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午前3時、202号室の団欒【4/5】

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 その夜、あたしは裏野ハイツに帰らなかった。

 大学で裕子を見つけて、飲みに誘う。
 ちょうど週末だった、ということもあったが……特に、理由は言わなかった。
 あたしはあんまりお酒に強くない。
 裕子はけっこう飲む。

 居酒屋で、飲んで、飲んで、飲んだ。
 どうでもいいバカ話をして、大声で笑った。
 自分でもかなりヘンなテンションだったと思う。

 裕子は最初、戸惑っていたみたいだけど、彼女も酔いが回っていくうちに、あたしに合わせて浮かれ、騒ぎ始めた。

 とにかく、裏野ハイツに帰りたくなかった。

 あたしはベロベロに酔っ払い、裕子のマンションに泊めてもらうことにした。
 ……というか、裕子を飲みに誘ったのはそれが目的だったのだけど。

 裕子の部屋で入れ違いにシャワーを浴び、裕子は自分のベッドで、あたしは床にクッションを敷いて寝た。
 眠りに落ちる少し前、裕子に声を掛けてみる。

「……やっぱり、友達って大事だよねえ……」

「え、なにそんなワザトラシイこと言ってんの?」

「ううん……なんでもない。裕子…ずっとあたしの友達でいてね」

「今日はヘンだよ、あんた」

 あたしは寝返りを打って、ベッドの上で目を閉じている裕子を見た。

「ヘンだったかな?」

「なんかあったの?」

 確かに、ここ数日、いろんなことがありすぎた。

 いや、いろんなことがあった、というのは、すべてあたしの主観のなかでの出来事だ。

 それを、いったいどうやって裕子に説明すればいいのだろう?
 どうやって、理解してもらえればいいのだろう?

「……なんでもないよ」

「そっか……じゃ、わたし寝ちゃうからね」

「うん、おやすみ」

 裏野ハイツの部屋よりもずっと狭いワンルームだけれど、ここなら深夜に、隣の部屋から食べ物の匂いがただよってくることはない。

 人が騒ぐ声が、聞こえてくることもない。

 少なくとも、今晩のあたしは安全だ。

 あたしは、目を閉じた。
 ゆうべ、ほとんど眠れなかったうえに、散々お酒を飲んだせいだろう。
 電池が切れたみたいに、あたしは眠りに落ちた。

 朝日があたしの顔を照らしている。

 近くの公園から、蝉がわめき立ている。

 近くの公園……?

 ここは裕子の部屋だけど、この蝉の声は裏野ハイツで毎朝聞かされている、あの公園から聞こえてくる蝉の声とそっくりだ。

 トーストを焼く匂い。
 コーヒーの香り。
 フライパンで、ベーコンかハムの脂がはぜる音。

(え……裕子、あたしに朝ごはん作ってくれてるの?)

 あたしは目を開いた。

 東向きの窓からの朝日。
 見慣れた天井……いや、少し違う。

 木目の雰囲気もシミも、見慣れた天井とは少し違う。

(……う、嘘でしょ?)

 ここは裏野ハイツだ。
 慌ててベッドの上で半身を起こす。

 ダイニングキッチンに、パジャマ姿の後ろ姿が見えた。
 だ。白髪混じりの、中肉中背の後ろ姿。

 鼻歌を歌いながら、その男がキッチンで朝食を作っている。
 裏野ハイツの、あたしの部屋ではない別の部屋で。

「あっ……あのっ…………え、えっ?」

 そのときあたしは、自分がなにひとつ身につけていないことに気づいた。
 男が、あたしに振り返る。

「あっ……起きたんだね?  もうすぐ朝ごはんができるよ、お姫さま

 あの男だ。

 一昨日の夜、201号室のお婆さんが階段を登るのを手伝っていたとき、親切に手を貸してくれた、あの101号室の男。
 スーツ姿ではなかったけれど、あのときと同じ愛想のいい優しそうな笑顔で、あたしを見ている。

 あたしは自分の胸が丸出しになっていることに気づいて、慌ててシーツを搔きよせて隠した。
 そして、ベッドの上で後ずさる。

「こっ……ここ、どこ? 」

 男性はフライパンを手に、きょとんとして言った。

「どこって? ……僕らの部屋じゃないか」

「な、なんであたしが、ここにいるの?」

 男性はにっこり笑うと、やれやれ、という感じで肩をすくめ、フライパンをレンジに戻してレンジの火を止めた。
 そして……愛想のいい笑みを浮かべたまま、あたしのほうに歩いてくる。

「どうしたの? 寝ぼけてるの?」

「こっ……来ないでっ!」

 あたしはお尻のうしろにあった枕を引っ掴むと、男性に投げつけた。
 枕が男性の顔に当たる。
 でも、男性は愛想のいい笑みを崩さない。

「お姫さまは、ずいぶん寝ぼけてるみたいだなあ……ここは僕たちの部屋。裏野ハウス101号室。君は、僕と半年前からこの部屋で暮らしている……それは、なぜだと思う?」

「し、知らないよっ!  な、なんであたし、ハダカなの?  あんた、あたしに何をしたの?  ……あたしの服はどこ?」

 また、男性が肩をすくめる。“やれやれ”の仕草だ。

「ゆうべのこと、ぜんぜん覚えてないの?  結婚して半年……きのうの君はなんというかいつになく……すてきだったよ」

 一昨日の夜、おばあさんから聞いたことばがよみがえる。

『……たしか、えらい若い奥さんと一緒に暮らしたはるみたいやで……お姉ちゃんと変わらんくらいの、若い女の子と……』

 あたしは叫んでいた。

 裏野ハイツ中どころか、この町全域に響き渡るような金切声で。


 あたしは金切り声を上げ続けた。
 叫びながら、手当たり次第に、近くにあるものを男に投げつける。

「おいおい、どうしたんだよ? なにをそんなに……」

「寄らないでっ!  寄るなってばっ!」

 さすがに男は怯んだようだ。

 あたしは、とりあえず床に散らばっていた服をかき集めた。
 下着は下だけしか見つからない。
 その上からジャージのズボンを履いた。
 男の視線から胸を腕でかばいながら、なんとか素肌にTシャツを身につける。

「なんかの冗談かい?  ……どうしてそんな……」

「うるさいっ!  黙れっ! …………あ、あたしが、あたしがお前の奥さんなわけねーだろっ!」

 とにかく、格好だけでも外に飛び出せる状態にはなった。

「待ちなよ……朝ごはん、食べないの?」

「どけっ!」

 あたしは男を押しのけて、裸足で部屋を飛び出した。

 きつい夏の日差しが目を射る。
 一瞬、視界が真っ白になった。
 どんどん世界に色がついて、目に映ったのは裏野ハイツの前の広場だ。

 3歳くらいの子供が、あたしに背を向けて地面に何かを描いている。
 グリーンのTシャツに、ベージュの半ズボン姿。

 タカユキくん?  ……もしくはユキちゃん?

 自分が飛び出した部屋の表札を見た。
 101号室。
 表札に名前はない。

 遅れて、パジャマ姿の男があたしを追ってくる。
 さすがに、愛想のいい笑みはもう消え、明らかに当惑していた。

「どうしたの?  ほんと、いったいどうしたんだ?」

「助けてっ……だ、誰かっ!」

 あたしは、隣の部屋……102号室のドアを叩いた。
 やはりこの部屋にも表札はない。

「ちょっと……ホントに、どうしたんだよ? ……」

 男があたしを後ろから羽交い締めにしようとする。
 あたしは102号室のドアを蹴った。

「助けてっ!  助けてくださいっ!」

 ドアチェーンが外れる音がして、内側からドアが少し開く。

「…………なんなんスか?」

 
 ドアの隙間から、髭面の男が顔を出す。
 ボサボサの髪で、がっしりした体型。年齢は四〇歳前後。

 もちろん見覚えのある顔だ。
 前にこの男を見たときは、緑色の作業着を着ていた。
 
 彼は、前に見たとき、この男は103号室のご主人だったはずだ。
 いま、あたしの背後で地面に絵を描いている、タカユキくんのお父さんだった。

 その男はもう何ヶ月も洗っていないようなネズミ色のだらしないジャージを着ている。
 あのコンビニで見かけた男と、同じ色のジャージだ。

 あたしは背後のタカユキくんに振り返って、その背中に叫んだ。

「ねえ、タカユキくんっ?  タカユキくんてばっ!  ……この人……この男の人、きみのお父さんだったよねっ?  そうでしょっ…………?」

 タカユキくんは振り返りもしない。
 ずっと地面に絵を描き続けている。

「なんスか? 大丈夫っスか?」

 髭面の男が、いかにも迷惑そうな顔で聞く。

「いや、どうもすみません……妻が、ちょっと錯乱しているみたいで……」

 パジャマ姿の男が、申し訳なさそうに頭を下げる。

「あんたの妻じゃねえ、っつてるだろっ!」

 あたしはまた金切り声で叫んだ。

「あのー……うちのタカユキが、どうかしました?」

 103号室から、若い30代の夫婦が顔を出していた。

 スリムでスタイルのいい奥さん。
 茶髪にタンクトップ、カットオフデニムのショーパンというギャル風ファッション。

 同じようにスリムで背の高い旦那さん。髪はまた、茶髪に戻っている。
 和柄Tシャツにダメージジーンズ姿、という少しヤンキー入った出で立ち。

 夫婦ともども、元に戻っていた。
 おそらく……あたしが最初にこの夫婦と、タカユキくんを見かけたときと同じ状態に。

「ああもうっ! ………… アンタら夫婦には、もううんざりっ!」

 顔を見合わせる103号室の夫婦。

 あたしと結婚しているとのたまった101号室のパジャマ姿の男も、開いたドアの戸口でぽかんと口を開けている102号室の髭面男も、みんな当惑していた。

 みんな、いったいなにが起こっているのか事情が飲み込めない、という顔をしている。

 いや、いやいやいやいや。
 あんたたちより、あたしのほうがもっとこの状況を理解できない。

 タカユキくんは全員に背を向けたまま、ずっと地面に絵を描いている。

 あたしは、階段を駆け上がった。

 2階に上がると、201号のおばあさんが、ドアから顔を覗かせていた。

「…………どないしはったん……?」

 おばあさんに背を向けて、あたしは203号室まで走る。

 表札にあたしの名前は入れていないが……そこはあたしの部屋だ。

 鍵が掛かっていた。
 でも中からは、テレビの音が聞こえてくる。

「ちょっとっ! ここ、あたしの部屋だよっ? ねえっ…………開けてよっ!」

 ドアを叩きまくった。

 ちらりと肩越しに背後を見ると、パジャマ姿の男を先頭に、1階の住人全員が2階に上がってこようとしていた……
 前の広場で背中を向けて地面に絵を描いている、タカユキくん以外は。

 セミが泣きわめく。
 太陽が照りつける。

 気づけば、201号のおばあさんまでが、歩行補助器を押して廊下に出ていた。

「開けてっ! 開けてったらっ!」

 しばらくして、内側から鍵が外れる音。
 チェーンを掛けたままのドアが、少し開いた。

「なんなんです? いったい朝から……何なんですか?」

 中から少しだけ顔をのぞかせたのは、もちろんあたしではない。

 あたしと同じ年頃の、女の子だ。
 203号室の学生さん。
 そして、その顔を、誰かと見間違う筈がない。

「ゆ……裕子?」

 裕子……あたしの親友は、戸惑った表情で言った。

「えっ? す、すみません……そうですけど……どちら様ですか?」

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