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【歴史学の歴史5】中世のビザンツ史学

こんにちは、ニコライです。今回は【歴史学の歴史】第5回目です。

前回の記事はこちらから。

前回の記事では、キリスト教的歴史観が古代末期から中世のヨーロッパにおいて、大きな影響力を持つようになったことを説明しました。しかし、これによって、古代ギリシャ以来の歴史学が途絶えてしまったわけではありません。確かに中世西欧ではギリシャ古典が顧みられることは少なくなりますが、東地中海に位置するビザンツ帝国においては、ヘロドトスやトゥキュディデスが継承されていきました。今回は、ビザンツ帝国における歴史学について見ていきたいと思います。

ビザンツ帝国については、以前に連載を書いていますので、興味のある方は☟の記事をご覧ください。


1.歴史学の伝統の継承

ビザンツ知識人の間では古代ギリシャ語が支配的であり、ビザンツ帝国の教育体系ではギリシャ古典が教えられました。学校では、イソップ物語がはじまり、ホメロスの叙事詩、デモステネスやリバニオスの演説が読まれ、そして、上級クラスではプラトンやアリストテレスのテキストを学ばれました。ギリシャ古典に精通していることは、ビザンツ知識人にとって当たり前の教養だったのです。

こうした中で、ホメロスやアリストテレスと並び、古代ギリシャの歴史書も継承されていきました。ビザンツ帝国の歴史書では、必ずと言っていいほどヘロドトスやトゥキュディデスへの言及・引用があり、特にトゥキュディデスはビザンツ歴史家の模範とされました。

コンスタンティノス7世(905頃-959)
文人として名高いマケドニア朝期の皇帝。当時帝国に存在していた歴史書をデータベース化した「コンスタンティノス抜粋」を作成している。その中には、当然ヘロドトスやトゥキュディデスの名も見える。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=387203

ヘロドトスやトゥキュディデスが読まれていたということは、当然その特徴も受け継がれています。第2回で述べましたが、古代ギリシャの歴史学の特徴は、同時代の政治・軍事史であること、その出来事を体験した人々の証言をベースにしているということです。

この点に関していえば、例えば6世紀の歴史家プロコピオス『戦史』は、自身が書記官・補佐役として随行したユスティニアヌス帝時代の征服活動を記録したのもであり、11世紀のプセルロスの記した『年代記』は、10世紀後半から自身が仕えた時期も含めた14名の皇帝の治世を扱ったものとなっています。ビザンツ時代の歴史学も、古代ギリシャと同じく同時代史だったのです。

ユスティニアヌス1世(482‐565)
古代末期のビザンツ皇帝。農民出身だったが、親衛隊長から皇帝へと大出世を遂げる。長期にわたる征服戦争によってイタリア半島や、アフリカ・イベリア半島の地中海沿岸を奪還した。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6435925

2.原因追求の欠如

しかし、当然のことながら、古代ギリシャとビザンツ時代の歴史学には、相違点も存在します。そのひとつがキリスト教の影響です。神話的要素を排し、合理的に世界を捉えようとした古代ギリシャ人に対し、キリスト教を信仰するビザンツ人は、キリスト教的原理に基づき、歴史を説明しようとしました。

ユスティニアヌス(左)とコンスタンティヌス1世(右)
ハギアソフィアのモザイク画。コンスタンティヌスはコンスタンティノープルを、ユスティニアヌスはハギア・ソフィアを、それぞれ聖母子に差し出している。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23819757

特にその影響がみられるのが、原因追求に関する態度です。ヘロドトスやトゥキュディデスは著書の序文において、ペルシャ戦争やペロポネソス戦争といった事件がなぜ起きたのかという原因を追究するというのが、執筆の目的であると宣言しています。これに対し、ビザンツ時代の歴史家は、原因追求について言及することはありませんでした。世界は神によって創造されたと信じるビザンツ人にとって、この世で起こるすべての現象は、神の定めた摂理に他ならなかったからです。

例えば、先ほど上げたプロコピオスは、『戦史』の序文において、皇帝による偉大な業績が忘れられないように記録するとしていますが、原因追求については全く言及していません。そして、ユスティニアヌス帝によるハギア・ソフィア聖堂の再建について記した『建築について』の中では、その内部のモザイク画や装飾のすばらしさを紹介した後に、次のように述べています。

そして祈りを捧げるためにこの聖堂に入ったものは誰でも、この作品をこれ ほどまでにすばらしく仕上げたのは、人間の力や技ではなく、神の及ぼした力であると、すぐさま理解するのである。

プロコピオス『建築について』
ハギア・ソフィア
360年、コンスタンティノープル総主教座として建造。火事によって2回焼け落ち、現在の姿は3代目。オスマン帝国による征服以降はモスクとなり、1935年には世俗化され博物館となったが、2020年に再びモスクとなった。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24932378

3.専制君主と皇帝賛美

ビザンツの歴史家たちが原因追求を避けたもう一つの理由は、それが皇帝批判につながるからでもありました。ビザンツ皇帝は、地上における神の代理人、自分以外には何物にも縛られない専制君主であり、その皇帝を批判するというのは、絶対にあってはならないことでした。このため、ビザンツ歴史家の著作は、皇帝賛美を基本としています。

先ほども取り上げたプロコピオスの『建築について』を見てみましょう。彼はこの中で、ハギア・ソフィアを再建したユスティニアヌス帝の気前の良さ、発想、情熱を惜しみなく称賛しています。また、ハギア・ソフィアの特徴であるドーム構造の屋根の建築についても、屋根を支える柱が耐え切れないのではないかと心配する技術者たちに、設計通りのドームを完成させるように帝が命じ、見事に完成させたという作り話としか思えないエピソードを紹介し、皇帝の手腕を称えています

内部から見たハギア・ソフィアのドーム屋根
長方形のバシリカ様式が主流だった当時、アーチ型の壁面に33mの大ドームを乗せたハギア・ソフィアの建築様式は、かなり斬新なものだった。
FAL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=116079839

ところで、そもそもハギア・ソフィアが再建されることになったのは、長期化する征服戦争と重税に反発した市民が起こした反乱の中で、元の聖堂が焼け落ちたためでした。つまり、もとをたどれば、ユスティニアヌスの政治に問題があったわけですが、プロコピオスはそうしたことには一切言及せず、聖堂に火をつけた市民を不信心者と非難して責任転嫁を図り、聖堂は素晴らしい建物に建て替わったのだから、結果的によかったのだとして、皇帝の責任問題にならないような記述しています。

コンスタンティノープル競馬場跡地
現スルタンアフメト広場。532年、コンスタンティノープル競馬場で起きた暴力事件から市民暴動が勃発した。これを「ニカの乱」といい、ユスティニアヌスは軍隊を投入し、数万人の市民を虐殺してこれを鎮圧した。
CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=66987701

4.皇帝批判の限界

しかし、ビザンツ歴史家が皇帝賛美一辺倒だったわけではありません。彼らは皇帝批判も自らの使命であるという意識を持っていました。

再びプロコピオスをとりあげます。彼は『戦史』、『建築について』の他に『秘史』という、公表するつもりなく書いた秘密のノートを残しています。その中では、他の二作における皇帝賛美とは打って変わって、ユスティニアヌスや皇妃テオドラ、さらに帝の部下であるベリサリウスに対する批判・悪口が書き連ねられています。その変わり身っぷりから、『秘史』はプロコピオスではない別人による著作とする説もあったほどです。

テオドラ(500頃-548)
ユスティニアヌスの皇后。プロコピオスによれば、彼女はもともと裸で踊りを披露する踊り子で、さらに彼も書けないような怪しげな「商売」をしていたとのこと。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=155436

また、プセルロスは『年代記』の中で、過去の皇帝たちを大っぴらに批判しています。例えば、皇帝コンスタンティノス9世については、その乱脈な支出増大を厳しく批判したり、主が奇跡を起こして皇后ゾエの墓に花を咲かせたという話を触れ回っていた話をとりあげ、その真相は単に湿気でキノコが生えただけであり、誰もがそれを知っていながら皇帝に忖度して賛同していたという話を暴露しています。

コンスタンティノス9世(左)と皇后ゾエ(右)
ゾエはコンスタンティノス8世の皇女。帝は男子を残さなかったため、皇后となったゾエが男性貴族と結婚することで王朝継続が図られた。コンスタンティノス9世は3人目の夫である。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23756474

そんなプセルロスですが、コンスタンティノス本人が存命中には、その支出増大を「皇帝の泉から黄金の川が人々のもとに流れこむ」と称賛し、ゾエの墓の奇跡は、帝の徳によって起きたと称えており、また、『年代記』の中でも、現皇帝を扱った章は皇帝賛美に終始しています。

このように、ビザンツ歴史家による皇帝批判は、公表しない文書として書くか、あるいは過去の皇帝について書くかという限定的なものでした。

5.異端の歴史家アンナ・コムネナ

ビザンツ時代の歴史学を扱う上で、外すことができないのが、アンナ・コムネナです。アンナは皇帝アレクシオス1世の長女で、帝が亡くなった後、夫ニケフォロス・ブリュエンニオスが帝の一代記を書いていましたが、彼も作品を完成させずに亡くなってしまったため、彼女がその事業を引き継ぎ、歴史書を執筆することになりました。彼女の作品は、ホメロスの『イリアス』(イリオンの物語)になぞられ、『アレクシアス』と命名されます。

アレクシオス1世(1057頃-1118)
名門コムネノス家出身。トルコ人やノルマン人の侵入によって帝国が混乱に陥る中、優れた将軍として頭角を現し、1081年に反乱を起こして皇帝に即位。ビザンツ帝国を建て直し、以降、約100年続くコムネノス朝の開祖となる。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=198070

アンナの人生については下記の記事で取り上げていますので、詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。

しかし、『アレクシアス』は、「歴史書らしからぬ歴史書」とも呼ばれています。まず、アンナは歴史学を学んだことがないと思われます。先に述べたように、ビザンツ歴史家は古代の歴史家に必ず言及・引用しているわけですが、『アレクシアス』の中では、ホメロスやアリストテレス、サッフォーなどの名前は次々とあげられているのに、ヘロドトスやトゥキュディデスへの言及・引用はありません。古代以来、歴史学は政治・軍人に携わる男性の学問であり、女性であるアンナには縁遠い世界だったのでしょう。

また、『アレクシアス』の中には、アレクシオス皇帝のことだけではなく、アンナ個人の生涯や彼女の想いなども記されています。自身の著作に、著者個人のことまで記す歴史書は今も昔も存在しないでしょう。アンナは「嘆きこそが本書の主題である」と序文で述べており、本書を通して、帝位への野望を持ちながら、皇帝になることができなかった自らの想いを伝え残したかったのです。

皇帝ヨハネス2世(左)と皇后エイレネ(右)
ヨハネスはアレクシオスの長男で、アンナの弟。1118年、父の死に伴い皇帝に即位するが、姉アンナと対立し、翌1119年にはアンナによる暗殺未遂事件が起きる。その後和解が成立するが、『アレクシアス』の中では、アンナは彼のことを良く書いてはいない。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23707749

しかし、だからといって、アンナの著作が歴史学から大幅に逸脱していたり、内容が不十分なわけではありません。『アレクシアス』執筆にあたり、アンナは夫ニケフォロスの著作を参考にしていますが、その記述を丸写ししているわけではなく、矛盾点などを見つければ史料を確認し、疑問点を検討するという作業を行っています。『アレクシアス』は、現代歴史学にも通じる方法論をとっており、間違いなく「歴史学の書」だといえます。

6.まとめ

古代ギリシャの歴史学は、ビザンツ帝国において1000年間継承されていきました。しかし、対象や方法論は共通しているとはいえ、その歴史観はキリスト教と専制君主という存在によって過去のそれとは大きく異なったものとなっていました。特に、表向きは皇帝を称賛しつつ、その裏では同じ口で皇帝を批判するという二重人格性は、歴史学のみならずビザンツ人全体の特徴と言えるでしょう。

しかし、それが必ずしも歴史書の価値を落とすことにつながっているわけではありません。古代から歴史学の方法論を継承したビザンツ時代の歴史書は、著者たちの目的の通り、当時を知るための第一級の史料となっています。そして、ビザンツ帝国が継承したからこそ、そこからさらに近世西欧へとヘロドトスやトゥキディデスが継承されていくことになるのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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