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小説「ザ女帝」 (8) 天武天皇即位

21 天武天皇即位
(故斉明女帝の独白)アア、とうとうやってしまいましたネ。壮大なる兄弟喧嘩を‥。どこの家でも兄弟喧嘩は日常茶飯事です。子供は喧嘩をしながら育つものですが、壮年になった子供たちの兄弟げんかは修復が難しいです。もっと老年になればお互いにいろいろと人生経験も積み、人間も丸くなります‥、マァマァとそれなりに許し合えるのが普通ですが、これは庶民の家の話です。大王家ともなればそうはいきません。悪くすれは国を二分する争いに発展しますし、犠牲者が大勢出ます。
 大海人が自分を殺し耐えに耐えてくれたお陰で犠牲者は1人で済みました。大友は大王家安泰のための礎になってくれました。大友イエ弘文天皇、本当にゴメンナサイ。そしてありがとう。
 後世の歴史学者は笑いましょうが、壬申の乱は母親の私から見れば、単なる兄弟げんかに過ぎません。しかもその遠因・原因は、私と夫舒明にあります。舒明の発案で将来、天皇になる葛城を補佐してくれる人間を子供の時から馴染みをつくり、そして育てて置いてやりたい、という思いイエ親心は、エエ100%どころか200%も、大海人は叶えてくれました。有難う大海人。私は心から礼を言います。
 しかし私は葛城にばかり目が行き、アナタの心の裡に育っている思い、もっと民の心を大事にし、文化という知的な欲求を充足させたいという思いや方策に全く気づかなかった、察してやれなかった私の大きな不明です。二回も天皇になりながら、大海人、本当にゴメンナサイ。私がもっと早くにアナタの胸の思いに気づき、それを私の政策に反映させていたら、兄弟喧嘩イエ壬申の乱は起きなかった。大友と言う犠牲者を出すことはなかったし、アナタも何年も苦しい胸の裡を抱えて生きることはなかったのに‥。全ては母の不明です。本当にゴメンナサイ大海人。
 ともあれ、アナタは自分の力で天皇の地位を勝ち取りました。おめでとう大海人。私はとても嬉しい‥、イエもう天武天皇と言わなくてはなりませんネ。
 どうぞこれからは存分にアナタの理想とする国づくりをして下さい。私もあの世からですが楽しみに見ています。ただ体だけは大事にして下さいヨ。アナタももう年ですからね。
 最後に一言を、アナタが葛城と袂を分かち隠棲した処が、舒明と私の吉野の離宮です。また、これからアナタが御所にするのも、私の旧居の飛鳥岡本宮だとか、ここを建て増して使ってくれるそうですネ。アナタが育った懐かしい板葺宮は火災で焼けてしまって、もうありませんが‥。母さんはアナタの気持がありがたく、とても嬉しいです。ありがとう、大海人。

22 新しい国づくり
(天武天皇の独白)クーデターに勝利した私は母が残してくれた旧居の飛鳥岡本宮に戻った。私が都に引き取られて育った懐かしい板葺宮は火災で焼失したが、その後に母が建てた御所である。私は住んだことはなかったが、何となく母の匂いが残っているようで懐かしい気がした。翌年の天武2年(673)に即位して天武天皇(40代)になった。私は岡本宮を自分の御所と定め、すぐ近くに新しい大極殿を建立して岡本宮と合わせ、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらぐうという新しい名前に改めた。政務はここでとった。
 皇后は太田がすでに亡くなっているので妹の鵜野讃良皇女うののささらのひめみこを立てた。全てが新しい出発である。私の政治のやり方は豪族の大臣を一人も置かず、皇族の諸王に職務を分掌させ、その上に私が君臨し全ての政務を直接みた。旧来のように主だった豪族たちの代表の合議による政の進め方にはホトホト嫌気がさしていたから。
 孝徳・斉明の2代にわたる天皇の皇太子として苦労する葛城を、私は傍らでつぶさに見ていたから‥。しかもその合議の進捗は遅く効率も悪い。私に職務を任された諸王たちは、おとなしく忠実に遂行してくれた。しかし、政務から外された豪族たちは不満タラタラで、悪意を込めて私のやり方を皇親政治と呼んだ。でもそれらの不平には耳を貸さなかった。私はもう高齢である。私には残された時間が少ない。私の提示する計画を素早く具体化させなければならぬ。ウダウダ議論している時間はない。独裁政治と言われても構わない。
 私のこうしたやり方は葛城から学んだ気がする。外敵の侵攻に怯えながら、時間との闘いのようにして水城や山城を築いた時のように、私にも早晩訪れるであろう死まで、時間との闘いである。私は腹を括っている。さまざまの腹案の完成は見届けられなくても、継続だけは出来るよう軌道に乗せておかなければならない。そのためには小人数の方がいい。私は皇后鵜野を私の片腕に育て、私のまさかの時は仕事を引き継げるよう、全ての仕事を計画の段階から皇后を同席させ、仕事を覚えさせるよう教育した。若い彼女は私の意図をよく理解し努力して、徐々に私のよき片腕に成長してくれた。
 私が取り組んだ仕事の第一は神道の興隆だった。大王家の祖神を祀る伊勢神宮を整備して、この宮を倭の民全ての祖宮とし、国の安寧を祈願し、民の心の依り処として信仰させることである。これは民の心の安寧を図る手始めである。また全国各地の産土宮を整備し、地元の民が祖宮として尊崇出来るようにした。
 私は都に来る前に伊勢宮に連れて行かれたことがある。我が家の祖先と教えられて参拝させられた時、野生児で怖いもの知らずだった私も、この社の荘厳の気に打たれ、粛然たる気持になった。そしてこの祖宮を誇らしく思った。
 壬申の乱を起こす時も、この祖宮に参拝して武運と加護を祈願した。そしてそれが達成した報恩の思いもある。民にも伊勢宮を尊崇させるために、もっと広い場所をと、五十鈴川畔に社を移して建て直した。長女の大伯皇女を斎宮として奉仕するよう計らった。この斎宮制度は21世紀の令和時代も続いている。
 私は宗教や超自然的な力にも関心があり、新来の道教や仏教も研究していた。神道の考え方や祀り方の中に道教を取り入れた。慈しみの心を説く仏教は民の心の安寧に大いに役立つと思った。推古時代の聖徳太子に倣って、その教えを普及させるために国家事業として幾つかの寺の建立や再建もした。その一つが天武9年(680)に皇后の病気快癒を祈願し薬師寺を建立、私の勅願寺とした。
 この寺は後に西の京に移り、21世紀まで続いて興隆している。世界遺産にも登録されたと聞く。発願・建立者としては嬉しい限りである。
 また、私の死後に到来し花開いた白鳳時代とか白鳳文化と言われる仏教文化の興隆は歴史に長くその名前を残している。その白鳳文化の仕掛人として聖徳太子と共に私の名前が残ることは、何よりも誇らしく大きな喜びである。
 官制の改革もいろいろ手がけた。行政機構の改革は推古・舒明・孝徳・天智と各時代の天皇たちも、それぞれに行なっているが、私の改革の特色は官人の登用に近在の豪族の子弟に限らず、遠国の官人の子弟の他に、庶民の中からも才能ある者を抜擢し登用したこと、法令を整備して法に基づき毎年官人たちの勤務評定を実施、昇進を決めたことである。
 つまり広い人材を登用と昇進の公平性を保った。これは従来から一歩進んだ方法だと自負している。もう一つは女性にも希望する者は宮仕えを許したことである。これらは律令官人制の基礎となり、女性登用にも門戸を開いたことを評価されたと、自負している。
 幼い頃、鄙で育った私は身分にあまり関心がなく、庶人の中にもさまざまの才能がある優秀な子が大勢いることを肌で知っている。生れの貴賤に拘らず、その才能を官人に限らず各分野で活かしたいと思うがなかなか難しい。
私は国号を倭国に変えて日本に、君主の名称を大王に変えて|天皇《すめらみこと》にした。この二つの名称は今後長く使われることになる。他にもさまざまな文化的事業を行なった。それはおいおい話そう。
 
23 皇親政治と吉野の盟約」
(天武天皇の独白は続く)皇親政治については前項で述べた。豪族たちを全て排斥した私はこれから皇族として将来、私の仕事を分掌させる人材として皇子たち、私の成長した4人の息子、高市たけち草壁くさかべ大津おおつ忍壁おしかべ皇子と、同じく天智が遺した皇子の川島かわしま志貴しきの2人、の6人を連れて、天武8年(679)に吉野の離宮に赴いた。そして6人の皇子たちに誓わせた。
 私と皇后はお前たち6人を自分たちの子供と思う。父母を同じくする兄弟として遇するから、お前たちも知っての通り、私と皇后は私の後継は草壁皇子と決めている。まだ立太子礼は済んでいないが、すでに東宮さまと皆に呼ばせている。将来天皇になる路線をしっかり敷いて教育している。
 6人の中では一番重い責任を将来背負わなければならない。父が亡くなった後は、皆で協力して草壁を護り立ててほしい。決して兄弟で後継争いなどしないように、とくと言い渡して、私の前で誓わせ、約束させた。
 話しながらも私の脳裏には、舒明天皇との約束を守り全身全霊、必死で葛城を援けた若い日の自分の姿がダブり、危うく涙がこぼれそうになった。私の口調と表情から皇子たちにも私の心情が伝わったのだろう。皆粛然と話を聞き、同意してくれた。これが世に言う吉野の盟約である。
 ホンネを言えば、私は草壁ではなく大津に後を継がせたかった。文武両道に優れ、体躯も堂々と立派、性格も優しくて自由闊達‥、若い頃の自分を見るようだった。いや、私はその育ちから、心の裡に屈折したものを秘めていたが、御所で恵まれてのびのび育った大津の性格は素直で目上には礼儀正しい、誰からも好かれるいい子だ。
 私は大津と話していると、物事の感じ方や受け止め方が、素直で聡明だった母親の太田にそっくりで、母親の美点をそのまま受け継いでいる我が子のさがが愛しく、嬉しかった。
 まだ10代の頃から私の仕事の一部を手伝わせたり肩代わりさせていたから、20歳を待たずに朝堂に入れた。大津はいつも私の期待以上に成し遂げてくれた。仕事を理由によく彼を連れ歩いた。私は人々から大津の賞賛を聞くのが嬉しく、耳にも心地よかったから。
 大津に較べると草壁は凡庸、気も弱くて、ただ人が良いだけである。しかし、草壁を溺愛する皇后には私が依怙贔屓して大津を偏愛しているように見えて、我慢ならぬらしく、よく文句を言い、時に夫婦喧嘩に発展することもあった。
 長男の高市はこの時26歳で、1番の年嵩だが、母親が胸形むなかた(宗像)徳善の娘尼子娘あまこのいらつめで、后妃の序列から言えば、嬪という身分である。分を弁えてか、皇女所生の弟たちと競うことはなかった。残る3人はまだ幼く、後宮での母親の身分もあり素直に兄たちに従った。
 私は将来、皇子たちに私の仕事を分掌させることを考えて、その結婚にも心を砕いた。特に天智と私は最後こそ壬申の乱という不幸な出来事で、袂を分かったが、もともと二人の間には、わだかまりがないことを周囲に示すために、4人の息子たちには、全員天智の皇女たちを娶せ、天智の息子2人には私の娘たちを嫁がせた。
 草壁には天智の第4皇女阿閇皇女あへのひめみこ、大津には山辺皇女やまべのひめみこを、年嵩の高市はこの時もう天智の第三皇女御名部皇女みなべのひめみこを娶っていた第3三皇子の川島には私の娘の泊瀬部皇女はせべのひめみこ、第七皇子志貴には託基皇女たきののひめみこを嫁がすなど、天智と天武の両家は子供たちの結婚を通して、更にいっそう絆を強めて結束させた。
 また、天皇家は寺社から行事の出席や下々の家の冠婚葬祭の臨席を乞われることが多い。私はその要請を利用し、いつも必ず3人のうちの2人を出席させるようにし、草壁・大津・高市の3皇子の序列をハッキリと外部に知らしめた。

つづく
 


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