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小説「ザ女帝」(9)

24 天武天皇の外交と軍事政策
(独白は続く) 高句麗が滅亡した668年以後の新羅は次第に強まる唐の半島支配への恐怖から逃れるためか、次第に倭国である日本に誼を求めるようになり、我が国への亡命者も増え始めた。
 我が国では推古朝までは新羅と若干の交流があったものの、その後は斉明天皇時代まで親百済一辺倒だった。しかし唐に百済と高句麗が滅亡させられ、新羅が唐の助力で半島を統一すると、我が国も天智天皇の晩年頃から徐々に新羅と交流するようになった。
 こうした周辺の情勢の変化を踏まえて、私は自分の外交政策を明確に親新羅に変えた。舒明天皇が始めた遣唐使はしばらく中断し、代って低姿勢を見せる新羅遣新羅使ケンシラギシを交流させた。
 倭国の目的は先進技術と文化の導入、新羅側は唐と関係悪化した場合の軍事協力と増加する亡命人の受け入れ先としての期待である。その第1回使節団の派遣が天智5年(668)で、この制度が廃止される宝亀11年(780)までに、20数回の交流が続いた。
 私は新羅に大勢の留学生を送り込み、帰国後は彼らを官人に取り立てて優遇した。しかし8世紀に入り遣唐使が再開されると、次第に遣新羅使は衰退した。  
 他にも西方海上の済州島耽羅(たんら)国の使節を迎えて歓待したり、南西諸島の多禰たね(種子島)、掖玖やく(屋久島)、阿麻弥あまみ(奄美大島)などの島民達には、孤島の暮らしは大変だろうと禄を与えた。また、陸奥の蝦夷には日本国の冠位を授けた。
 また私の即位から10年間は百済・高句麗・新羅の区別なく、帰化人たちに税を免除、著名な渡来僧には贈位と封戸を与えた。
 マァ私の外交政策の多くは母斉明天皇の外交の手法を踏襲し、それを制度化しただけである。また、増え続ける亡命帰化人たちを、まだ人口が少ない東国に入植させて土地を開墾し、定住できる施策をとった。
 強大国の唐へは、東アジアで唯一唐に臣従しない独立国そして友好国として、一目置かせる姿勢を堅持した。
 国内への軍事政策としては、天武4年(675)に都と畿内の武装強化のために男子王族と位階を持つ官人の武技鍛錬を義務付けた。諸王や官人の武具も点検した。馬を駆けながらの騎射を奨励し、その技量を競わせるよう命じた。
 この時代にはまだ国軍と言う名の訓練された専門軍団はなかったが、白村江の派兵から逃げて帰った船人たちから唐兵の高い武技の水準や統一された戦いぶりを聞いている私は我が国でも、イザと言う時は武器を取って戦い、都を守る兵士になり得る人材を王族と官人の中に育てておきたかった。
 後世、遣唐使の名前と功績は長く歴史に残り、教科書にも採り上げられるのに、国防への関心や認識はあまりにも低すぎると思われてならぬ。
 また、遣新羅使はもっと忘れられている。少し時代は下るが天平8年(736)7月に新羅に渡る遣新羅使の一行が娜大津を船出して新羅へ向かう途中にある、博多湾の西側の入江の突端韓亭からのとまり(現 福岡市西区唐泊)で風待ちした時に大使一行が詠み交わした旅愁の歌が、数首『万葉集』(巻15、3668~3673)に残るので末尾に挙げておく。
 韓亭とは遣新羅使一行の風待ちのために娜大津の入り江の西の突端の内側に造られた遣新羅使のための宿泊施設である。因みに後の鎌倉時代になり、臨済禅を招来した栄西禅師が韓亭の跡地に禅寺、唐泊山東林寺とうはくざんとうりんじを開創している。
 
①    大君の とほ朝廷みかどと思へれど 長くし有れば 恋ひにけるかも
②    旅にあれど 夜は火もし居るわれを 闇にや妹が 恋ひつつあるらむ
 ③    ぬばたまの 夜渡る月に あらませば 家なる妹に 逢ひて来ましを
 ④    韓亭からのとまり 能許のこの浦波 立たぬ日は あれども家を 恋ひぬ日はなし
⑤    ひさかたの 月は照りたり いとまなく 海人あまの他漁火いさりびともし合へり見ゆ
⑥    風吹けば 沖の白波かしこみと 能許のことまり数多あまた夜そいね
(但し 仮名交じり文で表記)
 
25 天武天皇の内政と文化政策
(独白は続く)私の内政や外交のあらましはすでに述べた。次に私が最もやりたかった仕事、文化事業や政策について語ろう。その前に私の最晩年に改めた年号朱鳥と新都城の藤原京について少し述べておこう。
 先ず年号朱鳥あかみとりのこと、私は赤い色が好きである。人は前漢の高祖(劉邦)を真似たと言うが、赤は吉祥の色だから私は尊んだ。壬申の乱の挙兵の時も、私の軍勢は赤旗、兵士たちも兵衣の上に赤い布切れをつけて敵と味方を識別した。だから初めてつける年号も赤に因みと朱鳥とした。
また、私はかねてからの考えとして、天皇が変わる度に都や御所が変わるのは不便でムダが多い。だから私は母が遺した旧居を建て増して御所としたが、手狭になり建物も老朽化し、何れ建て直さなければならない。
 遣唐使たちの話によると唐の都は御所を中心にして、縦横碁盤の目のように道がつけられ、街を囲むように石の城壁を巡らし、半永久的に使えるように計画的に都を建設していると聞く。これを機にわが国もっと広い場所に、都市計画を考えて半永久的に使える国のシンボルになるような立派な都を造りたくなった。
 そこで、三野王に命じて適当な候補地を探させていた。そして天武11年(682)から2年がかりで、自らも行幸し検討して藤原の地を新都の地と定めた。翌13年(684)から都市計画に基づく造成工事に着手した。
 文化事業は、私には十数年来の懸案事項がある。それは乙巳の変で蘇我蝦夷が責任を取って自邸を焼き自死した時に、朝廷の歴史書や数多の古文書を保管している書庫まで焼失し、過去の大事な記録が失われたことである。
直接的な責任は私ではなく母の斉明と葛城にあるが、二人亡き今は諸事情を知るのは私だけになった。二人の天皇を支えた私の時代に、大王家の責任として、何とかしておかなければ後世の人に申し訳ない。私は焦燥を覚えながら何年も過ごし、ようやくその時機が来たようである。
 私は舎人親王や川島皇子らに命じて、書庫に残る『天皇記』や『国記』の断片、『帝皇日継』『先代旧辞』、親王や豪族の大臣の家に残る古文書類を基に歴史書と天皇記に代る記紀の編纂を命じた。すでに三世紀末に百済から伝来した文字に倭国言葉を当てはめ、倭風の読み方や書き方が広がり始めている。何しろ漢字は難しい。だから読み書きや記録は渡来氏族の人たちが代々専門に担当していたが,歴史の記録の責任は大王家にある。
 こうして永年の私の懸案事項だった新都づくりと史書編纂を発足させて、私はようやく少し安堵した。何しろ私は高齢で残された時間が少ない。新しい都造りと歴史書の編纂はどちらも時間がかかる。
 どちらも国の骨格を造る大事な仕事であるが私の存命中に完成はムリだろう。それでもかまわない。私の責任として発足させ、方向付けだけはしておきたい。その重要性が理解できずウダウダ云うやからには私は恫喝的な言辞も弄して強行した。後になって分かればよしと思っている。そんな連中は私のことを独裁者とか、独裁天皇と呼んだ。
 私の危惧は私の死後、何かの事情でこの大事な事業が中断や取り止めになることだ。前にも言ったが、私の真意を一番キチンと受け止め、理解してくれるのはやはり大津である。彼が後継天皇になってくれるなら、間違いなくやり遂げてくれると心配してない。しかし、すぐ周囲に流される皇太子草壁では心許ない。
 補佐する大津の心労は、永年葛城を支えた私以上になるだろう。では、皇后が後継天皇に立ったらどうか、草壁を盲愛する皇后は大津の補佐を素直に受けないだろう。否ますます草壁べったりとなり大津を排斥するだろう。ああ。
 
26 天武天皇の崩御
 見方を変えると、これは老いた私の自分のやり残した仕事や大津への執着か。私に残された時間はもうわずかである。今頃になって大津の母親大田の夭逝が真底悔まれる。彼女さえ健在なら当然皇后に立ち、大津も自動的に皇太子になり、私の後顧の憂いは払拭されただろうに・・。
 自分が若い頃から興味を持っていた占いで、未来の状況が読めないものだろうか‥。ああ、もどかしい。こんなホンネの悩みを抱えて、私は最晩年を迎えた。
 その頃から頑健だった大王天武の健康は日に日に衰えた。2年後の天武14年(686)から新しい年号朱鳥あかみとり元年に変った。その年の7月に、天皇は「これから天下のことは大小を問わず全て皇后と草壁皇太子に報告せよ。皇后と皇太子は共同で政務を行うように」とみことのりして、政務の全権を二人に委ねた。
 その2ヶ月後の旧暦9月9日に大王大海人は飛鳥浄御原宮で崩御した。文中では分かり易いように、即位と同時に天武天皇で通したが、崩御して始めて歴代天皇と同様に、淡海三船によって天武天皇と漢風謚号からふうしごうされ、この時から正式に天武天皇と呼ばれるようになる。
 某書によると天武天皇の薨年は65歳だったという。年下だった天智より14年も長命である。即位が高齢だったから、その晩年の10余年間に、まるで嵐が吹き抜けるように多くの仕事を抱え、数多くの制度改革を成したのである。だが時間を要する大事業は完成を見ることもなく、すべてを次期天皇に委ねて駆け抜けるように崩御した。

『万葉集』巻1に残る天武天皇の御歌3首を掲載して、人柄を偲んで見よう。
分かり易いように万葉仮名ではなく仮名混じり表記で記す。
 
○むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 吾恋ひめやも(巻21)
 
○み吉野の 耳我みみがの嶺に 時なくぞ 雪は降りけり ひまなくぞ 雨は降りけり
○その雪の 時なきがごと その雨の ひまなきがごと くまも落ちず
 おもひつつぞ来し その山道を(巻25)
 
○よき人の良しとよく見て良しと言ひし吉野よく見よ 良き人よく見つ(巻27)
 
第1首目は額田王ぬかだのおおきみ蒲生野がもうので詠んだ歌(先述③)に対する返歌で、高校の国語教科書でおなじみの恋歌である。第2、3首は吉野に隠棲した時に詠んだ歌と伝えられ、若い頃、葛城時代から天智を支え続けて多忙な時間を過ごした天武にとって、初めて訪れた静かなゆったりした時間に戸惑いが窺えるような歌である。

つづく
 

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