午前3時、202号室の団欒【5/5】
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202号室……あたしの部屋のドアの隙間から顔を覗かせている裕子の顔は……露骨に『誰このイカレ女?』と言っている。
あたしの親友、大学でもたったひとりの親友の、裕子が。
「うそ……」
あたしが裕子を巻き込んだんだ。
201号室のドアの隙間から困惑した顔であたしを見る裕子を見て、改めて思った。
突発的に、頭に浮かんだ考えだった。
あたしが、裕子をこの裏野ハイツに巻き込んだ……
あたしが、裏野ハイツから逃げようとして、彼女の部屋に泊まったりしたから。
「いやどうも……関係ないお嬢さんにまでご迷惑をお掛けして……ほんとにすみません」
あたしの背後から、パジャマの男が裕子に言う。
「……ほんとうに申し訳ありません……うちの家内が、とんだご迷惑を……」
「ちがうっ……」
あたしは男の言葉を遮った。
「裕子……聞いて! ……ここから出なきゃだめ! ……お願いだから、あたしを信じて…………」
裕子の顔が、悲しげに萎れる。
そして彼女は……あたしにではなく、背後のパジャマの男に言った。
「……奥さん、大変そうですね……ゆっくり休ませてあげてください」
「裕子っ!」
目の前でバタン、とドアが閉じた。
振り向くと、パジャマの男の気遣わしげな顔が目の前にある。
その背後に、103号室の夫婦……そして、102号のジャージの髭面男。
廊下の向こうに、歩行補助器に掴まって立っているおばあさんの姿。
このマンションの住民全員……少なくともあたしの知るかぎり……が、集合している。
「なに? ……あんたたち……なんなの? いったい、誰が誰なんだよっ?」
それを聞いて、廊下の奥にいるおばあさんが、愛想のいい笑みを浮かべて言った。
「誰が誰かて、ええやないの……裏野ハイツの人らは、みんな家族みたいなもんや……」
焼けつくような日差しのなか、あたしの全身の肌が粟立った。
あたしの夫だという男の背後には…1階の住人たち。
廊下の端には、相変わらずニコニコと笑っているおばあさん。
あたしは逃げ場を求めた……
きっと暑さと、恐怖でどうかしていたんだと思う。
よりによって、202号室のドアノブを掴むなんて。
ひねったらドアが空いたからって、中に逃げ込むなんて。
あたしは202号室に飛び込むと、ドアを締め、鍵とチェーンを掛けた。
眩しい日差しのなかからいきなり暗い部屋に入ったので、あたしの視界は真っ黒に暗転する。
玄関のたたきにうずくまり……ドアに耳をつけた。
外は静かだ。セミの鳴き声が届いてくる以外は。
部屋のなかは冷房など効いていないはずなのに、妙に涼しかった。
部屋の中を見渡す。
闇に目が慣れてくるのに、しばらく時間が必要だった。
(………………な………………なにこれ………………)
確かに空き部屋だった。
空き部屋だから、家具はなにもない。
だが、壁一面が、何かにうめつくされている。
(……しゃ、写真?)
顔を近づけて、数枚の写真を見た。
すべてこの部屋のリビングで撮られたものだった。
どの写真も、料理を囲んだ家族……らしい集団の、楽しそうな集合写真だ。
料理は鍋物だったり、焼き肉だったり、お好み焼きだったり……
すべての写真は料理を楽しむ、数名の大人といつも中央に据えらた一人の子供を捉えている。
すべての写真に、日付があった。
おばあさんの部屋で見せられた“お孫さん”の写真と同じような日付が。
(2010/3/4/3:22……2005/6/19/3:12……2016/2/3/3:15……1995/8/3/3:05……1987/11/2/3:18……1990/5/20/3:04……)
そんなふうに、何の規則性も秩序なく、無数の写真が壁を埋め尽くすように貼り付けられている。
取られた時刻は、すべて午前3時過ぎ。
ほとんどの写真に、おばあさんが写っていた。
おばあさんは、どの写真でもほとんど変わらない。
確かに20年前は……今よりは少し若く見えたけど。
一部の写真には、見たことのある顔があった。
1階の夫婦や、わたしの旦那だと言い張る中年男、あの髭面の男など……
すべて、このマンションの住人たちだ……今よりずっと幼なかったり、若かったり。
そして写真によって、出で立ちや髪型が変わっていた。
それらはほんの一部で、あたしが見たことのない人たちが写っているものがほとんどだった。
ただひとり、古い写真の中でも、新しい写真のなかでも、少しも変わらない者もいる。
彼……もしくは彼女は、いつも中央に座っていた。
この部屋を埋め尽くす、無数の写真のすべての中央に、その子が座って、笑っている。
写真によって女の子になったり、男の子になったりしているが……。
1980年代の写真でも、タカユキくんは今とまったく変わらなかった。
あたしは洋室の床に、ぺたんと座り込んだ。
ふと顔を上げる……
キッチンの真ん中に、いつの間にかタカユキんが立っていた。
なぜ、彼が鍵の掛かったドアから部屋の中に入ることができたのか……
あたしはもう疑問にさえ思わなかった。
このさい、彼をいまさら改めて恐ろしく思うのも……妙な話だ。
わたしは、力なくタカユキくんに笑いかけた。
「……そういうこと……だったの…………」
タカユキくんが、あたしを指差す。
「ママ」
はじめて、タカユキくんの声を聞いた。
「え?」
そして、はじめて、タカユキくんがあたしに笑顔を見せる。
「ぼくの、ママになってよ」
あたしは静かに首を振った。
「ちがうよ……あたし、あなたのママじゃない……」
タカユキくんが笑顔を消して、真顔になって言う。
「どう、ちがうの?」
「えっ……?」
思わず、口ごもってしまった。
どうもこうも、違うものは違うはずなんだけど……
「なにが、ちがうの?」
あたしはなぜか、タカユキくんに答えることができなかった。
■
駅から7分。そして家賃は3万円。
不動産屋さんには小声で釘を刺された。
「ものすごく安くなってます……くれぐれも他の住人の皆さんには家賃のこと、内緒にしておいてくださいね」
ほかの住人の人は、少なくともあと5千円プラス以上は取られているらしい。
前に暮らしていたワンルームは新しくてキレイだったけど、家賃が5万円。
築三十年の木造2階建てでも、やはり月々マイナス2万円は大きい。
ちょっと大学からは遠くなったけど……まあ仕方ない。
裏野ハイツに越してきて、ほんとうによかった。
……と、昨日までは思っていた。
しかしなんだったんだろう……昨日の朝のあの騒ぎは。
朝から突然、わたしの部屋のドアを外からメチャクチャに叩く音がして……
ドアを開けたら、ぜんぜん知らない女が立っていた。
女はとても取り乱していて、その充血した目にちょっとゾッとした。
たぶん、年齢はわたしと同じくらいだと思う。
『ゆ……裕子?』
なんであの女は、わたしの名前を知っていたのだろう。
しかも下の名前を。
女の後ろには、彼女の旦那さん……にしてはちょっと歳を食い過ぎているおじさんが立っていたが、とても申し訳なさそうにしていた。
『ほんとうに申し訳ありません……うちの家内が、とんだご迷惑を……』
彼はほんとうに当惑して、困り果ててているようだった。
でも、女は言った。
『裕子……聞いて。ここから出なきゃだめ……お願いだから、あたしを信じて…………』
……まだ引っ越してきて、3ヶ月も経っていないのに、こんなことがあると……さすがに引く。
ちょっと、怖かったし。
なんだか知らないけど、あの女性は精神が不安定なのだろう。
確か、101号室に住んでいるとか……201号室のおばあさんが、そう言っていた。
わたしと同じくらいの歳で、あんなおじさんと結婚して……
まあ、いろいろとストレスが溜まっていたのかもしれない。
わたしだったら、あんなおじさんと結婚するなんて死んでもイヤだけど。
その日、バイトから帰ると……
アパートの前に三歳くらいの男の子が座り込み、チョークで地面に何か書いていた。
男の子は緑色のTシャツにベージュのハーフパンツ姿。
いつもよく見かける男の子だ……確か、103号室の子だったかな。
「こんにちは~……」
あたしは男の子に声を掛けた。男の子が顔を上げる。
無表情。
「今日もあっついねえ~…… 何描いてるの?」
「…………」
男の子はくすりとも笑わない。人見知りが激しいのだろう。
そういえばあたしは、この子と言葉を交わしたことがない。
何なんだろう。
男の子は上下に3つずつ連なった合計6つの箱を描いている。
そのなかに……赤、白、青、黄色で描かれたたくさんの人影が描かれていた。
「絵、上手いね……これなに?」
あたしを無表情に見上げたまま、男の子がこくりと頷く。
「タカユキ!」
急に、背後から声を掛けられて、あたしは飛び上がった。
振り返る……と、そこに立っていたのは……
あの女だった。
「こんにちは…… 暑いですね」
見間違えるはずがない……昨日の朝、わたしのドアを叩いた女だ。
正気を失って、わけのわからないことを言って、目を血走らせていたあの女だ。
昨日とは見違えるような出で立ち。
髪を後ろにまとめて、薄いブルーのワンピースを着ている。
(えっと……ちょっと待って。彼女が、この子のお母さんだったの?)
「ほんとにこの子ったら、絵を描きだしたら止まらないんです。お姉さんに遊んでもらってたの? ……さ、お部屋に入りましょう。お姉さんにバイバイは?」
男の子を抱え上げる女。
……その子……タカユキくんは、じっとわたしの顔を見ている。
女はにっこり笑ってわたしに会釈すると、タカユキくんを抱いて103号室に入っていった。
確かあの女……101号室に住んでる、っておばあさんが言ってたような気がするけど?
おばあさんの記憶違いか、わたしの聞き間違えか……
それともこの暑さのせいで、頭がぼうっとしているのか……。
まあいいや。
わたしは階段を登って、おばあさんが一人で暮らしている201号室、そして、202号室の前を通りすぎた。
バッグから自分の部屋の鍵を探しているときに、ふと昨夜、妙な夢を見たことを思い出した。
(…………ほら、もっと飲んで!)
(もう肉、食べられるよ。ほら、もっと食べなよ)
(もっとちゃんと焼かなきゃ!)
(肉が新鮮だから大丈夫ですよ!)
(ママ! ママ!)
(野菜も食べなきゃ……あ、そっちタレまだある?)
たぶん夢だと思う。
その声は、隣の202号室から聞こえてくる気がした。
でも……202号室はずっと空き家のはずだ。
そして、ただよってきたのは、むっとするくらいの焼き肉の匂い……。
匂いまでリアルだなんて、妙な夢だ。
わたしは気にせず、そのまま寝なおしてしまった。
空き家から、そんな団欒の声が聞こえてくるはずはない。
それに、夜中の3時に焼き肉で団欒をやる人がいるだろうか?
それを、おかしいと思うわたしのほうが、おかしいのだろうか?
ひょっとするとわたしは、とても心が狭いのかもしれない。【了】
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