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【歴史学の歴史2】古代ギリシャと歴史学の誕生
こんにちは、ニコライです。今回は【歴史学の歴史】第2回目です。
前回の記事はこちらから
前回紹介した通り、「歴史を記録する」という行為は、人類で最初に文明が興った古代オリエントにおいて始まりました。しかし、それらは行財政管理上の必要性から、あるいは王が自らの功業を記録・誇示するために行われていたものであり、「史実を探求する」という意味での歴史学ではありませんでした。では、その歴史学はいつ誕生したのか?それは、様々な学問的探求が活発に行われていた古代ギリシャにおいてでした。
今回は、古代ギリシャにおける歴史学の誕生を、ヘロドトス、トゥキュディデス、ポリュビオスという3人の歴史家に焦点を当てて、見ていきたいと思います。
1.神話的世界観から合理主義へ
古代ギリシャにおける歴史叙述は、叙事詩という形からスタートしました。トロイア戦争を扱ったホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』、ギリシャ神話の神々の系譜を描いたヘシオドスの『神統記』がこれに当たります。しかし、これらは史実の記録ではなく、あくまでも神話的世界観に基づく物語でした。
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『イリアス』は、神々の同士の争いやアキレスをはじめとする英雄たちの事績を描いている。
CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=92989258
ギリシャ人が神話的要素を排し、合理主義的に世界を捉えようとする活動を始めたのは、前6世紀ごろのイオニア地方においてでした。イオニアはアナトリア半島のエーゲ海沿岸地域のことで、前10世紀からギリシャ人の定住がはじまり、ミレトスを中心にいくつもの植民市が建設されていました。これらのポリスは、エジプトやリビアなどとの交易で栄え、その富による余力を背景に知的活動を活発化させていったのです。
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イオニア地方は小アジアの南西岸。古代ギリシャ人は、ドーリス人、アカイア人、イオニア人などの下部集団に分けられるが、イオニア地方にはアテナイなどと同じイオニア人が入植していた。
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彼らは「イオニアの自然哲学者たち」、あるいは「ミレトス学派」と呼ばれ、人間を取り巻く自然全体を体系的・合理的に説明できる普遍原理を探求しました。代表的人物として、万物の根源について、それは「水」であると唱えたタレス、「無限なもの」と唱えたアナクシマンドロス、「空気」と唱えたアナクシメネスがあげられます。
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古代ギリシャの最古の哲学者。自らは著作を残さなかったが、その思想は弟子たちや後世の人々によって伝えられている。
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ミレトス学派の中で地理歴史分野で功績をあげたのが、ヘカタイオスです。ヘカタイオスは、『系譜』という著作の中で、神話と歴史的事実を明確に区別した歴史叙述を行ったため、歴史学の先駆者とも呼ばれます。しかし、その著作は散逸してしまい、わずかな断片が残っているに過ぎません。
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ヘカタイオスは、ギリシャ人で初めて世界地図を書いた。彼の地図では、世界はアジア(アフリカはアジアの一部と見なされた)とヨーロッパの二大陸に分けられ、その周りをオーケアノス(大海)が巡っているとされている。
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2.歴史の父・ヘロドトス
こうしたイオニアの知的雰囲気を背景に生まれたのが、イオニア地方の南部ハリカルナッソス出身のヘロドトスです。ヘロドトスは、彼が生きた時代に起きた一大事件であるペルシャ戦争を記録として残すために、著作『歴史』を執筆します。その序文では、次のように述べられています。
これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探究であって、人間の諸々の功業が時とともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、とくに彼らがいかなる原因から戦い合うことになったのかが、やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。
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小アジア南西のハリカルナッソス生まれ。名門出身だったが、僭主に反対する政争に加わったことが原因で祖国を離れることとなり、生涯亡命生活を送る。この長い亡命生活の中で見聞きしたことをもとに、『歴史』を執筆する。
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ヘロドトスは、リュディア王クロイソスによる小アジア沿岸のポリス征服からはじめ、その後ペルシャ大王カンビュセスによるエジプト遠征、次代ダレイオス1世による二回のギリシャ遠征、そして、その子クセルクセス1世によるギリシャへの大遠征へと話を進め、前479年のアテナイ軍によるセストス陥落までで具体的な叙述を終えています。ここでは神話の時代は省かれており、あくまでも「人間の時代」を考察対象にしていることがわかります。
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アケネメス朝ペルシャによる対ギリシャ遠征は前499年のイオニア反乱をきっかけとし、前490年から前449年のカリアスの和約まで続いた。
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ヘロドトスはペルシャ戦争の背景や経過を説明するうえで、ギリシャ各地や、ペルシャ、エジプトなどを見て回り、そのときに自分が見たこと、現地の人から聞いたことも記録しています。『歴史』は単なる歴史書ではなく、伝承集や民族誌という性格も持ち合わせているのです。
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ヘロドトスは半年以上エジプトに滞在し、ナイル川をさかのぼってその源流を突き止めようとしたり、メンフィスの神官からエジプト史の聞き取り調査をしている。ちなみに、ギザの大ピラミッドも訪れているが、なぜかスフィンクスについては何も言及していない。
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また、ここに出てくるギリシャ語の「ヒストリエー」は、ご想像の通り、「歴史」を意味する英語の「ヒストリー」の語源になった言葉ですが、もともとは「調査・探求」という意味でした。ヘロドトスは全く意識していなかったでしょうが、彼が著作の中で使用したことで、「歴史」を意味する言葉になっていったのです。
3.科学的歴史の祖・トゥキュディデス
共和制ローマ時代の文人キケロは、ヘロドトスを「歴史の父」と称えると同時に、こうも述べています。
とはいえ、歴史の父であるヘーロドトスやテオポンポスには無数の作り話があるが。
実際にヘロドトスの『歴史』には、例えば、ある人が指輪を海に捨てたところ、釣り上げた魚の腹の中からその指輪が出てきたといった、およそ現実ではありえない、荒唐無稽なエピソードが数多く収録されています。これはヘロドトスが「各人によって語られたことを聞いたままに記す」という方針を採用していたからなのですが、こうした荒唐無稽なエピソードの存在によって、ヘロドトスは当時から強く批判されてきました。
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『歴史』の中では、リュディア王クロイソスのもとにアテナイの賢人ソロンが来訪するエピソードが紹介されている。しかし、クロイソスの在位期間中、ソロンは相当な高齢だったと考えられるため、このエピソードも信ぴょう性が疑わしい。
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これに対し、伝承をそのまま受け入れるのではなく、批判的精神でもって吟味し、真実を探求することを重視したのが、ヘロドトスの一世代後輩にあたるトゥキュディデスです。トゥキュディデスはペロポネソス戦争を主題にした著書『戦史』の中で、次のように述べています。
私は、戦争において起こったことについて、偶々そこに居合わせた人から仕入れた情報を事実として記述することを良しとせず、また自分の主観的判断でこれを記述することもせず、自分が目撃者であった場合も、他の人たちから情報を得た場合も、事柄の一つ一つについてできるだけ正確に検討を加えて記述することを重視した。
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名門出身のアテナイ市民。青年時代には、ヘロドトスとも面識があったのではないかと言われる。ペロポネソス戦争中に自らが指揮した遠征の失敗が原因で追放処分を受けて、20年にわたる亡命生活を余儀なくされる。その間、さかんな情報収集を行い『戦史』を執筆する。
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このように、トゥキュディデスは史料選択に極めて厳密な姿勢を示しており、それだけでなく、自分が行ったことのないギリシャ以外の世界や、神話・伝承についても言及を避けています。このストイックに真実を追求する姿勢から、トゥキュディデスは「科学的歴史の祖」とも呼ばれ、19世紀に近代歴史学を確立したレオポルト・ランケからも高く評価されています。
4.歴史学の誕生
ここで注意しておかなければならないことは、ヘロドトスにしろ、トゥキュディデスにしろ、彼らは歴史家というアイデンティティは持っていたわけではない、ということです。ホメロスの叙事詩がトロイア戦争を主題にしたものだったように、戦争という大事件を記録するというのは、ギリシャ文学の伝統に即した行為であり、二人とも新しい分野を確立しようとしたわけではなかったのです。
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古代ギリシャの二大古典『イリアス』と『オデュッセイア』の著者とされる盲目の詩人。彼の叙事詩はイオニア方言で書かれており、イオニア地方に位置するキオス島あるいはその対岸のスミルナが出生地と推定されている。
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しかし、二人の活動が、「歴史」というジャンルが創設される第一歩となったのは間違いありません。未完に終わったトゥキュディデスの『戦史』を書き継いだクセノフォン、テオポンポスら3人の後継者たちのように、前5世紀末から前4世紀にかけて、後に「歴史家」と呼ばれる作家が多数登場するようになるからです。
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アテナイの叙述家。前411年時点で絶筆となった『戦史』を引き継ぎ、前362年のマンティネイアの戦いまでを叙述した『ヘレニカ』を著している。なお、歴史家とのしてのクセノフォンは、「テオポンポスよりもはるかに凡庸」と言われる。
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また、前4世紀に登場した哲学者アリストテレスは、次のように述べています。
歴史家はすでに生起した事実を語るのに対し、詩人は生起する可能性のある事象を語る、という点にある。このゆえに、歴史に較べると詩の方が、より一層哲学的つまり学問的でもあるし、また、品格もより一層高い次第である……詩が語るのは寧ろ普遍的な事柄であるのに対し、歴史が語るのは個別的な事件だからである。
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古代ギリシャ最大の哲学者。『形而上学』、『自然学』、『政治学』などの膨大な著作を残し、西洋の学問に多大な影響を与えた。なお、歴史に関しては、詩よりも一段劣ったものという地位しか与えなかった。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1359807
この一文は、詩が歴史よりも優れていることを語っているものですが、ここでは「歴史」、「歴史家」という言葉が使われ、詩人と明確に区別されています。つまり、文学の下位カテゴリーではあるものの、前4世紀半ばには「歴史」というジャンルが成立していたのではないかといえます。
5.世界史の父・ポリュビオス
最後に、ヘロドトスとトゥキュディデス以降の古代の歴史家たちの中で、傑出した評価を受けているポリュビオスを取り上げます。メガロポリス出身で、アカイア同盟を指導者であったポリュビオスは、前168年に、第三次マケドニア戦争でローマが勝利すると、1000人のギリシャ人とともに人質としてローマに連行されます。
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ローマ連行後もその教養と文才から厚遇され、スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)のもとに迎えられた。第三次ポエニ戦争ではローマ軍の軍事専門家として重んじられ、さらにアフリカ探検なども行っている。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31664858
ローマの繁栄を目の当たりにしたポリュビオスは、「なぜローマが地中海世界を単独支配するようになったのか」を明らかにするため、主著『歴史』を著します。ポリュビオスは、歴史を政治家や軍事指導者に直接役立つ指針を示す実用的な教訓と考えており、そのために歴史家は正確な事実を追求しなければならないと主張します。こうした精神は、トゥキュディデスのそれをさらに先鋭化させたものといえます。
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古代ギリシャ人の伝統的な国家観では、政治制度は君主政→暴君政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政という6つが循環すると考えられていた。ポリュビオスによれば、ローマは君主政・貴族政・民主政の良い面を兼ね備えた「混合政体」であり、それこそがローマの強みであったと主張する。
さらに、ポリュビオスの『歴史』の特徴が、史上初めて「世界史」を記述したという点です。これまでの古代の歴史家は、ある特定の事件や特定の民族を対象に歴史を記述した一方で、ポリュビオスは、ローマの支配によって「有機体的な統一体」となった地中海世界の歴史を描いています。このため、ポリュビオスは「世界史の父」とも称されています。
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ローマは前272年にイタリア半島を統一、前260年代から三度にわたるポエニ戦争によってカルタゴを滅亡させ、同時にカルタゴの同盟国であったマケドニアを降し、前146年にはギリシャを属州とする。これ以降もローマは拡大を続け、前1世紀には地中海全域を支配するようになる。
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6.まとめ
このように古代ギリシャで誕生した歴史学ですが、現代の歴史学と比較すると、意外と異なっている点が多いです。現代歴史学は文字で書かれた資料(史料)に基づき、何十・何百・何千年も昔まで、政治史・文化史・経済史・ジェンダー史など、幅広いテーマを扱います。
ところが、古代の歴史学が取り上げているのは、彼らが生きた時代に起きた政治的・軍事的事件であり、その方法もその出来事を体験した人々の証言をベースにしています。この違いは、古代の歴史学が政治家や軍人が過去に起きた出来事を学び、今の政治的・軍事的課題解決に役立てるため、という性格が強かったことに由来すると考えられます。
裏を返すと、これらの特徴は、証言者のいない古い過去については扱えない、政治・軍事に役立たないことは扱わない、政治・軍事に参加しない女性については扱わない、などの限界があったことを意味しています。
しかし、彼らが主題とした出来事がなぜ起きたのかという因果関係を厳密な資料の検討を通じて追及した点は、現代歴史学に通じています。古代ギリシャ人によって生み出された歴史学は、その後の歴史学の発展に多大な影響を与えていくことになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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