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No,44
2020年12月27日 23:00
稽古の続く日々、気の張りつめた和室の厳粛さにはそぐわぬアンバームスクが、ふとただよってくる。どこか懐かしいその香りに驚き振り返ると、姉が天窓に手をかけてわたしの作った花冠を手に取っていた。久々の姉との邂逅に戸惑い、たじろう。自らを曝け出した”作品”をまじまじと鑑賞され、心のうちを見透かされた気分になり羞恥から耳朶に熱が帯びる。姉は隣に腰掛けて、わたしに花冠を持て上いだ。姉のかか
2020年12月20日 20:00
哺時にかかって稽古場が薄暗く陰る。揚げられた花は決まり通りに挿さったままどこか悲しげに床の間の隅へ追い遣られ鎮座している。不甲斐も遣る瀬もない自律が衝動に掻き立てられ、生けた花々を花器から引き抜いた。剣山から開放された花を並べる。本当にわたしがつくりたい作品。在るが儘にさき誇れる姿をみてほしい。ばらばらの花を月桂樹の枝に結いつける。祈りを紡ぐように夢中になって編んだ花は冠を模し
2020年12月6日 20:00
話し声ひとつ聞こえない静寂と几帳面に編まれたい草の香りに包まれて、花合羽から一輪の百合をつまむ。清らかな花弁を慈しむ時間だけは、わたしは自由でいられる。わたしは室町から代々続く生け花の家元に生まれた。物心ついた頃から花があふれた生活で、伝統と格式に蝕まれた華のない日々を過ごす。決まり通りに挿すことで大人たちには賞賛される。そこには”らしさ”などは求められず、それが正しいことだと
2020年11月15日 20:00
人間とは、どれだけ恵まれていようとないものねだりをしてしまう生き物である。いつも同じ窓からの景色。いつも同じ天井。いつも同じ時間に帰ってくる彼。昨日も今日も、きっと明日も明後日も、毎日、毎日、毎日。「このままじゃダメだ」口を衝いて出た言葉は、いつもと同じ部屋に溶けていった。徐に携帯を開き、求人サイトを見る。今は彼の手の内にある、僕の生活。握られている、人間としての
2020年10月25日 20:00
おだやかに澄む白日を分厚いセメント壁が遮断して、篭ったモーター音が窓の向こうの百舌鳥の高鳴きを掻き消している。天井の一点にどろりと視線を据える彼に手を伸ばす。そっと触れてもデイベッドに体を預けたまま微動だにしない。糸の切れた傀儡のように、追憶のなかの彼の心肝も切れてしまったみたいに。 品良く落とし込まれた口もとからふっくらとした福耳にむかって撫ぜてゆく。すべらせた指先がこめかみには
2020年10月11日 20:00
「牛乳がのみたい」唐突な要望にぽかんとする私をよそに、冷蔵庫の牛乳パックを直に煽ろうとしたので、慌ててその手を取り上げて注いであげる。マグカップの底で、僅かに違う白色がまどろみあう。はい、と渡してやれば彼はゆっくりとこちらを見つめて牛乳を口に含む。ひんやりとした瞳に飲み込まれそう。 彼の虚ろなまなざしを覆っていた艶やかな睫毛がゆっくりまじろう。「ああ、思い出した…昔はよく、夕
2020年10月4日 20:00
研究棟の廊下には強く西陽がさす。ふと、幼い頃の記憶が蘇った。5時の鐘がなり、かえりたくないと駄駄を捏ねた自分に、明日も会えるよとなだめる君。今となっては所在すらしれない彼は今何をしているのだろうか。今もどこかで私のことを覚えているのだろうか?所詮思い出は思い出だ、とため息交じりに俯く横目に人影が吹っ飛んできた。…人?思わず見覚えのある顔貌を凝視した。間違えようがない、恐ろしく均
2020年9月20日 20:00
2人きりの時間を手にしてしまった私は自分の所有欲に抑えが効かなくなっていた。でもそれでもいいと言う自分もいて、それがなお欲に拍車をかける。もう、とことこん行けるとこまで…始めは冗談のように言ったつもりだった。始めてしまうともう止まらなかった。束縛とは違う、目に見える独占欲が彼に絡みつく。あの頃も最初からこうしたらよかったのだろうか。まだ一緒にいられたのだろうか。彼を
2020年9月13日 20:00
時間がまた動き出してから私の生活は一変した。というより、私が元の私に戻ったという方が正しいだろうか。残って欲しくないようなところばかりが色濃くなって。あの人は相変わらず、まだ掴み取れていないものにしか興味がないらしい。それを分かっているから私も素っ気ない振りをする。相手の好みに合わせて自分が変えられる感じが心底気持ち悪かった。他の人には執着するのに私が私であること
2020年9月6日 20:00
あの人との関係を時間に任せて無かったことにしてもらってから私はいつからか仕事にまみれている。あの頃は“あなた”だけだったのに。名前のない関係性に嫌気がさして焦って、そんな私を君は突き放して。私は恋愛がしたかった。しっかり愛されたかった。なんて思い出しているとまた会いたくなってしまう。別の人で上書きしても一人の時間がやってくるとあなたがこっちを見る。その目が嫌だった。
2020年8月30日 20:00
彼は私に少しだけ心を許したのであろうか。それとも白状しないと酷いことをされるとでも思ったのだろうか。細々と過去を語り出す。どうやら彼は私といる前、誰かの「所有物」だったらしい。それが彼の初恋でありトラウマだ。彼の「初めて」は何もかも、普通ではなかった。彼の愛とは服従であり、愛される身は捕虜であると。彼はそう教わってここまできた。高価な服、1人じゃ退屈過ぎる豪邸
2020年8月23日 20:00
「どこから来たの?」私は思い切って彼に尋ねる。彼はやはり何も言わない。彼に踏み込もうとすればするほど、彼が遠ざかっていくように感じる。自分のことを何も話そうとしないのは、私に触れられたくないだけなのか。それとも今まで誰にも触れさせなかったのだろうか。沈黙の時間が流れる。「知ってどうする?」と沈黙を破った彼が虚な目で私を覗き込む。私は負けじと「そんなに誰にも知ら
2020年8月16日 20:00
目が覚めてふと目に入ったのは彫刻のような繊細な鼻筋だった。私はこの得体の知れない、触ったら壊れてしまいそうな彫刻と一夜を共にしてしまったのだ。彼は最初から私と共存しているかのように窓際でコーヒーを飲む。私の視線に気がつくと、穏やかな薄ら笑いを少し浮かべて「飲む?」と私に首を傾げた。聞きたいことが沢山あった。昨夜のことも、彼の全ても。けれど私は彼の波長に合わせ、
2020年8月9日 20:00
きっかけなんて簡単だった。こんなつもりじゃなかったのに。こんなつもりが今は物凄く心地いい。2年付き合った恋人と別れて3ヶ月、傷が癒えそうで癒えないまま1人いつもの喫茶店で。今日は向かいに見たこともない若い男がいた。サラサラの黒髪に澄んだような死んだような目。私は元彼のことなんか忘れて思わず15秒ほど彼だけに没頭した。我に帰った私は会計を済ませ店を出る。昨日買った傘を