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誰かのような文章を書きたいと思うことはある

だけど、それってやっぱり「自分」じゃないんですよね···

たとえば「サカエ コウ。」さん。文章がとても優しくていつ読んでも読みやすいし、1日の終りに、眠れぬ夜に読みにいってもホッとする文章なんですよね。

そんな文章が書ければ良いなと思うし、もう少しどうにかならんのか?自分・・・と思うこともしばしばあるのですが。


自分らしさとは?

いきなり文体を憧れや「良いな」と感じた勢いだけで変化させるといつも読んで頂いている方々も、神屋を知っている方々も驚いちゃいますよね。

文章ってそれ単独で成立しているのではなく、そこに見え隠れする「リアル」な「人」が表れていると思うんですよね。

だから「神屋らしさ」というものも必要だし、こうしてずっと書いていると伝わるものがあると思います。同じ内容でも神屋が書いたかどうかも判別出来るかもしれませんね。

「神屋のイメージ」がどんな感じかは明確ではありませんが、noteから感じるもの、twitterから得られるもの、講演や陸上教室、様々な場面で感じるものもあると思います。文章を書くことでバラバラだった神屋のイメージがある程度共通点を持つ、一般化する効果もあるかもしれません。

もう大分減ったかもしれませんが、映像から入って、文章を見てイメージが変わったという方々も居られるかもしれませんが・・・


日常と文章

そう考えるとあまり日常の言葉からかけ離れた文章を書くのも書き難いし、続きませんよね。よそ行きの「書き方」では早晩、行き詰まる気がします。

持続継続性を持つことと、表現はある程度一致するのかな?と思います。だから誰かの文章に憧れ、少し自分の中に取り込んでみる、工夫してみるのは全然良いし、大切なことだと思うのですが。

あまりに自分からかけ離れた文章に移行すると何がなんだか、原点がどこにあるかも忘れてしまいます。


余談ですが

そうした経験が1つあります。それはランニング、陸上競技での経験ですが、上手く行かない時に自分の競技スタイルを見失っていたんですよね。特定の選手を意識し、そこに勝つことを考えて。ここまでは良いのですが、だからその選手の真似をしようとしたんですよね。全然タイプが違うし、武器も違う。何よりバックボーンが違いすぎる状態で意識し過ぎました。

そのおかげで完全に自分の強みや取り組むべき内容を見失い、自分がどうやって走っているかも解らなくなりました。

同じ轍をもう他では絶対踏みたくないし、踏みません。


多くの良き文章に出会うからこそ

憧れは憧れ。こんな風に書きたいはあっても、願望はあってもそれは多少の工夫とエッセンスに留め。参考にするくらいにする。何より自分の文章だけでなく、リアルも含めた自分と対話し、把握し、どう表現するかも考える。

そのようにしていきたいですね。
でも、本当に良い文章を書く人がnoteには多いですよね・・・

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