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小説「ザ女帝」(7)   Ⅲ 天武天皇


17 男兄弟
(大海人皇子の独白)私は大王家の一族に生まれたが、父が早く亡くなって母が再婚したので、私は女儒の里凡海おおあま氏の元で育った。大人たちは皇子みことか皇子さんと呼んで一目置いてくれたが、子供同士はそんなこと関係なく遊びに喧嘩に興じて過ごした。私は年下の子はいつも庇い、年上の子の理不尽やいじめには率先して飛びかかって行った。年の割には体も大きく力もあったので、いつの間にか近隣のガキ大将になっていた。毎日子分を引き連れ、海に山に日暮れまで遊び呆け、楽しく過ごしていた。大人から叱られた記憶もない。母親が恋しいという思いもなく、元気に毎日を送っていた。
 そんな或る日、都から人が訪れて、私を都に連れて行くという話になった。何でも実の母が皇后になったので、その連れ合いの天皇様が私を引き取って育てたいと言うとかで、その人の話では勉強もさせてくれるという。私は毎日の遊びも楽しかったが、最近は勉強にとても憧れるようになり、こんな風に毎日ただ遊び暮らしていていいのだろうか、と言う懸念が心の中に芽ばえ始めていた。だから私は「勉強」と言う言葉に飛びついて、一も二もなく都行きを承諾した。永年、私を慈しみ育ててくれた母代わりの女儒とその連れ合いは、私を手放し難くて淋しがったが、私を本来の場所に戻すいい機会である、私のためには何よりもいいことと、納得して送り出してくれた。
 こうして私は実母の膝元というか、嫁ぎ先である都の大王家に引き取られた。新しい私の家には大王の舒明天皇を中心に皇后である母と私より年下の男の子葛城かつらぎと女の子間人はしひとが居た。初めて会った大王は私を頭のてっぺんから足元まで、人間鑑定をするようにじっと眺めていたが、やがて眼を上げて、
「いい子だ‥ウン」
と一人頷き、私を見て微笑んだ。そして優しい目と顔を私に向けて続けた。
「これからはシッカリと勉強して武術も学んで、立派な大人になりなさい。それから葛城や間人とも仲良くして‥。二人ともお前より年下だから、何かあれば兄として庇い、支えてやって欲しい。私はお前が来てくれてとても嬉しい」
と、私の肩に手を置いて優しく揺すった。
「私を気に入ってくれたらしい」
ホッとした。と同時に、私は物心ついてから初めて自分よりも大きな存在、安心して自分の全てをさらけ出して頼れる、大きな存在に出会えたように思った。
嬉しかった。それまでの私の周囲の大人たちは、かしずいてはくれるが、何か
目に見えない一線があった。今、初めて全幅の信頼を置いて頼れる大きな存在に出会った気がする。心が温かくなった。
天皇様は私に大海人皇子おおあまのみこという新しい名前をつけてくれた。凡海氏は安曇族で海に所縁があり、私が大海のように大きく力強く、心のひろい人間になるように、という意味とか。私はこの名前が気に入り、嬉しかった。久しぶりに会った母は以前より明るく自信に満ちているように見えた。私に会うと
「ずいぶん大きくなりましたネ。元気そうで何よりでした。永い間放って置いてゴメンナサイ。本当にゴメンナサイ。一緒に暮らせるようになって嬉しい」と、私の手を取って優しくさすりながら涙をこぼした。
  初めて会う弟の葛城は大王家の跡継ぎとして、大事に大事に育てられているように見えた。将来の皇太子として、皆から東宮様と呼ばれていた。聡明で素直で優しい性格、しかし大事に育てられた分、少し線が細いというか、気の弱さが感じられる子だった。
ただ、将来は天皇になり国を統べて行かなければならないという自覚と責任感は幼ないながら痛々しいほどに持っていた。
  妹の間人はしひとは素直で優しい女の子で、その仕草は私には可愛らしくまぶしかった。
弟に会ってようやく私は自分が大王家に引き取られた理由が分かった。私の役割は将来、皇太子・天皇への道を進む弟の傍らで、その片腕となって支えて欲しい、と言うことか。その役割は私には予想も出来ぬほど華やかで、とてもやり甲斐がある仕事に思われて感動した。よしっ、しっかり勉強して、この弟の補佐ができる立派な人間になろう。
急に自分の将来が大きく開けた気分で、心から嬉しかった。ただ私の方が少し年上だが、兄ではなく後から大王家に来た人間、弟分として扱われることになると言う。格式ある家では血筋と生まれ順と、母親の身分が重要視される。私は今後、葛城の弟として扱われることを納得し、承知した。
それからの私は、私の教育ためにつけられた家庭教師たち、著名な学者や武道家、高僧らについて一生懸命勉強し、武術も鍛錬して精神を陶冶することに励んだ。私自身もヤル気充分だったから、教師たちが舌を巻く進捗を見せて、数年を経ずして学問は葛城に追いつき、一緒に机を並べて学ぶようになった。
 武道はそれより早く葛城を追い越した。高僧たちも物事を深く洞察する力が私にはあると褒めてくれた。こうして海辺の野生児は文武両道に卓越した立派な、都の教養人の若者へと成長し変身した。天皇と皇后はとても喜び、満足してくれた。
 
18男兄弟 その2
(大海人皇子の独白は続く)こうして私は、天皇と皇后の期待通りの青年になった。私は都の女たちにももてた。私の容姿と知性、人柄が彼女らを魅了したらしい。積極的に近づいて来る女たちも少なからずいた。そんな彼女らと恋も楽しんだ。
 一番積極的だった額田ぬかだとは恋人同士になり、後に大友皇子の妃となる女児十市女王といちのひめみこをもうけた。やがて私の育ての父、舒明が崩御、母が後継に立ち皇極こうぎょく天皇となった。
 その頃から葛城が時おり私に悩みごとを漏らすようになった。母の政を支えてくれる蘇我蝦夷の息子、入鹿の専横が一段と顕著になったと悩み、しきりに私に訴えるようになった。しかし、母が許し黙認している以上、私にはどうすることもできない。
 私が動かぬと知った葛城はとうとう友人鎌足と謀り、乙巳の乱いつみのらんを強行して入鹿を殺害してしまった。母は責任を取って退位し、入鹿の父は申し訳ないと翌日屋敷を焼き払って自害する騒ぎになった。
 
 後継には母の實弟が立ち孝徳天皇になった。その経緯は母がすでに話したので私は省く。しかし一言だけ付け加えると、葛城がその皇太子に立てられたが、あまり非難が出なかったのは、入鹿の専横がひどかったからだろう。
 葛城は孝徳天皇の皇太子として10年間、天皇を補佐して黙々と政務に励み、後に大化改新と言われた大改革の多くをその手で成し遂げた。その間に葛城も私も夫々に後宮を構えて葛城は3児の父に、私も2児の父になった。
 白雉5年(654)秋に孝徳天皇が崩御し、後継は葛城、と誰もが思っていた。ところが葛城は即位を固辞し、皆も私も驚いた。皆はもう忘れかけているかもしれないが葛城だけは、入鹿の殺害をまだ心の裡に引きずっていたのだろう。気持の優しい男だから。葛城の性格を一番よく知る母も無理強いはしなかった。そしてキッパリと言った。
「やっぱりもう一度私が立ちましょう」
 
 翌春、母は重祚して斉明天皇になった。斉明元年(655)である。天皇の政務は手慣れた葛城がそのまま代行、後継には葛城の強い希望で私が立ち、皇太弟となった。やがて葛城は上の娘二人を私の後宮に入れて欲しいと持ちかけて来た。
 その話は何れ、私の処に来るだろうと思っていた。将来の皇后候補である。今はまだ少女だが、私も幼い時からよく知っている可愛い姪たちである。否やはない。殊に下の娘の鵜野は小さい頃から私に懐いて「大きくなったら大海人おじさんのおヨメさんになる」と言ってはばからなかったから。
 姉娘はおとなしくて聡明、皇后になったらきっと私と波長が合うやり方で、私を支えてくれるだろう。妹娘は朗らかで明るい性格、きっと私の憂鬱を吹き飛ばしてくれる、仕える者たちにも好かれるだろう。どちらも今、後宮にいる妃や嬪にない育ちの佳さと教養を持つ娘たちであり、これからどう成長しいくか将来が楽しみである。
 こうして姉妹は私の妻になった。そして後の話になるが、姉娘の太田皇女は幼な子二人を残して夭逝した。結局、妹の鵜野が皇后になり、姉が残した娘と息子を育て上げてくれた。
 斉明天皇になってからの晩年の母は、百済王子見送るための征西、それが祟り命を縮め崩御した。やり残した仕事の百済出兵は散々な大敗に終わり、その後始末と更なる国防整備という大仕事が我々兄弟の双肩にかかった。
 本当に多忙で大変だった。母の命令で始まったこの国事、母の崩御後は兄弟2人が二人三脚で、必死の遂行でやり遂げた。
 
続く


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