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小説「ザ女帝」(5)  Ⅱ 天智天皇

13、斉明天皇薨去と難波のかりもがり
 私の薨去の報はいち早く娜大津に知らされて、葛城がわずかの供廻りで飛んで来ました。私は大急ぎで用意された仮の棺に納められて磐瀬御所に戻りました。
 葛城は二月ぶりに合う私の変貌ぶりに驚愕し
「母上っ母上っ、どうしてこんなことに‥、筑紫なんぞへ来たがるから‥」
と、言って涙をこぼしました。7日後に、朝倉から娜大津に戻る道中でもずっと
「こんな遠い処へ連れて来るんじゃなかった。どんなに母サンからせがまれようとも、都にいれば‥、もっとゆっくり過ごせて、長生きできたでしょうに‥、悔やみきれないっ‥」
と、心の裡で言いながら嘆いてくれました。
 一方の私も派兵準備の心労と疲労でくたびれきった息子の顔色の悪さに驚きました。この上にまた私の葬儀や諸々の雑事で、さらに疲労を重ねるであろう息子たちを思うと、ただ、ただ申し訳なくて身が縮む思いです。
「ゴメンナサイ葛城、本当にゴメンナサイ‥。私が情にかられて同行をねだったばっかりに、貴方に二重三重の迷惑と負担をかけてしまいました。本当に申し訳ない‥」
私は一生懸命に息子に詫び続けましたが、棺の中からでは葛城に届きません。
 磐瀬いわせ御所では待ち構えていた大海人たちに迎えられました。遠智娘おちのいらつめが率先して私の病みやつれた体を浄めて喪服に着替えさせ、もっと立派な棺に納め替えて、御所の中に大急ぎで準備した仮祭壇に安置されました。
 翌日から弔問客が引きも切らず、皆はその応接に追われました。ただ泣いていられたのは産後まだ日が浅い孫娘の大田とオメデタの気配が見える妹の鵜野だけです。2人の孫は大泣きして祖母天皇の死を悼んでくれました。あまりの嘆きの激しさが体に障らないか、周りの人々が心配するほどでした。
 十月七日、葛城は飛鳥で行なうもがりのために、棺を護りながら一足早く娜大津を出航しました。途中で嬉しいことがありました。
 船が伊予の桜井の沖にさしかかった時です。白装束の人々が操る小舟が数艘見えました。何と先頭の船には国造乎致くにみやっこおち氏の白衣姿があり、こちらの船を見て皆で手を合わせ低頭しています。葬送の船でした。有難いことです。私は嬉しくて嬉しくて、お礼が言いたいのですが、お棺の中では何とも叶いませんでした。
 10月23日に難波津に戻りました。出立から10ヶ月ぶりでした。変わり果てた姿で‥、出立のときには思いもしなかった姿です。本当に‥。後の家族や供の者たちは大海人が引率し、11月7日から三日間に亘って行なう殯に合わせて都に戻りました。そして飛鳥の川原で、家族一同うち揃い、都に残った皇族や親族、臣民も参加して、私の殯を営んでくれました。
 殯とは身分の高い人に行う仮の葬儀のことです。本葬は準備が大変なために、ずっと遅くなりますから、また後日に改めて行いますが、取り敢えず仮の葬儀を行うのが常でした。
 殯が終わり、周囲の人々が即位の話をチラホラと浮上させた時、葛城イエもう中大兄皇子と言わねばなりませんネ。中大兄は皆を前にして言いました。
「私は当分即位をしない。今は百済救援のために近々送り出す予定の派兵の準備で忙しい。すぐに磐瀬に戻らなければならない。即位は戦いの行く末を見てから考える。それまでは皇太子のままで天皇の業務を行なう」
 後に言う称制しょうせいを宣言しました。そして大海人とその家族たちや、わずかの供廻りだけを連れて大急ぎで娜大津に戻りました。
 遠智娘は皇后倭姫と共に飛鳥の御所で私の棺を護るために都に残りましたが、中大兄と大海人の後宮の妃嬪たちも今回は都に残りました。
 
 日本書紀に斉明女帝が孫の建王の夭逝を悼む歌が残る。(但し仮名混じり表記)
○山の鴨群あじむら騒ぎ 行くなれど 我は淋しき 君にしあらねば
 

Ⅱ 天智天皇

 
 
14 白村江の大敗と豊璋のその後
(斉明女帝の独白)百済に戻った豊璋は敗残の百済兵たちから百済王に推戴されて、国の復興のために鬼室将軍たちと一緒に戦い始めました。しかしやがて、将軍と豊璋王の間には意見の相違が生まれて‥、その亀裂はだんだん大きくなりました。
 そりゃそうでしょうヨ。百戦錬磨の将軍と倭国でのんびりと30年も過ごして、とつじょ王になった人とでは‥、当り前でしょうヨ。
お互いに確執を募らせ、ミゾを深め、とうとう王が将軍を殺してしまいました。豊璋の帰国二年後のことです。たちまち百済の復興軍は弱体化しました。
 その頃、滅亡百済のうごめきを知った唐は再び大がかりな新羅への援軍を編成し手派兵しました。一方の倭国も本格的に軍備を整えて、天智2年(663)に1000艘の船に27000人の兵士を乗せて百済に向かわせました。
 唐と倭の援軍どうしは白村江はくすきのえ(現 錦江)沖で激突し、戦いました。しかし残念ながら、倭軍は400艘の船を炎上させて大敗しました。
 聞いたところでは、戦いの経験豊富で統一のとれた唐軍に対して、倭軍は船も小さく、兵士も寄せ集め、戦略も指揮・命令系統もなくて、めいめいが自由勝手に戦えと言う、烏合の衆さながらだったとか。そして火災を免れた残りの船に、敗残の兵士や倭国に亡命を望む百済人を満載して、命からがら娜大津に逃げ帰った有様だったそうです。これが後に言う白村江の戦いです。百済の再興はならず、倭の水軍は帰国したそうです。 
 2年前、安曇比羅夫あずみのひらふは8月に戦死したそうです。残念と言うか、本当に気の毒なことでした。今は信濃の穂高神社(長野県安曇野市)に安曇比羅夫命 ~のみこととして祀られているそうです。マァ神様になって祀ってもらっているなら、少しは安堵します。
 豊璋はわずかの手勢と共に高句麗に逃れたそうですが、その高句麗も668年に、唐に攻められ滅亡しました。豊璋は高句麗王らと共に捕虜として唐の都に送られました。後に、高句麗王たちは許されて帰国したそうですが、亡国の百済王だけは許されず、さらに辺地の嶺南れいなん(現中國広東省広西チワン自治区)に送られ、その地で没したそうです。
 可哀そうなことをしました。弟のように帰国させず、そのまま倭国に留まっていたら、子孫たちもそこそこの名家の人として尊敬され、丁重に扱われて、平穏で幸せに過ごせたでしょうに‥。帰国させたばかりに大変な辛酸をなめなせてごめんなさいネ豊璋。でも、そのまま倭国に留まっていたら、倭国の中で埋没してしまい、歴史に名前は残りませんでしたヨ。サテ、どちらがよかったのかしら‥。

15 倭国の国防と遷都
(中大兄皇子の独白)白村江の戦いから逃げ帰って来た兵士や水主たちの話によると、唐軍は次は倭国を攻めるとか。それを聞いた私はゾッと背筋が寒くなった。もし、倭国が攻められたらどうしよう。話に聞くだけでも、あまりにも大きな軍事力の差、我が国の無防備な長い海岸線、強国の唐と一衣帯水の地にありながら,敵の来襲を都に知らせる通信網すらない。否、それどころか我が国の人たちは海の向こうから、敵が攻めて来るなど考えてもいない。
 今までに我が国の民が経験した大きないくさと言えば、南方の隼人と北方の蝦夷を平定させた戦いぐらいである。後はせいぜい豪族同士の権力争いか、小さな土地を巡る境界争いの類だけである。
 都人たちは負け戦に膨大な戦費を使い過ぎて国庫をカラにしたと、私にごうごうたる非難を浴びせるが、危険に対する認識の温度差はどうしょうもない。かく言う私自身も、白村江の戦いを経験するまでは都人たちと五十歩百歩の認識だったから。
 国内の人々を納得させるには時間がかかる。延々と議論しているうちに、敵の方が先に来襲することもあり得る。そこで私は大海人1人だけを相談相手に国土防衛計画を練った。
まず、国の出先機関である
①  大宰府の防衛
②  都への迅速な通信網の確立
この二つを喫緊の課題と考えて、その計画と実行に取り組んだ。国内の理解や協力・支援は期待せずに。百済の亡命貴族の憶礼福留おくらいふくる四比福夫しひふくふらを相談相手に、倭国に亡命して来た大勢の百済の工人達を使い、天智3年(664)に水城みずきを完成させた。また対馬・壱岐・筑紫に防人さきもりを置き、烽火のろしも備えさせた。
 水城とは、敵が襲来した時に大宰府を守るために水を利用した防衛線である。大宰府を挟むように迫る東西の山をうまく利用し、大宰府の北方つまり海(福岡)側の平地に全長1.2kmにわたる横長い石造りの堤防を2本、80㍍の間隔で造り、敵が侵入して来たら堤防の間を流れる川を堰き止めて、2本の堤防の内側に水を貯めてダムの状態し、つまり即席の水深10㍍の人口湖を造り、敵の侵入を阻もうという方法である。だから大宰府を防衛する水城みずきと言う。
 さらに水城の防衛をより強固にするために、翌4年(664)に水城の両端には大野山(現 四王寺山 標高410㍍)と基山(現 福岡県筑紫野市・佐賀県三養基郡基山町 標高415㍍)に石垣を築き、水城と大宰府を守るための朝鮮式山城、大野城と基肄(きい)城を造った。また、長門国にも海峡の守りと烽火台を兼ねる山城を築いた。
 当時のわが国には高度の築城技術などなかったから、亡命百済人たちの持つ技術に全面的に頼る、壮大な国土防衛工事だった。班田収授法の制定で財政的には安定していたが、矢継ぎ早の大工事は国家財政上苦労した。その必要性を理解できぬ大半の豪族たちからは厳しい非難を浴びた。
 また、防人として西国の辺境の地の防備へと駆り出された各地の民からは怨嗟の声も聞かれた。しかし、私はわが国の民を亡国の民にするよりは、と思って彼らの声にしばらく耳を塞ぎ、私も耐えた。
 更に天智六年(六六七)三月に、都を内陸の近江大津(現 滋賀県大津市)に遷都させた。實に孤独で苦しい、焦燥感と恐怖感に苛まれながら‥、戦いよりつらい数年間だった。
 その途中で高句麗が唐に敗れて滅亡し、倭国は東アジアで唯一の唐に臣従しない国となった、と知った時の私の不安と焦燥感と緊迫感を理解していただけるだろうか。
 しかし幸いにも外敵は来なかった。唐の軍隊は攻めて来なかった。倭国にとっては何よりの大きな幸いであった。私はヤレヤレと思う安堵とチョッピリの落胆(心の裡に秘めた)の、複雑な思いで胸をなでおろした。
 母斉明天皇の強い意向で始めた征西と百済出兵と敗戦、そして私こと天智の国土防衛政策は、国庫をカラにする2代続きの大失政と限りない非難を浴びた。
 私が心血を注いで完成させた国土防衛のあかしの建造物は、いつしか人々から忘れ去られてしまった。さらに千数百年、一度も使われることがなかった水城の礎石は雑草に覆われ、地中に埋めた木樋は朽ち果てたままである。
 一方、山城の方は戦国時代になり、著名な武将たちが目をつけ築き直して籠り、派手な戦いを繰り返したので、後世にはそっちの方が歴史的に有名になり古い山城は忘れられたままである。
 しかし、全ては民の安寧を思って始めたこと、私の業績が喧伝されることは民の大きな不幸となる。使われなかった方が大きな幸いであったと思う。

続く


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