小説「ザ女帝」 (11)

32 持統天皇の即位

(鵜野皇后の独白)或る日私は聞いてしまった重臣たちのヒソヒソ話を。私が朝議を終えて廊下に出ると、まだ朝堂に残る重臣たちの話し声が聞こえて来た。

「大王 いよいよ悪いようですナ」

「アトはどうなりますかナ」

「大津皇子さまが立って下さるのが一番いいけれど‥」

「皆で担ぎますか‥」

 重臣たちは廊下で私が聞いているとも知らず‥、その後もいろいろとホンネを開陳していた。私はそっとその場を離れて自室に戻った。皆、天皇や私の前で話すときとはまるで別人だった。あれが素(す)の彼らだ。彼らのホンネなのだ。私は心が冷えそして鎧った。大津を何とかしなくては、不穏の動きの芽は早めに摘んでおかなくては‥。私は大津と親しい川島皇子を密かに呼び水を向けた。

「天皇の病状よくないでしょう。もう朝堂への復帰は難しいと思うのよ‥。後をどうすればよいか、若い皇子ひとたちの忌憚ない意見も聞いておきたいのよ。」

 若い川島は自分が皇后から特別に目をかけられたと思ったか、ペラペラと実によく喋った。若い彼らも、ほぼ老臣たちと同じ考えであると知った。ただ、大津だけは何も知らされていないらしくノホホンとしていることも。私は犯罪捜査の長(おさ)に密命し、捜査は禁じてただ逮捕状だけを作らせた。私はただ不穏の芽さえ摘めばいい、唯そう思った。

 9月9日に夫の天武が薨じその三七日が済むと、すぐに捕吏を磐余の大津の邸に向かわせた。しかし、話が漏れていたらしく皇子はもう自栽していた。

 朝野は騒然となったが多くの犠牲者を出さずに済んだことに私は安堵した。早く民心を鎮めるために、私は草壁を喪主に百官を列席させて、殯から始まる2年余に亘る一連の葬送の儀式を盛大かつ粛々と行い、夫を檜隈大内ひのくまおおうちに葬り御陵とした。その2年間のまつりごとは亡き天皇のみことのりの通り私と草壁が行なった。

 いよいよ後継天皇を決めるべき時に至ったが、周囲の空気から草壁に決めかねていたら、あろうことか草壁がポックリ亡くなった。青天の霹靂である。永年にわたる私が営々と築き上げた路線が、とつじょ足元から消えてしまった心地で、子を失った悲しみよりも、将来が見えなくなった衝撃の方が大きくて、打ちのめされ、立ち上がれない気分である。

 天武が逝って3年、これ以上の天皇空位は出来ない。次期天皇を誰に‥、私は公人だから悲しみよりも善後策を考えなければならない。直系の後継ならば草壁の遺児軽皇子がいるが、まだ七歳と余りにも幼い‥。孫が成人するまでは皇后の私がつなぐしかない。こうして持統4年1月私は天皇に即位した。夫の天武の崩御から4年も経っていた。

 皇后が後継に立った先例はある。推古女帝と祖母の斉明女帝だ。祖母などは

 皇極・斉明と二度も即位している。お二人を見習えば、私だって何とかなるのではないかと思った。

 当面は夫のやり残した仕事を継承することである。晩年の夫は万一の時は私に引き継がせることを考えていたのだろうか。自分の仕事を計画の段階から私に立ち会わせ教育してくれていた。日々の政と必要な改変についてもその都度、必要に応じて行なえばよい。問題は夫の時代から今も続行中の大事業が二つ、

①    新都の造営と新御所の建設

②    新しい歴史書の編纂

である。私は自分の政策の中核をこの2大事業の完成にしよう。今の御所は祖母の住居を夫が増築し、飛鳥浄御原宮としてずっと使用して来たから老朽化が目立つ。新築か移転かが喫緊の課題である。一日も早く土地の造成を終えて、御所を新築・移転しなければならない。

 次は天皇家の歴史書編纂である。大王家に代々伝わっていた古い歴史や政の記録は乙巳の変の類焼で焼失したから、大王家の人間の責任として、これらの仕事を仕上げなければならない。これは生前、夫も非常に気にしていた仕事であるが、神代まで遡って記述しなければならないから、とても時間がかかる。督励しながら継続させよう。

 もう一つ、こちらは私の発案だが、公私の催しごとの時に作る歌や詩が今はバラバラに、いろいろな場所で保管されている。これらを歌集か詩集のように一つにまとめて発刊できないか、これも考えて欲しいと私が提案した。

 日本最古の歌集『万葉集』は、私の一言がヒントになって出来たから、私は限りなく嬉しく誇らしい。私は大王家の長老となった夫の長子高市皇子を太政大臣に任命し、私の政の補佐を頼んだ。その他の皇子たちは今まで通り仕事を分掌させ報告させて、私と太政大臣で協議して指示する形で、政を進めた。こうして私は立ち上がり、ようやく走り出した。

 

33 藤原京の建設

(持統天皇の独白はつづく)私が即位してすぐの持統4年(690)、造成地の進捗状況を視察するために、太政大臣の高市皇子を始め百官を従え藤原京[i]に行幸しました。山の起伏を削って造成した10里四方の広大な方形の平地に、唐の都の都市計画を模したという条坊制、つまり南北と東西を碁盤の目の形に区切り、10本ずつの道を通し、その中心地に御所を置く。御所の前には朱雀大路という幅広の道を中央の南北に配すると言う壮大な都市計画です。条坊の諸所には政のための諸堂や大寺を建立する予定です。これはわが国の史上初のキチンとした都市計画に基づく王城づくりと言われました。

 私はワクワクと胸がふるえ、感動しました。そして遣唐船で戻った遣唐使や留学生から唐の都の話を聞いただけで、これほど立派な新王城づくりを計画できる夫の天武を何とスゴイ人かと見直し、いえホレ直したと言うべきです。

 よし、この御所予定地に1日も早く立派な宮殿を造ろう。そう、飛鳥浄御原宮の補修など止めて‥。早速、私は新宮殿建設の勅許を出し、さらに私も多忙な政務の合間をぬっては藤原の地をたびたび訪れ、宮殿の進捗状況を見るのが楽しみになりました。

 こうして私は、夫や子供を失った悲しみからやっと立ち直りました。さらに各地に散らばっている諸官庁の建物や大寺を、新しい都の中に集めるように、移転や再建を進めました。民も区画を決めて都城の中に定住できるように配慮しよう。何と言っても都城の発展のカギはどれだけ多くの民がその都城の中で安穏に暮らして行けるかです。そして数多くのさまざまな物資の集散と賑いがあってこそ都なのですから。

 さらに4年後の持統8年(694)12月、藤原京の中核となる新宮殿が完成、私は旧居の浄御原宮から遷都しました。新宮殿は藤原京に因み藤原宮と名付けました。新しい宮殿の広さは凡そ1㌔㍍四方、その周囲を高さ5㍍ほどの塀で囲み、東西南北の4面塀には3カ所ずつ計12の門を配しました。南の中央の門が朱雀門で正面玄関です。塀の中に建つ大極殿は基壇部分で東西52㍍、南北27㍍という壮大かつ華麗な建物です。
(因みに21世紀現在の所在地は奈良県橿原市高殿町 周辺は史跡公園で、そのうち約6割が国の特別史跡である。)

 宮殿の建物の屋根は全て瓦葺で、周囲を囲む塀まで瓦葺きの屋根を載せました。12の門の名前には古くから天皇家に仕え、支えてくれた氏族の名を冠して門号にしました。例えば朱雀門は別称で大伴門と言うように、細やかながらも氏族たちの永年の功績を讃えて感謝の一端にしました。

 藤原京の建物はまだ疎らですが、新築なった宮殿藤原宮の華麗な姿を、私は夫天武にぜひ見てもらいたかった。どんなに喜び、安堵してくれたか、改めてその死が惜しまれてなりませんでした。

 こうして藤原京は唐の都長安をモデルにしたわが国初の、都市計画に従った条坊制の都となりました。後の平城京や平安京のさきがけです。ええ、平安京に至っては一千年以上も都として機能しましたヨ。

 しかし残念ながら藤原京は都としては短命でした。実はこの藤原京は住んでみると、いろいろと不都合が出て来ました。第一は都の汚物を含む生活排水が宮殿の近くを流れることで、その臭いが御所まで漂ってきます。これは地形そのものに傾斜があり、どうしょうもない問題だと分かりました。こんなことは住んでみないと分からないものですね。大きな誤算でした。嫁の阿閉(後の元明天皇)が一番にネを上げました。こういう五感は若い人は鋭いですが老人は割合鈍感です。せっかく造った都、夫に喜んでもらいたかったのに‥。喜びが半減しました。また遷都を考えなくてはならないとは‥、ウンザリです。

 また吉野に出かけて気分転換して来ましょう。この頃の私は、多忙な政務の合間をみて、よく吉野の出かけるようになりました。両親が造ったこの山荘にはたくさんの思い出があります。父天智と夫が袂を分かち、この山荘に隠棲して過ごした束の間の日々、夫は大きな鬱屈を抱えた日々でしたが、私は初めて家族水いらず過ごせる毎日がただ嬉しく楽しかった。山間やまあいしずかで美しい景色に楽しかった思い出を重ねていると、心が癒されて、また元気が湧いて来るような気がします。そう言えば斉明のお祖母さまは温泉大好きで、紀州だ何処だと、よく温泉に出かけていれたことを思い出します。私もようやくお祖母さまの気持が分かる年になったということでしょうか。

 

34 大伴部博麻おおともべのはかまと愛国心

(持統天皇の独白)即位してすぐの持統4年(690)の或る日、私が政務に勤しんでいるとき、遠い筑紫からの小さな報告が目に留まった。それは白村江の戦いの時に唐の捕虜となった1人の兵士が、唐都の長安で奴隷となり20数年ぶりに帰国したという内容である。そう、私が娜大津にいた頃に、父天智や夫たちが百済救援に送り出した兵士の1人ではないか、と私は気になり都に召して話を聞きたいと勅許を出した。

 招きに応じて百済出兵の時の元兵士が私の前に現れた。何の変哲もない初老の男である。しかしその顔に刻まれた深いシワから積年の苦労が見て取れた。澄んだ目が印象的な男で、訥々と話す男の話を聞き私は大きな衝撃を受けた。

 唐は倭国を侵略し併呑しようとしていたらしい。そうだったのか‥。それを聞いて、私の脳裏には狂ったように亡命百済人たちを督励して、水城だ山城だ烽火台だと造る父たちの姿がまざまざと甦った。

 そう、父や夫はそれを、侵略の情報を知っていたのだ。だから朝堂の内外に吹き荒れる非難に耳を貸さず、国防の拠点造りに一生懸命だったのだ‥。イヤ知らなかった。30年近くも経って、ようやく私は父や夫の行動が理解できた。

 遅すぎる、私は夫に申し訳ない気持でいっぱいになった。あの頃の私はと言えば、夫に構ってもらえない淋しさから、夫の顔さえ見れば「まるで母子家庭のよう‥」と不満タラタラだったから。「アナタ、ゴメンナサイ、何も知らずに」私は心の中で夫に詫びた。今更ながら‥。

 目の前の男は私の慚愧の思いを、自分の話に感動してくれたと思ったらしい。身を縮めるようにして恐縮している。この人もエライ。国の危険を知らせるために我身を奴隷として売り、お金をつくってくれた。その赤心が嬉しい。国を思う心に感動した。私は左記の言葉と共に、絹1匹(1匹は4丈)、綿10屯、布30反、稲1000束の下賜品、従七位下の身分、子孫3代まで税の免除、水田4町を与え、その功績と辛酸に報いた。

私の勅語は天皇が1個人に与えた歴史上で唯一の勅語という。

勅語「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」

(汝が朝廷を貴び 我が国を思い 己を売ってまで 忠誠を示したことを私は嬉しく思う)また、私が何気なく書いた「愛国」の言葉は、ずっと後世の20世紀初頭、我が国の軍事力が世界のベストファイブに入った頃になると、「忠君愛国」と言う誰もが知る言葉になったという。

 

(大伴部博麻の独白)私の名は大伴部博麻おおともべのはかま、筑後国上陽咩郡かみつやめぐんの生まれである。百済出兵のとき白村江で、唐軍の捕虜になり長安に送られた。長安でしばらく牢に繋がれたが、やがて釈放され町に放り出された。食べて行くために、いろいろな雇われ仕事をしながら日を過ごしていた頃、倭国の人達と知り合い、親しくするようになった。

 その人たち4人は遣唐船で長安に来たが、倭国と交戦状態になり帰国できなくなり、長安に留まっているという。その人たちの名は土師富杼はじのほど氷老ひのおゆ筑紫君薩夜麻つくしのきみさつやま弓削元宝ゆげのげんぽうと言い、むらじかばねを同じくする倭国の役人たちであった。

 或る時、偶然に私は唐に日本侵略の計画があることを聞いてしまった。驚いて早速、4人の連たちに相談した。皆も驚き一刻も早く帰国して朝廷に奏上しなければならぬ、と意見は一致したが、先立つものは帰国の資金である。4人は便船の手立ては何とかなるらしいが、問題は支払う金がない。皆で頭を抱えて絶望した。

 よしっ、私博麻が身売りして金を作ろう。私は男気を出した。倭国にいたならば到底、私などとは知り合うこともない身分の高い4人である。ここは一つ私が犠牲になり、自分を奴隷に身売りして資金を作り、皆に帰国して奏上してもらおう。私はその通り実行した。

 こうして私は奴隷となって唐に留まり、さらに20数年が過ぎた。或る時、知り合いの唐人が所用で倭国に行くことになり、私の境遇を気の毒がっていたその人は私を供の1人に加え、帰国させてあげようと申し出てくれた。感謝して私はその話に乗りこの度帰国できた。実に30年近く経っていた。

 また先の4人は天智10年(671)に無事に帰国し、大宰府に報告したことを知る。よかった! 私はお役に立ったのだ!安堵した。そうこうしていると、都から大王さまが会いたいと呼び出しを受けた。拝謁した大王さまは、筑紫でお会いした方々はと違い、年も若く女の大王さまだった。

「永い間、本当にご苦労さまでしたネ。ありがとう、心から礼を言います」

優しく労って下さった。私は胸が一杯で、問われるまま今までのことを話した。

 大王さまは時々、感に堪えないように遠い目をしながら、熱心に一生懸命に私の話を聞いて下さった。そして

「お前の身を犠牲にして国を思う心をよみする。有難う、本当に有難う」

そう言って大王さまは何か文字を書いた木片を手づから私に下された。私は文字が読めないので、文字が分かる人に読んでもらったら、私が自分を身売し奴隷になって金を作り、仲間を帰国させ、奏上させたことを喜び、私の犠牲を讃えてあるという。

 私はたくさんのお土産を拝領した上に、身分と土地まで頂き、しかも土地は子孫3代まで税を免除する特典までつけて下さった。何と優しく温かく行き届いた配慮をして下さる大王様なのだろう!私は嬉しくて感動した。 

つづく


[i] 藤原京 筆者は分かり易いようにこの都を後世の統一用語の藤原京で記述したが、完成当時は「新益京」(しんやくきょう、あらましのみやこ)と記述されている。現在の地名では奈良県橿原市から明日香村にかかる一帯にあったとされる。

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