小説「ザ女帝」 (10) Ⅳ 持統天皇


 
27 大津・草壁二人の皇子の死
 天武天皇崩御の翌月、まだかりもがりもまだ終わらぬ10月2日に、臣民を驚かす驚天動地の出来事が起きた。大津皇子が川島皇子の密告によって謀反の疑いを掛けられ捕えられて‥、やがて自栽した。刑死だったともいう。
 この出来事は今は亡き天武天皇に心服する臣下や大津皇子を敬愛し、その即位を心密かに待望する人々を恐怖で震え上がらせた。謀反の疑いは鵜野皇后の差し金であることが明白だったから。
 そんな不穏の空気ただよう中で、皇后はたびたび百官を列席させて、草壁を喪主に立てて天武天皇の葬送のさまざまの儀式を粛々と行なった。そして持統天皇2年(688)11月、天武の遺骸を檜隈大内陵ひのくまおおうちりょうに葬って2年余の歳月をかけた一連の葬儀はようやく終了した。
 ところがその半年後の翌春4月(689)、あろうことか草壁皇子がフトした病が原因(もと)で、あっけなく薨去した。3人の子を遺して‥。ここに永年に亘る鵜野皇后の、草壁擁立のための入念な布石と思惑は完全に瓦解した。
 
(故斉明天皇の独白)鵜野うの讃良子ささらこや、大変なことをしてくれましたネ。ナント言うことを‥、いくら我が子が可愛い草壁が可愛い、後を継がせたいと思っても、お前のしたことは絶対に許されぬことでした。自分が手塩にかけて育てた夫と姉の子に謀叛人の汚名を着せて死なせるなんて‥、お前は鬼ですかっ。
 大津は大王家の宝でした。ご先祖の聖徳太子さま、お前の父天智や夫の天武に続く、日の本の国をもっともっと良い国にしてくれるであろう一族の宝を、お前は草壁への母親の盲愛と偏愛からむざむざ死なせてしまった。
 何と言うことでしょう‥。バチが当たりますよ。ええ神仏のバチが‥。お前はこれから後継者で永く悩むことになるでしょうヨ。草壁の死は神仏がお前に反省と自戎をさせるために与えたバチだと‥、思いなさいっ。
 それにしても川島も悪い、ええ悪いですよ。でもこんな人間は権力者の周囲に必ずいるものです。ええ、ゴロゴロとネ。力ある者にすり寄っては有ることないことコソコソと、相手が快く思うように耳打ちしてはおもねったり仲間を陥れたりする卑怯なやからです。でも、そんな輩の話を真に受けて物事の判断をした権力者つまりお前の方がもっと悪い。愚かですヨ。
 人の上に立つ者はよく人間を見極めて、そんな連中の言に左右されぬ、凛とした姿勢が大切です。今回のことでは、お前は高い授業料を払いました。シッカリと肝に銘じておきなさい。
 
(故天武天皇独白)皇后、鵜野よ!エライことをしでかしてくれたナ。鵜野は私をよく支えてくれた。私が天智と袂を分かち吉野に隠棲した時も、壬申の乱の時も、亡父の天智や弟に逆らい、私と行動を共にしてくれた。どんなに嬉しかっか‥。また即位後も一番信頼できる片腕となり、私のまつりごとを支えてくれた。よき伴侶として、私は感謝していた。
 しかし、しかし鵜野の姉への妬心がこれほどに強く、激しいとは知らなかった。大津を死に追いやるほどに‥。私の不明である。悔やみきれぬ。大田よ!済まぬ。許してくれ。
 鵜野と大田の姉妹は13歳と15歳で私の後宮に入った。どちらも天智の子で、私には可愛い姪たちである。前にも語ったが、姉の太田は聡明で素直、妹は勝気で明るい子。私には二人の性格の違いも可愛く愛しかった。その勝ち気が悪い方向に暴走した。鵜野は夭逝した姉の7歳と5歳の姉弟も養育してくれた。
 しかし子供たちがだんだん大きくなり、姉が遺した大津と自分の子草壁との能力の差が明らかになるにつれ苛立ちを見せ、草壁への偏愛をこれ見よがしに強めた。早くから草壁を東宮と呼ばせ、大津へのライバル心を剥き出しにするようになった。困ったものだ、と私は思ってはいたが、素直な大津が穏やかに受け入れてくれるのをいいことに、周囲の噂に耳をふさぎ、時折仕事で大津を連れ出す時にだけ、彼を思い遣る優しい言葉をかけて慰撫していた。私も家裡がゴタゴタしたり、世間の噂になるのは避けたかったから‥。
 ホンネはともかく、私は天皇家の皇太子は草壁と決めていた。しかし、彼にその重責を全て背負わせるのは能力的にも心許ない、晩年の私のような強いリーダーシップを求めるのはムリなことも十分に分かっていたよ。それは万人も認める処だ。
 彼自身だってよく弁えている。彼の一番の長所は素直で温和な性格にある。だから彼の足りないところを、大津がうまく補佐し肩代わりして、二人三脚で仲良く助け合ってやってくれればいい。かっての私が葛城イヤ天智を援けたように‥。私は大津をずっとそのように教育して来たつもりだった。
しかし、悪魔に魅入られたか皇后は私の死を待つようにして、不穏要因は早めに摘んでおく、とばかりに強行した。ついでに掌中の珠も失ってしまった。本当に何と言うことだ。嗚呼。
 
28 斎宮大伯皇女
(大伯皇女の独白)皆さん覚えていますか。祖母の斉明天皇が征西の時、船の中で生まれた赤ん坊のことを。備前の邑久おくの湊の沖を航行中に生まれたので大伯王女おおくのひめみこと名付けられました。それが私です。
 まだ父が大海人皇子時代だったから王女、天武天皇に即位後に私の呼び名も皇女に変りました。母は天智の長女の太田皇女、二歳違いの弟が娜大津なのおおつで生まれた大津皇子です。私たち姉弟7歳と5歳で母親を亡くし、叔母の鵜野皇后に育てられました。
 私たちの間には、叔母の一人息子草壁がいます。3人はいつも一緒でした。3人共父親が同じなので、父は3人を分け隔てなく可愛がってくれました。でも勝気な叔母は自分の息子より年下なのに、文武に優れる弟大津にヤキモチを焼き、訳もなく弟に当ったり、必要以上に草壁が皇太子であることを誇示したりしました。
 確かに弟は何かにつけ草壁より優秀で、人々から賞賛も受けました。それが余計に叔母の苛立ちを助長したのでしょうか。叔母の妬心の標的にされる弟が可哀そうで‥、いつも私は心を痛めていました。
 娘を持たぬ叔母は私には優しく、女同士と思うのでしょうか、母親のように心配したり可愛がったりしてくれました。弟大津に対する時とは全く違っていました。私が見る処では、叔母の勝気さが自分自身を苦しめているように思われました。 
 私が13歳で父が再建・整備した大王家の祖宮伊勢神宮の斎宮になりました。父から伊勢で生涯にわたり国と民の安寧を祈願して過ごす役割を与られ、伊勢下向しました。神官たちは優しく大事にしてくれましたが、私は生涯結婚せず子供を持てないことを、少し残念に思いました。しかしそれが私の運命ならば、と受け入れて一生懸命に奉仕と祈りの日々を過ごしていました。
 父崩御の報が来て1ヶ月も経たない或る日の昼下りのこと、ひょっこり弟がやって来ました。
「お姉さんお元気でしたか。こちらに来る用があったので、ちょっと会いたくて‥」
「マァ久しぶり。元気でしたか。葬儀で忙しく大変だったでしょう。よく顔を見せてくれましたネ。ありがとう。嬉しいワ。都の皆さんは元気ですか」
その時の弟の憔悴しきった顔、顔色の悪さに驚きながらも、私は明るく応じました。久しぶりに一緒に夕食を、と思い準備させました。本当に何年振りでしょう。一緒に弟と食事をするのは‥。私は嬉しかったが、弟は何か鬱屈でも抱えているらしく口数も少なく、不安でした。ただ二人で子供の頃の思い出話をした時だけ、やっと笑ってくれました。
 当然泊って行くものと、召使いに寝所の仕度を言いつけていると、弟はそれを遮って、どうしても今夜中に都へ帰らなければならぬと言います。月明かりでもあればですが、今夜は今にも一雨来そうなドンヨリした空で、峠道の難渋を思い、泊まるよう勧めるのを振り切り都へと帰って行きました。
 弟を見送るために外に出た私は夜空を見上げながら、大きな不安で胸が締め付けられるような気がして外に立ち尽くしました。着物が夜露で湿るほど長い時間を‥。
 その後、伊勢まで風聞が伝わって来ました。弟は謀反の罪をきせられて自裁し、二上山に移葬され、妃の山辺皇女は殉死したと‥。いったい何がどうなっているのか私には分からず心配しました。やがて、ああ弟は私に別れを告げに来たのだ、憔悴の理由がようやく解けました。
 私は弟が可哀そうで可哀そうでたまらず哀泣しました。いっそ私も死んでしまいたいと、どれほど思ったことでしょう。
 弟の死後、鵜野皇后から私の家を用意したから都へ戻るようにと、強い要請を受けて伊勢を離れて都に戻りました。そして2年余りに亘る父の葬儀全てに参列しました。ところがその後突然に草壁が薨去、叔母が即位しました。私はその後の十数年、都で暮らして大宝元年(702)に都で薨じました。
『万葉集』の中に、私が弟大津を悼んで詠んだ歌があります。当時の私の気持が分かって頂けましょうか。(但し仮名混じり表記)
 
①    わが背子を 大和に遣(や)ると小夜更けて暁(あかとき)露に吾立ち濡れし(万葉集巻2 105)
 
②   二人行けど 行き過ぎ難き秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ( 々 106)
 
③   神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ君もあらなくに ( 々  163)
 
④   見まくり わがする君もあらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに( 々 164)
  *③と④は朱鳥元年(686)都に戻る途中につくる
⑤   うつそみの 人にある吾(あ)や 明日よりは 二上山を弟背いろせと 吾見む( 々  165)
 
⑥    磯の上に生ふる馬酔木あしびを手折らめど 見すべき君の在りと言はなく( 々 166)
 

二上山


29 大津皇子に謀反の罪を
(大津皇子の独白)私は天智2年(663)に筑紫の娜大津の盤瀬行宮で生まれたので大津皇子と名付けられた。父は大海人皇子(後の天武天皇)、母は天智の長女の大田女皇、2歳年上の同腹の姉大伯がいる。1歳年上の草壁は父方では兄、母方では従兄に当たる。2人共同じ娜大津で生まれたが、その頃の盤瀬御所は百済出兵のための前線基地で、草壁が生まれた頃は出兵準備、私の時は白村江の大敗からの帰還兵でゴッタ返していたらしい。父や天智の伯父はその頃、敗戦処理で超多忙の日々であったらしい。その後の父たちは唐兵の来襲に備えて水城や山城造りのために何年もこの御所に滞在したと聞いている。
 私たち姉弟が7歳と5歳になった時に母が薨じて、姉と私は叔母の元に引き取られて育った。父たちはいつも仕事で留守し、めったに顔を見ることがなかった。草壁と私はいつも一緒に勉強させられたが、私の方が成績が良かったので叔母は露骨に不機嫌になり、ヒステリックに草壁を叱った。
「アナタは東宮で将来天皇になるのだから、しっかりしなさいっ」
と言って‥。そして後でこっそり私にイジワルした。そんな叔母と草壁や私をいつも見ている姉は私のために心を痛めてくれた。
 一方の私は父からいつも「将来、お前は天皇を補佐する人間にならなければならぬ。何事にも精通したよい補佐官になるためには今からシッカリ勉強し、体を鍛え、武技を磨いておきなさい。」と私の将来の目標を示唆してくれた。確かに父は全身全霊で、時にはその盾となって天智の叔父を支えている。私には一番身近なよいお手本である。父の背中から私は学ばせてもらおう。幼い時に母を失ない淋しく育った私は、父との絆が一層深まったようでとても嬉しかった。
 ホンネを言えば、文学や歴史に興味があった私は将来、後に世に出る『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』『懐風藻』のような書物の編纂に携わる仕事がしたかった。得意の文字を駆使して‥。しかし、それは国の政を担当する大王家に生まれた人間にとっては難しいと言うよりも許されないことだった。
 父の命令で私は10代から朝堂は入った。周囲は騒いだが、私を草壁の補佐官として育てる父の教育だと思い、雑音には耳を貸さず、命じられた仕事を黙々と着実にこなした。皇后からの風当たりは一層強くなったが、父はそれを庇うように、何かと仕事にかこつけては私を外に連れ出してくれた。私も心の裡で喜んでで父の行幸の供をした。
 そう、父の構想だった新しい都づくりの用地の選定が大詰めに来ていた。そんな或る時、父の背中が薄く小さくなっていることに気づいた。あんなに強く逞しかった背中が‥、また、体全体から立ち昇っていたオーラのような力強さも消えている。病気だろうか、私は不安と心配で胸が締め付けられた。
 それからしばらくして、父は百官を招集して皇后と草壁を同席させてみことのりを発した。「これからの政は全て皇后と皇太子に相談して、その指示に従うように。皇后と皇太子は共同で政務を行うように」と。
 その翌日から父はどっと病の床に就いた。まるで大岩が倒れるように。2か月後の朱鳥元年9月9日に天武天皇は崩御した。そして、臣民共にその衝撃から醒めやらぬ月末、召使いが慌ただしく我が家に駆け込んで来て告げた。
 私が謀反の罪で捕えられるという。えっ謀反?一瞬驚いた。密告は私の親友とも言える川島皇子だという。川島は年齢も近く、何でも忌憚なく話し合う仲だった。若さ故の正義感の迸りから、現政権への批判も口にしたかも知れない。私はいちいち覚えていないが私の言葉を悪意につなげて謀反か‥、怒りより笑いたくなった。
 マァ臣民を納得させるにはドラマ仕立てにするほうが分かり易い。確かにドラマには悪役が必要である‥。それにしても皇后はそんなに私が憎かったのか。母同様に育てられ、幼時は私も懐いた人である。私の心は冷えた。
しかし、対立して争いたくない。犠牲者は増やしたくない。そんなに私が邪魔ならばこの生命いのち、叔母皇后にくれてやろう。過去にも大王家の政権交代にはまま犠牲者が出た。近くは大友皇子もそうである。今回は私がその犠牲者か。正邪の判断は後世の歴史に委ねるとしよう。それでいい。
 私は心が決まると、伊勢にいる実の姉大伯に無性に会いたくなった。会って一言別れを言いたかった。その夜更け、私は妃の山辺女皇が作ってくれた弁当を腰に、密かに伊勢に向け磐余いわれの自邸を後にした。たった  一人で、深夜の山越え道を行く私を見送りながら山辺は訝った。
伊勢から戻り、後は身辺を片付け捕吏が邸に到着する直前に自栽した。妃の山辺は狂乱状態となって殉死してくれた。山辺よ済まない。
 わが国初の漢詩集『懐風藻』(天平勝宝3年刊 751)に、私の紹介文があるからここに転載する。私と言う人間を少しでも理解してもらえればと思う。
 
私は「体格や容姿が逞しく寛大、幼年から学を好み、書物をよく読み、博覧で文をよくした。壮年になると武芸を好み、多力でよく剣を撃つ。その性(格)は自由闊達、規則に拘らず、皇子ながら挙動は謙虚で人々を厚く遇した。だから多くの人から人柄を慕われ、信望をあつめた。」(筆者意訳)という。イヤ褒め過ぎで少々面映ゆい‥。
 
30 大津皇子が遺した歌と詩
 文武両道に優れ、性格もよい皇子は父の天武天皇の資質を一番強く受け継いだ。このような人物なら女性たちが放っておくまい。皇子自身も女性たちにもよくもてた、適齢期になると恋もしたと語っている。このあたりも父天皇と同様である。

石川郎女と取り交わした相聞歌(巻2 107~9)が万葉集に残る。
 
○あしひきの 山のしづくに妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに(大津)
 
○吾を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを(石川)
 
○大船の 津守のうららむとは まさしく知りて 我が二人いねし(大津)
 
 しかし皇子の永遠の女性像は斎宮になった姉の大伯皇女らしいことは容易に推察できる。皇子の伊勢行きと大伯が遺す歌からも、その強い絆と姉弟愛の迸りを感じることができる。
磐余いわれの自邸で詠んだ辞世の歌と詩
 
○ももづたふの池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
 
○漢詩  金烏臨西舎 (金烏は西舎に臨み)
鼓声催短命 (鼓声は短命を催す)
泉路無賓主 (泉路に賓主無し)
此夕離家向 (此の夕べ 誰が家にか向かふ)
 
31 早逝した草壁皇子
(草壁皇子の独白)私は斉明天皇が筑紫で崩御された翌年(662)娜大津の盤瀬行宮で生まれた。父は大海人皇子、母は鵜野皇女、後に両親は天武と持統天皇になった。盤瀬で私が生まれた翌年(663)、父方で言えば腹違いの弟、母方では母の姉の子、従弟の大津が生まれた。あの頃の盤瀬御所は、私が生まれた時は百済へ出兵準備、大津の時は白村江で大敗した帰国兵士や受け入れた亡命百済人で、ごった返していて、祖父天智や父は超多忙であったという。マァ二人共、戦火の匂いが立ち込める戦の前線基地で生まれたわけである。
 二人が生まれた後も、数年間は祖父や父は唯々忙しくて、幼い頃の私は、父に構ってもらうどころか、同じ家に暮らしながら顔を見ることも滅多になく、母と2人で母子家庭のように過ごしていた。6歳の時、そう、そのころ一家はもう都に来ていたが、大津と姉の大伯が母親を亡くしたとかで我が家に来て、一緒に暮らすようになった。
 一人っ子で淋しかった私は姉弟が出来てとても嬉しかった。姉は優しく、弟は頭も体格もよい頼もしい子だった。3人は7歳、6歳、5歳と年も近かったからいつも一緒、私は1人っ子の淋しさが癒えた。母は私に愛情を注いで可愛がってはくれるが、その有り余る愛情と関心を私1人に向けられるのは、重くて息苦しかったから。
 3人に関心が分散してくれるのは正直、有難く嬉しかった。遊びも勉強もいつも3人一緒だった。そのリーダー役は一番年下の大津で、私はこいつはスゴイやと感心し敬服していたから、いつも素直に大津に従い仲良く遊んでいた。
 ところが母は年下の大津にくっついて歩く私が歯がゆいらしく、私を陰に呼んでは“兄なのだから、もっとシッカリしなさい”と私を叱った。
 姉が13歳になり伊勢神宮の斎宮になると、私たちと別れて伊勢に下った。この頃になると母は私が将来天皇になるからと、皆に「東宮さま」と呼ばせた。父は大津を呼んで、
 「お前は将来、天皇になる草壁を支えて行かなければならぬ。父が今、天智を支えているように。1番身近で草壁を補佐する人間にならなくてはならぬ。しっかり勉強し、武術の技を磨き、よき補佐官になれるよう頑張りなさい。」と、事あるごとに言い聞かせて、補佐官教育を始めた。10代後半には、結婚を機に、 “政を覚えさせる”と、2人を朝堂に入れた。
 ここでも大津は若いながら抜群の働きを見せ、居並ぶ者たちを感心させた。私は能力では絶対に大津に叶わないから、私達の時代になると政の実務は全面的に大津に任せ、ただ彼が働き易いように、実力を発揮し易いように配慮だけして、私は専ら臣民に仁愛を垂れることに意を注ぎ、仁愛溢れる天皇と言われるように努力しよう。私は自分の未来図をこのように描いていた。
 凡庸だとか、大津に劣るなど口さがない連中の噂には一切耳を貸さなかった。ただ私自身の大津への嫉妬心と競争心は厳に慎もうと自分に誓った。母はいろいろ言うが全て聞き流した。母とは言い争いたくない。
 父の病が篤くなり、母と私に政務を任された時も、密かに彼に相談すればいいやとタカをくくり、頼りにしていた。ところが父崩御の直後に、彼は謀反の罪を着せられて自栽した。アア何と言うことだ。
 私は目の前が真っ暗になり、父の崩御よりショックを受けた。私はどうすればいいか。心が萎えたまま2年余に及ぶ壮大な葬儀の一連の儀式を主宰した。心は半ば虚ろであった。その間ずっと「これからどうすればいいか‥」の大きな不安を抱えたままで‥。さらに半年後には、私は疲労と心労で倒れ、そのまま心臓まで止まってしまった。薨年28歳 持統3年(689)4月。
妃の阿閉皇女(天智の娘)との間に生まれた子女3人、軽皇子、氷高皇女、吉備皇女がいる。私の家族の中から後に、文武天皇(42代 軽皇子)、元明天皇(43代 妃阿閉皇女)、元正天皇(44代 氷高皇女)の3人の天皇が続いたから、私は夭逝したが、以って瞑すべきか。
 
大名児おほなご彼方おちかた野辺に刈る草の束の間も吾忘れやも(巻2 11)
 
 これは万葉集に遺る私の歌である。ほのかに憧れていた大津の恋人石川郎女を詠んだ歌である。だから後世の人たちは、草壁・大津・石川の間でも、額田王を巡る父たちのような恋のライバル関係では、といつまでも誤解される。
 
つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?