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小説「ザ女帝」(4) 豊璋との別れ

10、娜大津なのおおつでの日々

 子供や孫たちのことをいろいろお喋りしているうちに船はだいぶ進みました。今は長門と豊の国を隔てる洞門くきととか速吸門はやすいのとという細長くて流れの速い海洞門峡(後の関門海峡)を抜け、外海に出ました。

 こちらの海は今までの瀬戸の海と違い、水の色も黒っぽく、波も風も冷たく荒くなりました。船も揺れ始めました。そんな外海をひた走りに走り、3月下旬にようやく筑紫の娜大津に着き、私たちは盤瀬行宮いわせのかりみや[1]に入りました。

 この仮御所の場所は今は不詳です。此処は百済へ出兵のための先端基地です。御所の中は大勢の兵士や船頭がたえず出入りし、武具や食料が満杯でゴッタ返し、騒然としています。

 季節は旧暦の3月、桜はとっくに散り、野山はつややかな若葉でいっぱいです。この仮御所は高台にあり、庭に立つと目の前(北)には大きな入り江があって、その一番奥に娜大津の湊があります。入り江の真ん中には能許のこと言う大きな島があります。入り江の突端の岬は、右側見えますがもう一方は島が邪魔して見えません。

 東と南と西側の三方は入り江を緩く囲むように、低い山が連なっています。一番西側の山の奥には姿の美しい山があり、毎日その山の端に真っ赤な夕日が沈みます。大和の夕日もきれいですが、此処の夕日はもっときれいです。私は毎日夕方になると、庭に出て飽かず落日を眺めます。慰められるひと時です。
 でも日中は狭くて小さな御所に人がひしめいて、物音や話し声で一日中騒々しくて落ち着きません。私に挨拶に来る人が引きも切らず、応接に疲れます。こう狭くては居留守を使うことも、多忙を理由にお断りすることもできません。だって見え見えですから‥。

 お陰さまで船の中で生まれた赤ん坊も、元気に育ち始めました。母親の太田皇女も新鮮なお魚を毎日いただくせいでしょうか見る見る元気になり、もう安心です。

 それにしてもこちらのお魚は何と美味しいのでしょう。新鮮で種類も豊富ですね。大和でも難波から取り寄せる結構なお魚をいただいてはいましたが、こちらのように湾内か、すぐ近くの海で釣って朝、湊に揚がる魚をお昼や夕食の膳に上るなんて芸当は出来ません。本当にありがたいことです。

 葛城と大海人は毎日連れ立って外出したり、客の応接や指示といつも一緒で忙しそうです。大海人は常に葛城を立てて、自分は控えめながら実に的確に、行き届いた補佐をしています。夫、舒明の配慮は見事に当たりました。頼もしい二人、私は母としてこの上なく幸せです。

 

11、 豊璋との別れ

 いよいよ豊璋の帰国が決まり、別れの時が来ました。葛城は豊璋の警護と救援の派兵に5000人の兵士と軍船170艘をつけて帰国させるよう計らいました。

 指揮は狭井檳榔さいのあじまさ、水軍の長は安曇比羅夫あずみのひらふに命じました。彼らが出立の挨拶に訪れました。

「大役、ご苦労さまです。有難う。必ず無事で帰って来て下さいネ」

という私の言葉に、勅使の介添えや総船頭として、倭国と百済の間を何度も往復したことがある経験豊富な比羅夫は潮焼けした浅黒い顔と筋骨隆々の体躯に、自信と恐懼、素朴な人柄をにじませながら
「ハッ、ハイッ、有難うございます。行って来ます。役目は必ず全うして来ます」と、不動の姿勢と大きな声で答えました。そして炯炯とした目にいっぱいの笑みを浮かべながら続けました。

「ナニ、この辺りの海はワシらにとっては庭のようなものですから、ハイ」

と、言い放ちました。比羅夫の頼もしい言葉と純朴な人柄が見てとれて、居並ぶ私たち一同も、安堵の笑いを拡げました。兵士の長に任じられ、緊張で顔を強ばらせていた狭井も少しはホッとした様子で比羅夫を見やっていました。

 ただ豊璋だけは、これからの困難と危険を思うのでしょうヨ、緊張して笑いを見せませんでした。

 そうです。安曇はこの娜大津の入り江の東側の突端に見える志賀という島を祖地とする海人族(安曇族)の一人とか‥、頼もしいですネ。

「豊璋 いよいよお別れですネ、貴方や家族の無事を祈っていますよ。必ずお国を再興して下さい。これから大変でしょうが、私は貴方を今までと同じように、ずっと家族と思っていますからネ、どうぞ体に気をつけて下さい。いつかまた会いたいですネ」

と、私は豊璋の手をとって抱き寄せて、背中を優しく撫でながら言いました。涙がこぼれました。

「永い間お世話になりました。ご恩は忘れません。本当に有難うございました。」

豊璋も目に一筋の涙を光らせながら、ふかぶかと低頭しました。

 こうして豊璋一行は故国へ帰って行きました。帰国した豊璋は鬼室らに迎えられ、その奨めで百済王に推戴されたそうです。その頃の百済では、勝ち軍に終った唐軍の大半は帰国して、わずか1万の兵士だけが残留し警備していたそうです。

 鬼室将軍たちはその唐兵らを相手に、ゲリラ的にあちこち出没して戦っていましたから、五千の倭国兵はとても歓迎されて合流し、武器や弾薬もとても喜んでくれたと聞きました。

 

12、朝倉の仮御所へ

 五月に入ると私は体調を崩しました。きっといろいろな疲れが出たのでしょう。葛城は心配して、丁度暑さに向かう季節です。もっと涼しくて戦火の匂いのない安全な場所をと探してくれて、娜大津から30㌔ほど山に入った朝倉という地に私の静養のための仮御所を建ててくれました。

 すぐ横に大きな川が流れて、近くに私の好きな温泉いでゆもあります。仮御所はお宮のある山の大木を伐って丸太のまま使うという、大急ぎで造った即席の御殿でした。だから地元の人々は木の丸御殿と呼び、それがそのまま、私の仮御所の名前になりました。敷地も山の木を伐ったまま、切株がゴロゴロしています。とても広いので朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにわぐうと名付けられました。

 後に、この御所の跡地は恵蘇えそ八幡宮と言うお宮になったそうです。仮御所は社のある山の木を伐り丸太のまま使い大急ぎで造った即席の建物です。人々木の丸御殿と呼び、そのまま仮御所の名前になりました。敷地も山の木を伐ったままで切株がゴロゴロですが、とても広いので朝倉(あさくらの)橘(たちばなの)広庭宮(ひろにわぐう)と名付けられました。後にこの御所の跡地は恵蘇えそ八幡宮と言うお宮になったそうです。

 子供たちや周囲の心遣いも虚しく、私はこの御所に移ってから日を追うごとに衰弱し、病の床から起き上がれなくなりました。温泉好きの私のためにと選んでくれた地元のお湯にも行かずじまいです。やがて幻覚も出始めて、夜中によくうなされるようになり、自分の声で目覚めることも多くなりました。

 私のそば近くに仕えてくれる人々は心配したり怖がったりして
「お社がある山の木を伐って造ったから山の神様が怒って‥その崇りかも‥」

 「そうそう、朝倉のお社の神様がお怒りになったに違いない、アア怖い‥」

と、私に仕える人たちはしきりに言い合いました。

 七月も終わりに近い或る夜のこと、私の命は終りました。その日は朝から豪雨で雷光・雷鳴が轟いていました。すぐ下の川も水嵩が増したらしく、ごうごうと言う流れの音が激しい風雨と雷鳴の合間に聞こえる不安な夜でした。

 瀕死の床の私の目の前にオニが現れました。そのオニの顔はナント入鹿、そう、蘇我入鹿です。

 「入鹿っ、入鹿っ、ゴメンナサイネ、何も知らなかった私を許して、許して頂戴。ゴメンナサイ。貴方には本当に悪いことをしましたね。ゴメンナサイ。私を‥、私を‥葛城を許して‥」

 私の瞼には乙巳の変の日、入鹿の転がった首と板葺御所の庭で、激しい雨に打たれる入鹿の骸、その光景が甦りました。忘れようにも忘れられない光景‥です。夢の中で、涙を流しながら一生懸命に私は入鹿に謝りました。

その時、もう一つオニらしき顔が見えます…。イエそれは蝦夷でした。私がいつも見慣れた温やかな蝦夷の顔でした‥。私がまつりごとに悩み、疲れた時に、この温顔にどれほど慰められ、勇気づけられたことでしょう。

「アアッ蝦夷、蝦夷ですネ、ありがとう‥‥」
思わず蝦夷の方に手を差し伸べようとしたとき、私の呼吸は止まりました。

 この御所に移ってから私は日を追うごとに衰弱し、病の床から起き上がれなくなりました。温泉好きの私のためにと選んでくれたこの土地のお湯にも行かずじまいです。やがて幻覚も出始めて、夜中によくうなされるようになって、自分の声で目覚めることもしばしばです。

 七月も終りに近い或る夜に、私の命は終わりました。その日は朝から豪雨で雷光・雷鳴が轟いていました。すぐ下の川も水嵩が増したか、ごうごうと言う流れの音が激しい風雨と雷鳴の合間に聞こえて来る不安な夜でした。

 瀕死の床の私の目の前にオニが現れました。そのオニの顔はナント入鹿、蘇我入鹿です。

「入鹿っ、入鹿ゴメンナサイ、何も知らなかった私を許して頂戴。ゴメンナサイ。貴方には本当に悪いことをしました。ゴメンナサイ。私を‥、葛城を許して頂戴‥」

 私は泣きながら、入鹿に謝りながら息絶えたのです。

続く

 



[1]盤)瀬行宮いわせのかりみや 福岡市の中央区か南区 現在の高宮、鴻巣山、三宅などが比定されているが不詳。 南公園の大休山の山襞の一つに御所ヶ谷と云う地名もある。

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