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小説「ザ女帝」(2)   蝦夷の変・大化の改新

4、舒明じょめい天皇の皇后から皇極女帝に
 私は推古天皇二年(五九四)に大王家の一族に生まれました。父敏達びたつ天皇(三〇代)の孫の茅ぬ王、母は吉備姫王きびのひめみこです。成人して用明天皇の孫の高向王と結婚、一児漢皇子あやのみこを生みましたが夫は早逝しました。その後に夫の兄弟の田村皇子と再婚して二男一女をもうけましたが、長男は早逝したので葛城は次男です。だから中大兄皇子というのです。末娘が間人皇女はしひとのひめみこです。
 私が三十七歳の時に夫が舒明天皇(三四代)として即位、その翌年(六三〇)に私も皇后に立てられました。その後、夫の強い勧めで、女儒の里だった安曇族の凡海おおあま氏の元に預けてあった先夫の子であるあやを引き取り、葛城や間人と一緒に育てることになりました。それは夫の配慮です。葛城は将来、皇太子そして天皇になるだろうから、その行く末を考えて、心許せる側近や片腕となる人材を早くから育てておいてやりたいという配慮です。もう一つは私への愛情だと思います。舒明は本当にやさしい人でしたから。
 こうした経緯で私たちの処にやって来た漢は今まで育ってもらった凡海おおあま氏に因んで大海人皇子という新しい名前をもらって、葛城の弟分として(本当は兄ですが‥)私の手元で育つことになりました。とても嬉しかったですね。私も心の中ではいつも気になり、忘れたことはありませんでしたから、安堵しました。
 大海人おおあまひな育ちらしく体が大きく逞しく、心根の直ぐなとてもいい子に育っていました。思慮深く、自分の立場をわきまえてか、いつも弟の葛城を立てる控えめな言動は母親として安堵と共にいじらしかったです。それに比べると御所育ちの葛城は少しひ弱に見えました。妹の間人は優しくて頼もしいお兄ちゃんがもう一人出来たと素直に喜び、すぐになつきました。一人息子同様に育てられた葛城は最初少し戸惑ったようでしたが、もともと素直で賢い子でしたから、やきもちをやくようところは見せず、信頼し頼もしい相棒が出来たように次第に心を開いてくれましたので、舒明も私もどれほど安堵したことでしょう。ことに夫は若い二人をしっかりと自分が教育して、次期天皇と良き補佐役に育ってくれればと、当分の間、大王家や大和の国は安泰であると、さすがに息子たちの前では言いませんが、私の前では手放しで喜んでおりました。
 しかし、そんな幸せな日々は十年少々しか続きませんでした。突然に夫の舒明が崩御してしまったからです。後事を託すどころか、後継者の話し合いもできないままですよ‥、突然にですよ。そう、一応葛城を後継者として育ててはいましたが、重責を背負うにはまだ若過ぎます。そこに付け込まれてゴタゴタするのはイヤですからネ。国がゆらぎます。ハテさてどうしたものか‥。いろいろ考えた末、しばらく私が天皇に立つことにしました。長年、夫を支えてくれた蘇我入鹿を片腕にしながら‥。こうして私は皇極こうぎょく天皇(三五代)となりました。
 皇后が後継天皇になる前例はつい先年にもありました。そう推古女帝さまです。推古(三三代)さまは敏達天皇(三〇代)の皇后さまでした。甥の聖徳太子さまを摂政、片腕にして三十数年も国政を預かり、大和を大発展させられました。だから私も頑張れば、葛城と大海人が成長してくれるまで、何とかつなげるのではないか、と思ったわけでした。エエ、聖徳さまご一家の最後は本当にお気の毒でしたけれど本当に‥。
 
5. 乙巳いつみの変と退位、そして鎌足のこと
 実直な蝦夷はよく私を支えてくれました。しかし、即位して四年目、とんでもない事件が勃発しました。そう乙巳の変です。板葺の御所で、あろうことか‥、私の目の前で葛城が腹心の中臣鎌足なかおみのかまたりと謀り、蝦夷の子蘇我入鹿そがのいるかを殺害してしまいました。入鹿の首が私の方に飛んで来たときは本当に怖くて震えました。
 入鹿は蝦夷の息子で、葛城より二〇歳ほど年上の三〇代半ばの働き盛りでした。私がまつりごとを行う上で、父の蝦夷を頼りにし重用するほど、息子入鹿が肩代わりする仕事量も急速に増えて、その専横ぶりが目に余るようになり、私も困ったものだと思っていました。父親蝦夷の増大する権限を代行するうちに自分が偉くなったように錯覚したのでしょう。それを若い葛城は大王家が乗っ取られると危惧したのでしようで、許せなくて暴走したのでしょう。友人の鎌足と図って‥、真面目でおとなしい子が暴走すると怖いを、まさしく地で行きました。
 忘れもしません、それは皇極天皇四年(六四五)の六月のことです。来日中の三韓からの使者と面会するために、皆が大極殿に集まり儀式が始まる直前でした。
 その日は大雨でした。切り殺された入鹿の骸が、殿中から運び出されて庭で雨に打たれている姿が、今もまぶたに焼き付いて離れません。翌日、実直な父の蝦夷は申し訳ないと居宅に火を放って自死。私も吾子が犯したことの責任を取り退位しました。後の歴史に言う大化改新の幕開けでした。
 葛城の片棒を担いだ中臣鎌足は大和国高市(現 奈良県橿原市)藤原を祖地とする神職の家の生まれです。二人とも南淵請安みなぶちのしょうあんの塾で儒教を学ぶうちに親しくなったようです。南淵請安は小野妹子の遣隋船で中國に渡った留学生です。帰国後、私塾を開き、そこに葛城を通わせておりました。鎌足は私塾の同級生です。そこで知り合い、葛城の生涯の腹心となりました。後の人が言う、藤原家の祖ですね。

そうそう、万葉集(巻二 九五)に鎌足のこんな歌が残されています。
 
『われはもや安見児やすみこ得たり皆人の得難かてにすとふ安見児得たり』
(私は安見児を得た、皆が得ることができない(と羨む)安見児を自分は得たぞ)
 
 鎌足にとって高根の花と憧れていた主人の後宮の女性を、思いがけず拝領して自分の妻に出来た喜び、天にも昇るような心地を素直に精一杯現わした歌ですね。後年、老練の政治家となった鎌足にもこんなにも純な、若い時代があったかと思うと、微笑ましいと思いませんか。
 采女うねめとは地方の豪族や有力者たちが天皇家とよしみを得るために後宮に送り込んだ女性のことです。幸いにして天皇の目に止り皇子や皇女を生めば、その身分は安泰となりますが、そうでない場合は生涯を後宮に暮らし、朽ちて行く可哀そうな女性たちのことです。マァ大抵は心配する親元が再び引き取って帰郷させ、地元でどこかに縁づかせて、幸せに暮らす場合も少なくありませんでした。
 鎌足は晩年、藤原姓をもらいました。息子の藤原不比等ふじわらのふひとは娘の光明子こうみょうしを聖武(四五代)の後宮に入れて皇后とし、そう光明皇后です、自分はその外戚として権力をふるいました。平安時代になると、不比等に倣う子孫たちが自分の娘を次々に天皇家に送り込んで筆頭外戚となって、最有力貴族として権力や富を欲しいままにしました。千年もの長い間‥。それは後世の皆さんの方がよくご存じでしょう。
 
6.孝徳天皇の即位と大化改新
 さて、私の退位に話を戻しますと、後継の天皇には私と両親を同じくする實弟で、娘の間人皇女はしたのひめみこを嫁がせている軽皇子かるのみこを立てました。私には最も信頼できる弟でしたから。これが孝徳天皇(三六代)です。後に、この譲位が史上最初の生前の譲位と言われるようになりました。
 また、生真面目で学者肌の孝徳は史上で初めて年号を用いることを始めました。そして、この年が大化元年(六四五)となりました。それまでの年号の数え方は、○○天皇○年と云う風に、天皇即位から数えるやり方でしたから、大改革でした。この年号をつける方法はその後もずっとずっと、二十一世紀までも続くことになりました。都も飛鳥から難波の地に移りました。
 孝徳は思いがけず葛城を皇太子に立ててくれました。衝撃の事件を起こした子でしたが、正式に立太子の儀式を行なってくれました。後継者を明確にすることで、衝撃と動揺を鎮めようと考えたのでしょうか。そしてこの子を相談相手にしながら多くの改革を一つずつ着実に実行しました。生真面目な性格そのままです。
 その業績は、対外的には百済ばかりでなく新羅とも交流を始めました。遣唐使の派遣も実施しました。内政では臣民の戸籍の作成、田畑調査、班田収授、公地公民制など、様々の改革を矢継ぎ早に行いましたので、後の人々はそれを「大化改新」(そのきっかけになった乙巳の変も含めて)と言うようになりました。
 しかし、その期間は短く、白雉五年(六五四)に孝徳は病に倒れて、あっけなく崩御してしまい、私の平穏もわずか十年しか続きませんでした。
 ところが孝徳の皇太子として実質的にその仕事を支えていた葛城が、天皇になることを固辞しました。またもや後継天皇の問題が浮上しました。葛城も大海人二人ともいい年になり、年齢も実力も経験も不足のない状況です。しかし世間の人々は十年前の葛城の所業をまだ忘れていません。葛城本人の固辞も、やはりそこにあるのでしょう。それでは大海人はと言えば、皇極・幸徳と二代の天皇に実質的な皇太子として重責を担って、その役割を果たして来た葛城を差し置いて、という訳には行きません。皆さんもご承知の通り、大海人は途中から舒明と私の手元に引き取って育てましたが、元々舒明の子ではありませんから‥。

続く

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