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映画「ワンダー」を見て思い出さずにはいられなかった日本の教育の悲観的サイド

映画を見て

「ワンダー 君は太陽」を見た。絶対泣けるというのがわかっていたから見るのをなんとなく避けていたが、熱烈に勧められたので見てみたら、やっぱり泣けて、思っていた以上にあたたかく爽やかな気持ちになり、寝る前に見る映画としてもとてもよかった。

それぞれの視点が描かれていてどの登場人物もとても素敵なのだが、とくにいいなと思ったのが、お父さんと校長先生。

学校のイヤな奴の話題に「相手より大きな人間になって」と素晴らしいことを言うお母さんに対して、お父さんは小声で「よく聞け、そいつは最低だぞ。押されたら押し返せ。人を怖がるな」って言うところとかが、率直で本音でいい。このお父さんとお母さんのバランスがいいのかもしれない。
きっと両方がお母さんの意見を本気で主張していたら、子どもは(自分だったら)苦しくなってしまうか、ひねくれるけど、このお父さんの「抜け道」みたいな言葉があるだけで少し笑えて、気が楽になって、リラックスできて、落ち着ける。「だよね」って腑に落ちる意見を正論や美しいこととは別の角度で聞けるだけで、子どもは安心する。

他にも、会話の節々に感じられるユーモアとか、ケンカで服の肘が破けて帰った主人公に「勝ったか?」って聞くところ、それで妻に怒られつつも「勝ったって顔してるぞ。だろ?」って聞くところとか、とにかくそういう率直さが素敵だった。

そして校長先生。担任の先生も化学の先生も素敵で授業もー私が日本で受けてきたものより断然ー楽しそうなのだけれど、それ以上に校長先生が理想的だった。こんな校長先生が全学校にいたら、って思うような。映画とかドラマで見る校長先生史上、最高だった。というか、校長先生がこんなにいい人なパターンって他にないんじゃないか。現実はもちろんフィクションの校長先生でさえも、だいたいが金持ちの強気な親には逆らえず、平伏して、怯えて、言いなりみたいなイメージ像が私の中では勝手に根付いているけど、この校長先生は違った。

理不尽で傲慢で気のふれた親に面と向かっても、怖じけず淡々といじめの証拠を突きつけ、堂々と子どもに停学を宣言。多額の寄付や教育委員会へのつてを理由に脅されても、呆れて鼻で笑う勢いで、最後は真っ当な言葉を静かに控えめに、しかし強く残して親を負かした。

かっこよかった。修了式で表彰される人物に主人公を選んでいたのも最高だった。みんなが主人公に拍手を送って、こんな学校あるだろうか、あってほしいなって思わずにはいられない込み上げてくるものがあるシーン。。

日本の教育って何なの?


前置きが長くなったが、素敵な学校と素敵な家族や友人が出てくるワンダーを見ていて考えずにいられなかったのが、日本の遅れて歪んだ教育システムのこと。

小中高生の間は自分の意見を言ったり考えたりする場面がかなり少ないのに、大学に入ると急に書いたこともないレポートや論文を書かされ、意見を求められ、社会に出るときにはやったことも考えたこともない自己PRをしなきゃいけない。

何でもルールルールで従わなきゃいけない日々、ずっと答え合わせの日々・・・考えない方が上手くやれる、考えない方が楽・・・だからそんな機会なんて一度もなかったのに、いきなり求められる。

真逆のことをさせられてるから混乱するし、急につまずく子が(私含め笑)出てくるのかなと思う。

学校の授業でもっと、自己PRを考えるとか自分の意見を長々と書くとかスピーチをするとか議論するとかそういうのをやっていたら。そしたら、練習が積めて、慣れて、社会に出る頃にはバリバリアピールできるようになってるはず。

日本の教育が嫌いだからーーとくに受験、寝食も遊びも大事なことも忘れて、無我夢中でただ詰め込んで頑張って時間を費やして孤独できついだけで、意味があった感じも身になった感じもないーーそれに、日本の学校は発達障害にとってめちゃくちゃ窮屈な場所だからーー学校だけでなく、日本自体がそう。学校はその象徴ーー

自分に子どもができたら伸び伸びとイキイキと海外の教育を受けさせたいと思ってきたのにーー小学6年生の頃、カナダに1週間だけホームステイしたときに体験した学校の授業が衝撃的だった。廊下に出るのも自由、お菓子食べてOK、飲み物飲んでOK、日本のとは自由度が違いすぎて、個人の自由が尊重されてるな、人権が守られてるなと思った。お昼のサンドイッチは前日の夜に自分で用意しておいて持っていくっていう、自立したスタイルもいいと思ったーーその日が来るのが早すぎて笑、そんな資金も稼ぎもなく、今産んだら海外の学校行かせられないからって理由で産むのを躊躇したほど。

でも留学は絶対させたい(本人が拒否しない限り)というか、親子留学で私もしたいと思っている。できれば5歳になる前に行きたいけど、無理だったら小学生のタイミングでサマースクールとかでもいい。もちろん高校とか大学〜でも。そのためにお金を貯めなきゃいけないなーと思うたびに、国際結婚して海外で産んで海外の教育が当然受けられるようにできなかったことに対して勝手に自責の念にかられる。

話が逸れてしまったけど、とにかく日本の教育が嫌いということと、日本の学校は発達障害の子を活かせないどころか、潰してしまい、より苦しめる、萎縮させる場所になってしまっているのではないかーアメリカでは天才に、日本では二次障害に陥るーということと、日本のような考えさせない教育は危ういしまずいのではー形だけ重視で本質とか意味が迷子になるからーということを言いたい。

コロナの政策で謎の布マスクがばら撒かれたり、リモート授業なのにマスクをつけなきゃいけないっていう意味不明で滑稽なことが起こるのは、この国の教育が根本にあり、それが大いに問題アリだからではないか。何でも「ルールだから」が癖づいて、思考が止まるという。

あのマスクは果てしなくムダで、何に金使ってくれてんだよってかなりイライラしたけど、この程度ならまだかわいいものなのか? いや、この日本の行き着く先がヒトラーを彷彿とさせるからヤバいなと思うのだ。

どうしたらいい?どうなればいい?


なんなら大改革してほしい。教育は短期的にはお金にならないけど、長期的に見ればめちゃくちゃ経済が潤うと思うから。それをわかっているはずなのに動かない、後回しにしている政府?ムカつく。

まず先生になる人の質をあげるとか、テスト以外の方法[エッセー、スピーチ、創造、考える系]で評価するとか、クリエイティブな作業や社会科見学的な行事をもっと増やして外の世界やいろんなものを見たり考えたりする機会をたくさん作るとか、フランスみたいに週4にして家族との時間や自由な時間を増やすとか、宿題をなくすとか、これもフランスみたく朝礼とか集会とかいういらない行事はなくすとか、先生じゃなく生徒たちがたくさん発言する参加型の授業を増やすとか、足並み揃えてではなくそれぞれの能力に合わせて進ませる、苦手な教科は捨て得意な教科、好きな教科を伸ばすことに特化できるとか、「ルールだから」と「答え合わせ」は撤廃するとか、小学生の後半から授業を選択制にするー選ぶ力がつくし、自分は何が好きか、嫌いか、やりたいか、やらないかを考えたり吟味したりすることをこの時期からやっておくって強いーとか

とにかく、自分で選んでやっている感覚が持てて、主体性と自立心が育って、学びが楽しいものに感じて、ちゃんと身(実)になるような、そしてイキイキして、どんどん自信がついていくような形がいい。
教員になっていれば、少しでもそういうことを実現することができたのかなーとか思ったりして、また「たられば」なことを考える。

一方で、塾とか通信の学校とかそういう民間の企業たちが頑張っていて、どんどん出てきていて、新しい教育のあり方を提示していると思うから、そっちから変わっていくのも期待する。でも通うのにお金がかかってしまうから、たどり着ける人が限られる。やっぱり一般的なレベルで学校が変わっていってほしい。ほしいほしいって願うばかりで自分は何もできていないが。

ビリギャルが日本のクソ教育をなんとかしたいとアメリカの大学院で教育学を学んでいると聞いて、かっこよすぎる・・・!と思ったと同時に日本の教育に少しでも変化をもたらしてくれないか、新しい風を吹かしてくれないかと期待をする。

日本の教育に適応できて、上手く利用できる子ならいいけれど、それにやられてしまって人生が狂ってしまうような子、塞いでしまうような子がいるのは悲しい。とくにそうなりやすいのが、ADHDやASD、LDなどの発達障害の子たちなんだと思う。そういう子たちは日本の細かなルールや右ならえで足並み揃えてみたいな教育実態に合わず、やはりはみ出し、厄介者として扱われ、怒られる経験も一般的な子よりも多くなる。そのことから、鬱っぽくなってしまったり、極端に自己肯定感を下げてしまったり、生まれ持ったものではなく、日本の教育が引き起こす二次的なものとして、調子を崩してしまうのである。

アメリカの教育やムードがあれば、スティーブ・ジョブズやイーロンマスクのような天才を生むところを、日本の学校教育に限らず日本全体の雰囲気や空気感は、発達障害の人間に二次障害を生んでしまうっていうー発達障害というネーミングもなんかイヤーその現状が悲しい。

米津玄師みたいな例外も何人かいるけれど、アメリカに比べたら、その可能性も割合も大分下がる。

発達障害に歓迎ムードではない日本が、アメリカみたいに制度的にも教育的にもちゃんと整って、学校ではいいところや得意なところを伸ばせるようにガイドが各々について、ピーナッツアレルギーくらい認知されて、ノーマルだけどちゃんと知らなきゃいけないこととして知られる日は、たとえ遅れてでも何十年後かにくるものなのか、それともそもそもの日本人の気質と文化に合わないから一生のけ者として排除され続けるのか、いち当事者として見ていきたい。


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