西原そめ子

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小説「ザ女帝」 目次

ざ女帝 目 次 1 出立 いざ娜大津へ 2 曾孫女王誕生と伊予滞在 3 熱田津の歌と額田王 4 舒明天皇の皇后から皇極女帝に 5 乙巳の変と退位、そして鎌足のこと 6 孝徳天皇の即位と大化の改新 7 葛城(後の天智天皇)、皇太子になる 8 重祚して斉明天皇に 9 孫たちのこと 10 娜大津での日々 11 豊璋との別れ 12 朝倉の仮御所へ 13 斉明天皇薨去と難波の殯 14 白村江の大敗と豊璋のその後 15 倭国の国防と遷都 16 天智天皇即位と発病そして薨去 17 男兄弟

    • 小説「ザ女帝」 あとがき

       この書は私が生まれて初めて書いた小説です。小説の書き方の作法も知らぬ、全くズブの素人ですから小説もどきです。たまたま別件で資料を渉猟中に斉明女帝の「征西記」を知り、この女帝に興味を覚えて、書いてみたいと思ったことがきっかけでした。でも一字一句ゆるがせに出来ない論文はムリ、不明なところを想像・憶測でつなげられる小説なら書けるのでは、と思ったような次第です。  登場人物の四女帝が活躍したのは七世紀(飛鳥)から八世紀(天平)にかけての約百年間、名称も大王家から天皇家へ、国の組織

      • 小説「ザ女帝」 (13)

        38 元明天皇の即位 (元明天皇の独白)大宝3年(703)1月、国でも我が家の中でも君臨していた姑の持統が数日の患いであっけなく崩御しました。1年間の殯のあと本人の意思で、我が国の皇族として初めて火葬され、遺骨を銀の壺[i]に入れて天武と同じ檜隈大内陵に合葬しました。これで一連の葬送行事は終わりました。天武に較べると簡略でした。  姑の持統は私と同じ天智の娘で異腹の姉です。私はこの姑に望まれて一歳年下の甥、草壁と結婚し、ずっと嫁として姑となった姉に仕えて来ました。勝ち気で

        • 小説「ザ女帝」 (12)

          35 大津よ ごめんなさい。 (持統天皇の独白)私は天皇になり、国の民を統治し人を使う立場になった。何と責任の重い仕事だろう。そしてしみじみ分かったことがある。人には夫々天性備わった器(うつわ)というか器量というか、身分では測れない能力差があることを初めて知った。上に立つ者は人間の器の大小を見極めて仕事を与えたり、補佐してもらうことが大事であることを初めて知った。そういう意味では父も夫も器の大きい人だった。だからあれほど多くの仕事が出来たのだ。  私は器の大きい二人にいつも守

        小説「ザ女帝」 目次

          小説「ザ女帝」 (11)

          32 持統天皇の即位 (鵜野皇后の独白)或る日私は聞いてしまった重臣たちのヒソヒソ話を。私が朝議を終えて廊下に出ると、まだ朝堂に残る重臣たちの話し声が聞こえて来た。 「大王 いよいよ悪いようですナ」 「アトはどうなりますかナ」 「大津皇子さまが立って下さるのが一番いいけれど‥」 「皆で担ぎますか‥」  重臣たちは廊下で私が聞いているとも知らず‥、その後もいろいろとホンネを開陳していた。私はそっとその場を離れて自室に戻った。皆、天皇や私の前で話すときとはまるで別人だ

          小説「ザ女帝」 (11)

          小説「ザ女帝」 (10) Ⅳ 持統天皇

          27 大津・草壁二人の皇子の死  天武天皇崩御の翌月、まだ殯もまだ終わらぬ10月2日に、臣民を驚かす驚天動地の出来事が起きた。大津皇子が川島皇子の密告によって謀反の疑いを掛けられ捕えられて‥、やがて自栽した。刑死だったともいう。  この出来事は今は亡き天武天皇に心服する臣下や大津皇子を敬愛し、その即位を心密かに待望する人々を恐怖で震え上がらせた。謀反の疑いは鵜野皇后の差し金であることが明白だったから。  そんな不穏の空気ただよう中で、皇后はたびたび百官を列席させて、草壁を

          小説「ザ女帝」 (10) Ⅳ 持統天皇

          小説「ザ女帝」(9)

          24 天武天皇の外交と軍事政策 (独白は続く) 高句麗が滅亡した668年以後の新羅は次第に強まる唐の半島支配への恐怖から逃れるためか、次第に倭国である日本に誼を求めるようになり、我が国への亡命者も増え始めた。  我が国では推古朝までは新羅と若干の交流があったものの、その後は斉明天皇時代まで親百済一辺倒だった。しかし唐に百済と高句麗が滅亡させられ、新羅が唐の助力で半島を統一すると、我が国も天智天皇の晩年頃から徐々に新羅と交流するようになった。  こうした周辺の情勢の変化を踏まえ

          小説「ザ女帝」(9)

          小説「ザ女帝」 (8) 天武天皇即位

          21 天武天皇即位 (故斉明女帝の独白)アア、とうとうやってしまいましたネ。壮大なる兄弟喧嘩を‥。どこの家でも兄弟喧嘩は日常茶飯事です。子供は喧嘩をしながら育つものですが、壮年になった子供たちの兄弟げんかは修復が難しいです。もっと老年になればお互いにいろいろと人生経験も積み、人間も丸くなります‥、マァマァとそれなりに許し合えるのが普通ですが、これは庶民の家の話です。大王家ともなればそうはいきません。悪くすれは国を二分する争いに発展しますし、犠牲者が大勢出ます。  大海人が自分

          小説「ザ女帝」 (8) 天武天皇即位

          小説「ザ女帝」(7)   Ⅲ 天武天皇

          17 男兄弟 (大海人皇子の独白)私は大王家の一族に生まれたが、父が早く亡くなって母が再婚したので、私は女儒の里凡海氏の元で育った。大人たちは皇子とか皇子さんと呼んで一目置いてくれたが、子供同士はそんなこと関係なく遊びに喧嘩に興じて過ごした。私は年下の子はいつも庇い、年上の子の理不尽やいじめには率先して飛びかかって行った。年の割には体も大きく力もあったので、いつの間にか近隣のガキ大将になっていた。毎日子分を引き連れ、海に山に日暮れまで遊び呆け、楽しく過ごしていた。大人から叱

          小説「ザ女帝」(7)   Ⅲ 天武天皇

          小説「ザ女帝」(6)

          16 天皇即位と発病そして薨去 (天智天皇の独白は続く)翌年の天智7年(667)2月、私はようやく即位し天智天皇になった。大化元年(645)に孝徳天皇の皇太子に立って以来、早や二間る20年以上の歳月が流れていた。孝徳・斉明と2代の天皇に仕える長い皇太子時代だったが、後半の10数年、斉明天皇時代には高齢の母天皇に代って実質的にはずっと天皇の仕事をして来た。また、母の崩御後の7年間は称制ではあったが、全く天皇の気持ちで政に取り組んで来たから、即位したからと言って仕事や気持は何ら変

          小説「ザ女帝」(6)

          霊場巡拝と私 その1

          ・御朱印掛け軸と霊場巡拝   私が霊場巡拝を始めたのは還暦の年からである。きっかけは交通事故死した弟の供養に、霊場の御朱印を押した掛け軸を作ってやりたくて四国霊場を巡拝した。その頃の私は仕事の悩み、家族の心配事などとたくさんのストレスを抱えていたが、巡拝して少し心が軽くなり、これはいいじゃないと嵌っことがよかった。  満願こと一つの霊場の巡拝を終える達成感も心地よく、お詣り仲間を誘いマイカーを駆って近場の霊場巡りは、私の息抜きと楽しみになった。  実はその頃、たいそう偉い大僧

          霊場巡拝と私 その1

          小説「ザ女帝」(5)  Ⅱ 天智天皇

          13、斉明天皇薨去と難波の殯  私の薨去の報はいち早く娜大津に知らされて、葛城がわずかの供廻りで飛んで来ました。私は大急ぎで用意された仮の棺に納められて磐瀬御所に戻りました。  葛城は二月ぶりに合う私の変貌ぶりに驚愕し 「母上っ母上っ、どうしてこんなことに‥、筑紫なんぞへ来たがるから‥」 と、言って涙をこぼしました。7日後に、朝倉から娜大津に戻る道中でもずっと 「こんな遠い処へ連れて来るんじゃなかった。どんなに母サンからせがまれようとも、都にいれば‥、もっとゆっくり過ごせて、

          小説「ザ女帝」(5)  Ⅱ 天智天皇

          小説「ザ女帝」(4) 豊璋との別れ

          10、娜大津での日々  子供や孫たちのことをいろいろお喋りしているうちに船はだいぶ進みました。今は長門と豊の国を隔てる洞門とか速吸門という細長くて流れの速い海洞門峡(後の関門海峡)を抜け、外海に出ました。  こちらの海は今までの瀬戸の海と違い、水の色も黒っぽく、波も風も冷たく荒くなりました。船も揺れ始めました。そんな外海をひた走りに走り、3月下旬にようやく筑紫の娜大津に着き、私たちは盤瀬行宮[1]に入りました。  この仮御所の場所は今は不詳です。此処は百済へ出兵のための

          小説「ザ女帝」(4) 豊璋との別れ

          茶道と窯元巡り 続き

          茶道の続 窯元巡り(韓国、台湾)  永年、茶道携わると焼き物特に茶陶との関わりが深くなる。茶陶の世界では俗に「一楽二萩三唐津」と言うが、楽は別にして萩も唐津もまた五~六番目にランクされる高取、鍋島、伊万里も福岡市内から片道2~3時間で十分に行ける地の利に恵まれて、大半の窯元を訪ねられた幸せを感謝している。  話変わるが、昭和50年代の頃に渡辺通りの九電ビルの中に高麗青磁と韓国の焼き物を専門に扱う「徳和堂」という陶磁器店があった。私は青磁の色の美しさに魅せられて、よくショウイン

          茶道と窯元巡り 続き

          小説「ザ女帝」(3) 重祚して斉明天皇に

          7.葛城(後の天智天皇)、皇太子になる  (葛城皇子の独白)  私の幼時の頃のことは母が詳しく語っているので端折ろう。しかし一番忘れがたいのは後世、大化改新の幕開けと言われた入鹿の殺害である。動機は母が語る通りである。もちろん大海人にも一番に相談したが乗ってくれなかったので、その頃通っていた漢学塾で親しくなった鎌足と図って決行した。  私にはやむに已まれぬ決断と行動だったとはいえ、入鹿殺害の波紋はあまりにも大きかった。母は退位し、叔父が即位した。マァ身内の大人たちの知恵で解決

          小説「ザ女帝」(3) 重祚して斉明天皇に

          小説「ザ女帝」(2)   蝦夷の変・大化の改新

          4、舒明天皇の皇后から皇極女帝に  私は推古天皇二年(五九四)に大王家の一族に生まれました。父敏達天皇(三〇代)の孫の茅ぬ王、母は吉備姫王です。成人して用明天皇の孫の高向王と結婚、一児漢皇子を生みましたが夫は早逝しました。その後に夫の兄弟の田村皇子と再婚して二男一女をもうけましたが、長男は早逝したので葛城は次男です。だから中大兄皇子というのです。末娘が間人皇女です。  私が三十七歳の時に夫が舒明天皇(三四代)として即位、その翌年(六三〇)に私も皇后に立てられました。その後、夫

          小説「ザ女帝」(2)   蝦夷の変・大化の改新