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小説「ザ女帝」(6)

16 天皇即位と発病そして薨去
(天智天皇の独白は続く)翌年の天智7年(667)2月、私はようやく即位し天智天皇になった。大化元年(645)に孝徳天皇の皇太子に立って以来、早や二間る20年以上の歳月が流れていた。孝徳・斉明と2代の天皇に仕える長い皇太子時代だったが、後半の10数年、斉明天皇時代には高齢の母天皇に代って実質的にはずっと天皇の仕事をして来た。また、母の崩御後の7年間は称制ではあったが、全く天皇の気持ちで政に取り組んで来たから、即位したからと言って仕事や気持は何ら変わるところはない。ただ住居の御所だけが飛鳥の板葺から筑紫の娜大津、そして近江大津と転々と変わった。
 後継天皇には皇太弟として大海人を望んだ。永年自分を支えてくれ、誰よりも信頼している兄弟である。いつだって、どんな仕事だって二人三脚でやって来た。私は自分の半身も同じと考えていた。ところが、あろうことか断られてしまった。信じられぬ思いである。
 私のショックをよそに、大海人は吉野に籠って、剃髪までしてしまった。私はいつも大海人の貢献を感謝して、長女・次女ばかりか庶腹の妹娘2人、新田部と大江皇女までも大海人に嫁がせて、つまり娘4人をその後宮に入れていたのに‥。裏切られ、打ちのめされた気分であった。後継になる気がないことを剃髪と言う行為でハッキリ表明したのか‥。
 大海人の一連の行動は私にはまったく理解できず、諦めきれぬ思いで鬱々していたが、周囲の奨めもあり、庶腹ではあるが、後宮に残る年嵩の男子、大友皇子を皇太子に立てた。凡庸で大した後ろ盾もない息子、私はとても不安だった。
 近江大津に移ってからの私は、国土防衛も取り敢えずひと段落していたし、懸案の斉明天皇の本葬も前年(667)に無事に終えて、越智崗上陵おちのおかかみりよう(現 奈良県高市郡高取町)に娘(私の妹)の間人女皇はしひとのひめみこと一緒に葬った。太田は母の向かい側に葬った。大海人との間に生まれた幼児二人を残し若死にした私の長女である。母も娘と孫が傍にいると淋しくないだろうと思って‥。殯から早6年も経っていたが、ようやく私も安堵できた。
 後は内政面でやり残した仕事を仕上げるだけである。まず孝徳天皇の皇太子時代に手がけて中断のままの、大化改新関連の仕事の中で戸籍調査を充実整備した。戸籍簿「庚午年籍」こうごねんせきを天智10年(671)にようやく完成させた。これは後にわが国最古の全国的な戸籍簿と言われて評価された。班田収授法に不可欠、公地公民制の大事な基礎資料である。
また、斉明天皇6年(660)に作った漏刻ろうこく(水時計)を再度作り直し、広く民に時20世紀になってから日付をグレオリオ暦に直した6月10日を「時の記念日」として制定された。後世には民の日常生活に不可欠な「時」の観念を最初に認識させた功績と評価されている。
 行政機構も整備して冠位を19階から26階へ増設した。役人たちの冠を職階毎に色を定めて、色分けした冠を使わせるようにしたら分かり易いと好評だった。
 内政も一段落して気が緩んだか、また海外派兵や負け戦の後始末、国土防衛の諸施策など、10年以上に及ぶ多忙と緊張の連続の疲れがここに来てドッと出た。私は体調を崩し、寝込むことが多くなった。
 しかし、後のことを思うと不安でたまらず、やはり後事を託せるのは大海人しかいない、と思い1度会って直々に話をしたいから近江に来てほしいと吉野に使いをやったが返事はなく、大海人はとうとう来なかった。私はしんそこ落胆した。
 そしてその年(671)の暮、私は薨去した。後々のことを考えると、死にきれぬ思いを抱えながら‥、命のほうが尽きてしまった。

続く

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