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小説「ザ女帝」(3) 重祚して斉明天皇に

7.葛城(後の天智天皇)、皇太子になる
 (葛城皇子の独白)
 私の幼時の頃のことは母が詳しく語っているので端折ろう。しかし一番忘れがたいのは後世、大化改新の幕開けと言われた入鹿の殺害である。動機は母が語る通りである。もちろん大海人にも一番に相談したが乗ってくれなかったので、その頃通っていた漢学塾で親しくなった鎌足と図って決行した。
 私にはやむに已まれぬ決断と行動だったとはいえ、入鹿殺害の波紋はあまりにも大きかった。母は退位し、叔父が即位した。マァ身内の大人たちの知恵で解決してくれたが当分、場合によっては生涯の謹慎を覚悟していた。
 ところがである、あろうことか叔父は私を皇太子に指名した。まだ事件のほとぼりも冷めやらぬ時に‥、私自身もまだ自分が惹き起こして事件のショックから充分に立ち直っていなかったから最初は固辞した。しかし倭国の大王家であるわが家には次期大王を育てなければならぬ責任がある。これは女親だけではムリ、孝徳叔父はその責任を肩代わりしてくれたと、解ったから私は承諾した。
 有り難い事であると、叔父孝徳には感謝した。それからの私は内政、外交を問わず全身全霊で叔父の政治をその片腕として支えた。それはあたかも師匠に仕える弟子のようにして。そして私も実に多くことを学ばせてもらった。さらに皇太子としての私の名前、中大兄皇子も次第に世間に知られるようになった。
 中大兄という珍しい名前は故国朝鮮の風習に由来する。あちらでは大兄(おおえ)(長男)が一家眷属の平和と幸福の責任を負うと聞いている。大兄亡き場合は中大兄(次男)がその責任を引き継ぐ、マアそう呼ぶことで責任を自覚させるというであろうか。我が家の場合も兄が夭逝しているから私が中大兄、皇太子になってからはそれが私の正式の名前になったという訳である。
 皇太子として十年間、仕事をするうちに気付いた。私は本質的に頭領はなく、参謀型の人間であると解った。人々に担がれて、神輿に乗って大勢に命令するよりは、大きな傘の下で任された仕事を着実に誠実にこなす方が性に合う。統領として人に担がれて仕事をするのは得手ではない。朝堂のあちこちに気を使ったり、人の顔色を窺ったは苦手、阿諛追従などは聞くさえ不愉快である。こうした自分を知るにつけ、私を補佐してくれる大海人の器の大きさに再度気づかされた。他の陣衛の人間なら手ごわい相手あると分かった。
 若い頃、二人は女性によくモテた。一人の女性を争ったことも一再ならずある。周囲は我々を恋のライバルと呼んだ。そんな時は私の皇太子という肩書ゆえか、最後は女性たちが私の後宮に入ってくれたから、私の勝利というべきか。自分の心のうちに兆すこうしたモヤモヤを押し隠して、彼との一枚岩ぶりを演じた。娘たちが年頃になると、長女次女の二人を大海人の後宮に入れて血の強化も図った。
 その頃、私の耳には直接入って来ないが、堂上では大海人を推す声が起きているらしい。母も気をもんだのだろう。前回のように即位を逡巡せずに
 「また、私がしばらくつなぎましょう」と、
実にキッパリと承諾してくれて安堵した。しかし後で漏れ聞いたホンネは
 「またもや私にお鉢が回って来ました。一番無難と言うことでしょうか。でも私ももう六十二歳ですヨ。いい年寄りですヨ。また天皇に、と言う話ですが正直な処、面倒なお役など、もうご免蒙りたいです。しかし家族の安寧や、うるさい政敵たちの口封じのために、私は重祚を決意しました。」と、
 「母さんすまない、」
私は心の中で詫びた。
 
8.重祚して斉明天皇に
 翌年(六五五)、私は再び天皇、そう斉明天皇(三七代)になりました。重祚とは二度天皇に立つことを言います。因みに私の重祚は歴代天皇の中で史上初めてとか。そう言えば前回の生前譲位の時も史上初と言われました。二つの史上初のタイトル保持者ですか‥。嬉しくも何ともなくて、ただ煩わしいだけですが、家族の円満のためです。こんな時は老骨にムチ打って、と言いますよネ。他人は私ことを強運の持ち主と言います。確かにそうかも知れません。皇后から二度も天皇になり、実弟も天皇です。さらに後のことですが息子二人も天智(三八代)と天武天皇(四〇代)になり、どちらも歴史に名前を残す立派な天皇になりましたよ。孫娘も二人が持統(四一代)と元明(四四代)女帝になりました。ええ、私の周囲は天皇だらけです。そう言えば夫も二人でしたネ。私はよほど「二」の字に縁があるのでしょうか‥。でも一度だって自分から望んだことはありませんでした。
全て巡り合わせです。

(閑話休題)
 天皇と言っても実質的な仕事はすべて葛城に任せました。私はいろいろな報告を承認し、ときどき指示を出すだけです。私の政(まつりごと)への姿勢は一貫して、仏教の教えの「慈悲」を心がけました。周囲の人々すべてに優しく慈しみの心を持って接するよう自分に課しました。
 今度の天皇としての具体的な実績は、対外的には朝鮮半島の高句麗、百済、新羅と交流することです。唐にも使者を派遣しました。北方の蝦夷には安倍比羅夫を送って平定させ、降伏した蝦夷は都に呼んで饗応して帰国させました。蝦夷は喜び、その後、何度も朝貢して来るので、その度に手厚く歓待し、位階も授けて、土産を持たせて帰しました。また、筑紫に漂着したトカラ人の男女四人も都に召し、饗応して土産をいっぱい持たせましたよ。また、勅を出して僧侶の智通と智達を新羅の船に乗せてもらって唐に遣わせて、玄奘三蔵法師から直接仏教(法相宗)を学んで来るよう命じました。悲しいこともありました。皇孫、葛城の後継ぎ建(たける)王(おう)が八歳で亡くなったことです。残念でなりません。
 神社も吉野と多武峰に造りました。民の暮らしの安寧のための土木工事も葛城の勧めで致しましたが、私の一番大きな仕事は今の百済王子の見送りと百済への出兵でしょうか。しかしこれは功績でなく失政だとして非難されました。確かに国庫をカラにしましたからね。でも、その出兵のお陰で、国防の重要性にいち早く気づき、施政者としてその対策に孤軍奮闘した葛城の努力は評価してやりたいです。これって親の身贔屓でしょうか。
 そう言えば夫も二人でしたネ。私は余程「二」の字に縁があるのでしょうか‥。でも一度だって自分から望んだことはありません。全ては巡り合わせです。
 
9.孫たちのこと
 私には孫が多勢います。内孫・外孫・外腹の孫と‥、合わせて何人になるのか分かりません。何しろ葛城も大海人も、その後宮には皇后の他に妃や賓、采女、宮人と実に多勢の女性たちがいますから。
 残念なことに葛城こと天智の皇后倭(やまと)姫(ひめ)には子供がなく、蘇我倉山田石川麻呂そがくらやまだいしかわまろ家から来た蘇我遠智娘おちのいらつめ蘇我姪娘めいのいらつめの二人が生んだ子供たち、遠智が一男二女、と姪娘が産んだ二女、この五人が実質的な内孫と言えましょうか。因みに五人の内孫のうち二人夭逝しましたが、後に三代の天皇と皇后が生まれました。遠智が生んだ総領孫が天智の長女大田皇女おおたのひめみこ、次女鵜野讃良皇女うののささらひめみこ、長男の建皇子たけるのみこです。しかし建は八歳で夭逝しました。私には忘れられぬ痛恨事で残念でたまりません。
 大田は温和で聡明なたち、私が一番可愛がった孫でしたが、体があまり丈夫でなく、七歳と五歳の子を残して若死にしました。今は私の墓所の隣に眠っています。
 妹孫の鵜野は姉とは反対によく喋る明るい子で、何でもお姉ちゃんと一緒でなければ気に入らぬ勝気な処がありました。小さい頃から大海人が大好きでいつも
「私は大きくなったら絶対に大海人おじさんのおヨメさんになる」
と言っていました。父親の葛城は娘たちが十三歳と十五才になると二人を大海人に嫁がせました。大海人の後宮にはすでに何人かの妃嬪がいましたが、身分の上では姉妹に叶いません。将来の皇后候補です。葛城はその頃からもう大海人を自分の後継と決めていたようです。それだけ信頼し頼りにしていたのでしょう。
 二人は大海人との間にそれぞれ二児を生みました。姉は大伯(おおく)皇女、そう征西の船の中で生まれた女児と娜大津で生まれた大津皇子です。妹の鵜野は長男が夭逝、次男の草壁皇子を大津より一年早く、やはり娜大津で生みました。
 私の曾孫で孫の草壁と大津の二人の皇子は宿命のライバルとなり、いろいろ悲劇がありました。いずれまた、そのお話もする機会がありましょう。
それにしても大王家はスゴイ近親結婚です。後世の人には驚きでしょう。同腹のきょうだい結婚だけは禁忌(タブー)ですが、それ以外は何でもありです。異腹のきょうだい婚、おじ・めい婚はザラでした。おば・おい婚もあります。これは後の話になりますヨ、草壁と天智の娘の安陪(あべの)皇女(ひめみこ)、後の元明天皇(四三代)ですね。同じ階級や身分にこだわると、どうしても近親結婚になります。外国でもそうらしいですネ。私たちの時代にはまだ遺伝学なんぞありません。遺伝の弊害や道徳的に、一夫多妻を云々するようになったのは後世のことです。遺伝の問題を別にすると近親結婚は、私も場合も二度共そうでしたが、血が濃い身内同士の結婚は割合にうまく行くものですよ。お互いに小さい時から顔見知り、なじみもありますから。

続く


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