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シリーズ「能力主義」#02【哲学的研究】能力主義の根っこ【全文公開】


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2.1 meritocracy / 能力主義

さて、このシリーズはマイケル・サンデル氏の本をネタの前提として「能力主義」について考えることを目的としている。

前回は僕の個人的な話をしただけなので、今回から少しずつ内容に入っていこう。まず、この本のオリジナルのタイトルは

The Tyranny of Merit: What's Become of the Common Good?

である。"common good"については、サンデル氏の専門分野であり、基本的に「そういう」視点で書かれている。それが日本語訳に入っていないのは、一般日本人の感覚では"common good"などと言われてもピンと来ない(売れない)からだろう。まあ仕方がない。僕も"common good"などと言われても、実際ピンと来ない。では、"merit"とは日本語でどういう意味か。さすがにこちらは無視できない。「メリット」と片仮名化すると「長所」なんて意味に感じるだろうか。もう少し幅を広げれば、「賞賛に値する価値」だとか「功績」という意味にもなる。「潜在する能力」というような意味はあまりない。しかし、"meritocracy"に「能力主義」という訳語が当てられているのは、かなりしっくりくる。「業績主義」なんて言い方をすると、「成果主義」という企業の人事評価のようなイメージに寄ってしまってニュアンスが大きく変わってしまう。なので、"meritocracy"と「能力主義」という二つの言葉の間には若干のイメージのズレは発生しつつも、アメリカと日本の文化の違いを踏まえて、敢えてそういう翻訳になっているのだろうと思われる。ここで言う「能力」とは潜在する可能性ではなく顕在するスコアのことを指している。まず、そこは意識しておこう。

2.2 能力と信用

皆さんは、他人を信じる派だろうか、信じない派だろうか。

もちろん、そんな質問に意味はない。信じられる人のことは信じられるし、信じられない人のことは信じられない。それだけである。

しかし、そもそも、

人が人を信じるとは何だろうか。

信用と信頼という言葉を比較するのが、入り口としてはわかりやすいだろう。信用というのは、まあクレジットカードのクレジット"credit"の部分のことである。現在までの「記録(データ)」に基づいてある程度スコア化できる「実績」の単なる言い換えである。人が人に頼み事をする。それをちゃんと(期日までに)こなす。たとえば、そういうことの繰り返しで信用は貯金されてゆく。それは、要するに「能力主義」である。

人が「社会で生きてゆく」とは、「約束を守る」ということである。いまやそれはあまりに当たり前すぎて誰も疑わず、約束を守れない人は当然社会から干されてゆく。いつまで経っても約束を守れないというのは、約束を履行する「能力がない」ということである。日常的に細かな約束を守るのは苦手だがたまにとんでもない発明をするような才能は、現代社会ではきれいさっぱり消去される。

しかし、故意に約束を"violate"することは明確な害意として排除されるとしても、消極的に約束を"complete"できないことはどの程度の「罪」なのだろうか。

話を戻すが、「信用」の肝はスコア化できることであろう。つまり、換金できるということである。モノの価値がお金と紐付くことが自然に延長されて、ヒトの価値もお金と紐付いたわけだ。もちろん、そんな貨幣という明確な価値のスコア化手段が発明されるより前の時代から、人は人に対して、もっとシンプルな「利害」というグラデーションから「信用に近い」判断は下していただろうとは思う。でも、それはポジティブな感情として、たとえば近親者に対する「情」と明確に切り分けられるようなものではなかったろう。

スコア化された「信用」に対して、「とにかくただ人を信じること」は何と言えば良いだろうか。信頼? 英語なら"trust"だろうか。ちょっとネットで検索してみると、ビジネス系のブログなんかで「信用と信頼の違い」みたいな記事が山ほど出てくる。しかし、僕には全くしっくりこない。

「信頼」という言葉も、結局「信用」と同様、相手に対して一定の利己の期待値を押し付けていることに変わりはない。データに基づいて客観的にスコア化されたものか、質を評価した主観判断かの違いだけである。「信用」が強い能力主義に基づいているとしたら、「信頼」は弱い能力主義に基づいていると言える。

ほとんどの人にとって、人が人を信じるとは、

記録(過去のスコア)に基づいて計算された期待値(未来のスコア)がポジティブである時に相手に対してポジティブな心情を持つ

ことであろう。僕にとっては違う。

僕にとって人を「信じる」とは「赦す」に近いものだ。もちろん、共有時間が長くなればなるだけ一層その心情は強固にも薄弱にもなり得るため、記録が無関係だとは言わない。重要なことは「スコアが介在しない」ことである。相手が僕に対してポジティブなスコアを提供してくれることより、ネガティブな態度を取ることが「ない」と感じられることが、僕の相手を信じる気持ちを高める。それはポジティブというより、ネガティブの裏返し行為である。自然言語においては、「肯定」と「否定の否定」は一致しない。

思想というのは他者目線を含んだものなので、「倫理として機能させるには」肯定ではなく否定的定義にしなければならない。それは、既に"Feel different!"記事内にてGoogleがAlphabetに変わった時の”Don’t be evil.”から”Do the right thing.”への社是の変更についての章で語った。

これは信用のスコア化の話にも通じる。「無条件の肯定」というのは非常に難しい。肯定には基準が必要である。しかし、否定はスコアなどなくとも無条件に行なえる。否定とは「閾値を超えていない」ことだけが重要であり、実際のスコアがどこまで達したかとは関連がない。

肯定の信用は"Do the right thing."型であり、他者を含まないエゴである。否定の信用は"Don't be evil."型であり、他者の視線を含む。

僕に関して言えば、能力の高低という標高によって人を信じ分けているわけではない。そして、仮に結果的にネガティブなスコア(不利益)を提供されたとしても、そこで相手に対してネガティブな態度を取ら「ない」ことが、僕にとって人を「信じる」ということである

これは「何をしたって許される」から「何をしたって良い」と相互に押し付け合う関係を意味しない。

「何をしたって許される」という前提の上で「何をしたって良い」と思わ「ない」関係

のことである。とてつもなく得難い。

たとえば、そんな関係がお金で買えるだろうか。あるいは、この関係を構築し得るか否かは各人の能力の高さにかかっているのだろうか。友人関係はどうだろう。恋人との関係はどうだろう。家族ならどうだろう。

ジェイラボという僕が運営するコミュニティの理念と深く関わる話であるが、もちろん、これはお金では買えないし、能力の高さだけで一色に塗りつぶせる話でもない。シンプルにただ「そう」思えるかどうか。言ってしまえば、それだけである。そして、それだけである(スコアが介在しない)ということが、能力主義社会では絶望的に無理ゲーである。この社会では、場合によって家族関係にすらスコアは強く介在する。現代社会において「この関係」が本当に構築できるのかは、コミュニティとしてのジェイラボの実験を通じて、いずれ報告することになろう。

2.3 能力主義の根っこ

僕はよく、お金は現実と紐付いていないという表現を使うが、「信用」はお金(スコア)と紐付いている。すなわち、「信用」は現実(一元的にスコア化などされ得るはずがない世界)と乖離した箱庭(経済学)における概念である。後は、皆さんが経済学による現実世界のどこまでの塗り絵を許容しているか、それによって「信用」の意義が変わってくる。

合理性などとは無関係に、ただこの人と、この人達と一緒に生きたい。データと関係なく、ただこの人達が好きだ。

皆がそんな風に誰かを想い生きる。そんなことが、はたして能力主義社会の中で実現できるだろうか。

もちろん、できるわけがない。

制度面からは、まず能力(スコア)の差異をどうするのかというところを検討せねばならない。

そこで一番シンプルに(愚直に)思いつくのは、確率の概念によって能力をシャッフルして無効化することである。社会で認められる価値観の順に並べられた能力、その能力に応じて社会から報酬が与えられる。そうした「人工的」構造を強制的に「運」によって均してしまう(個人のレベルごとに報酬をシャッフルする)というのは、一見「自然的」ではある。特にカネとコネにまみれたアメリカの行き過ぎた学歴社会を批判的にとらえているサンデル氏も、大学入試にたとえば一定の「運」要素を導入することを解決の糸口として検討している。

しかし、これは能力には高低(評価の違い)があるということを、むしろ強烈に肯定する感覚である。高低の評価軸というものは現に存在するのに、それを認めず無理に均すというのは、結局のところ「人工的」であり、高低の評価軸を一時的に薄めることはできても、丸ごと無効化できるわけではない。真に「自然的」でありたいなら、極めて人工的な箱庭の中限定で明確に存在する能力の高低をむしろ積極的に肯定し、しかし我々が生きている現実世界は人工的(一元的)な箱庭ではないという前提をはっきりと線引きすることである。人工的箱庭とは、繰り返すが、経済学のことだ。

僕は別に「資本主義が行き詰まった」なんてキャッチーなマーケティングがしたいわけではない。つまり、箱庭(経済学)の話がしたいわけではない。ただ、人間(哲学)の話がしたいのだ。

能力主義とは何か。その本質はどこにあるか。サンデル氏すらそれを明確に意識できているとは思えない。僕はこのサンデル氏の著作を読み、頭の中でぼんやり漂っていた考えをちゃんとまとめようと決心するきっかけを得ることができた。なので、サンデル氏には感謝はしている。しかし、前から言っていることだが、サンデル氏は非常に鋭い分析を見せてはくれるものの、いつも答えにはたどり着かない。以前動画で少しお話ししたことのあるトロッコ問題なんかもわかりやすい例であろう。

僕にとって哲学とは「そうでしかあり得ない」ものである。だから、どんなものであっても、それを語る言語の範疇においては必ず答えは一意に定まる。この論考の中でそれを追求したい。

能力主義の根っこは何か。

今回のお話はそこまでである。

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