても喋りやすい人たちでした。 社会にまともに出たことがなく、コミュニケーションもろくに取れないわ
わたしにとって、はじめての浄化旅は、南新宿のビジネスホテルでした。 まおさん達がいた部屋の番号と、連れてきてくれた仕事仲間の車のナンバーが全く一緒で、不思議なものを感じました。 仕事仲間と一緒に部屋に入ると、まおさんと葉月さんがいました。 お二人の第一印象は、ものすごい笑顔! お二人の周りが明るく、眩しく感じました。 仕事仲間に紹介されてわたしの名を名乗ると、まおさんは開口一番、 「これは期待ができる子が来た」 とおっしゃってくださったことをよく覚えています。 わたし
適当に働いて、繁華街に繰り出す日々を続けていた ある夜、不思議な夢を見ました。 公園かどこか自然の綺麗な場所の映像が映り、 わたしの未来について、中年の女性が優しい声で語りかけてくる夢でした。 その夢の話を、とある仕事仲間の男性にしたところ、 自分が持っていた奇跡スペシャル(水晶玉の数珠に、まおさんのエネルギーを入れたものをこう呼んでいました)を、貸してくださいました。 はじめて持った時、なんだかものすごく気持ちよかったのを覚えています。 その彼は当時、七条文堂氏のお弟
親の望みで嫌々普通科の高校に入学するも、3ヶ月で自主退学。 高校2年の年に、別の夜間定時制高校に入学するも、やはり3ヶ月で自主退学。 高校3年の年にまた別の夜間定時制高校に入学しましたが、また3ヶ月で自主退学。 「あなたは何も続かない」と母親に嘆かれました。 わたしと学校が合わなかった意味が、後々わかるようになるのですが、 10代の頃は自分を社会不適合者なのだと思い、とても辛かったです。 18歳から20歳を過ぎるまではコンビニやスーパー、居酒屋、派遣の工場などの仕事を転々
中学時代は吹奏楽部に所属して、成績も可もなく不可もありませんでしたが、相変わらず学校嫌いでした。 見た目は普通でしたが、ミュージシャンの椎名林檎さんに憧れていたのと、 悪い先輩と仲良くしてたので、「毒林檎」と呼ばれていました。 部活は好きでしたので、部活のあった中3の2学期までは通い、そこからは不登校になりました。 不登校だった時期、美人局をしていた人たちとの付き合いがありました。 彼らは出会い系サイトを使って、18歳未満との援助交際を持ちかけ、 会った男に複数人で「未
わたしは埼玉県で生まれ、東京都で育ちました。 成績は可もなく不可もなく、学期末に貰う通知表には「正義感が強く、困った子を見過ごせない」と書かれるような子供でしたが、とにかく学校が大嫌いでした。 「わたしはわたしなのに何故、一つの型にはめられなければならないんだろう、狭苦しい!」 とずっと感じていました。 いろいろなことに敏感な上に、感情のコントロールが苦手で、教室で泣き叫んだり、過呼吸になったこともありました。 過呼吸になって保健室に運ばれたわたしは、保健室でしばらく休