【ビザンツ帝国の歴史1】帝都コンスタンティノープルの誕生
こんにちは、ニコライです。今回から新連載【ビザンツ帝国の歴史】がスタートします。ビザンツ帝国とは、ローマ帝国の中世のおける姿であり、4世紀ごろから1453年に滅亡するまでの間、アジアとヨーロッパの境界に君臨し続けました。ローマ帝国はいかにしてビザンツ帝国へと変貌したのか。そして、いかにして文明の十字路ともいうべき交流の活発な地域で1000年間も存続し続けることができたのか。今回の連載は、このビザンツ帝国の驚異の1000年史をまとめていきます。
1.はじめに
コンスタンティノープルとは、アジアとヨーロッパを分けるボスポラス海峡のヨーロッパ岸の南端に位置しており、現在はトルコ共和国第2の都市イスタンブールとなっています※。ローマ帝国の首都は、どのようにしてイタリア半島から東方へと移ったのでしょうか。第1回目の今回は、ビザンツ帝国の千年帝都コンスタンティノープルの誕生について見ていきます。
※ただし、ギリシャでは現在でもイスタンブールのことをコンスタンティノープルと呼びます。
2.「3世紀の危機」から四帝統治へ
イタリア半島の中部、ティベリス(テヴェレ)川河畔の小さな都市から出発したローマは、前三世紀にイタリア半島を統一して以降、対外進出を展開し、前30年頃には全地中海地域を支配する巨大な国家を形成しました。そして、前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス(尊厳者)」の尊称を与えられて以降、共和政から帝政へと移行しました。帝政開始から五賢帝時代の終わりまでの約200年間は、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれ、ローマ帝国が最も栄えた時代であり、イギリスの歴史家エドワード・ギボンは「人類が最も幸福だった時代」と表現しています。
しかし、230年以降、帝国辺境に駐屯している軍隊が、その司令官を皇帝に推戴して相争うようになります。こうした軍人皇帝たちはごく短い期間統治してはすぐに暗殺されるか、内戦で戦死したため、半世紀の間に50名以上の皇帝が乱立することとなり、帝国の政治に大きな混乱をもたらしました。さらに、北方ではゲルマン人による軍事的圧迫が強まり、東方ではササン朝ペルシャが台頭するなど、外部からの侵略・略奪が盛んになりました。
この「3世紀の危機」を収束させたのが、284年に帝位に就いたディオクレティアヌスです。ディオクレティアヌスは前任皇帝を打ち破って帝国全体の覇権を握ると、帝国の東方と西方を統治する2人の正帝を、さらにその下に2人の副帝を据えた4人の皇帝による共同統治体制(テトラルキア)を開始しました。これにより、帝国は4方面での軍事作戦を展開することが可能となり、諸反乱の鎮圧は順調に進み、298年にはササン朝ペルシャに対する大勝利を収めることに成功します。
3.コンスタンティヌス大帝の登場
305年、ディオクレティアヌスが体調不良を理由に西の正帝マクシミアヌスとともに退位すると、帝国は再び混乱の時代を迎えました。西の正帝コンスタンティウスが1年後に病死すると、その息子コンスタンティヌスが軍隊によって皇帝に担ぎ出され、西の副帝に即位しました。
その後、今度はマクシミアヌスの息子マクセンティウスがローマで皇帝に擁立され、さらに退位したマクシミアヌス自身が復位を求めて活動を再開しました。マクシミアヌスが、310年にコンスタンティヌスに攻め込まれて自害すると、コンスタンティヌスとマクセンティウスとの間の緊張が急速に高まりました。312年、コンスタンティヌスは遂にイタリアに攻め込み、ローマの近郊のミルウィウス橋付近でマクセンティウス軍と激突しました。マクセンティウス軍は短時間で敗北し、退却したマクセンティウスはティベリス川に転落し、溺死しました。
マクセンティウスに勝利したコンスタンティヌスは、正式に正帝として承認されます。その後、同じく正帝のリキニウスとキリスト教に対する政策で対立し、戦いとなりました。コンスタンティヌスは324年7月のアドリアノープルの戦いでリキニウスに勝利し、9月にはクリュソポリスの戦いで再び勝利したため、リキニウスは降伏します。こうして、コンスタンティヌスはローマ帝国を統治する唯一の皇帝となりました。
4.新都の建造
リキニウスに勝利したコンスタンティヌスは、東方支配の要となる新たな都市の建造に乗り出します。彼が目を付けたのが、ボスポラス海峡に位置するビュザンティオンでした。ビュザンティオンは前7世紀にギリシャ人によって築かれた都市であり、コンスタンティヌスは三方向を海で囲まれた優れた地理的条件に着目し、324年にこの地に新都建造を開始しました。
コンスタンティヌスは、ビュザンティオンの外側数キロメートルの地面に自ら槍を持って線を引き、そこに新たな城壁を築かせました。3倍上に拡張された市域には、浴場や会堂といった公共施設が整備され、戦車競技場に隣接するように皇帝の宮殿が新設されました。そして、町の象徴的存在となったのが、旧市街はずれの高台に造られた、帝自身の巨大な象がそびえ立つコンスタンティヌス広場でした。330年5月11日、華々しい開都式が開催され、この町には「コンスタンティヌスの町」を意味する「コンスタンティノープル」の名前が下賜されました。
開都されたばかりのコンスタンティノープルは、小アジアの帝室御料地の農場所有者に邸宅に構えさせるなど、強引な方法で新都の居住者を誘致しました。次代コンスタンティウス2世の時代になると、インフラが整備されただけでなく、元老院が整備されたことで、帝国東部の有力層が新都に集まるようになっていきました。
5.移動宮廷の終焉
しかし、4世紀の皇帝たちはほとんどこの新都に滞在しませんでした。例えば、コンスタンティヌスの甥ユリアヌスは即位後半年ほど過ごしただけで、その次代ヨビアヌスにいたっては1度もコンスタンティノープルに足を踏み入れたことがなく、続くウァレンスも数度しか訪れませんでした。なぜ皇帝たちはコンスタンティノープルに居を構えなかったのか。それは、ローマ皇帝とは軍の最高司令官であり、指揮を執るために戦線に自ら赴く必要があったためでした。
皇帝の移動には、身辺護衛兵や機動軍などの兵士だけでなく、裁判、財務、人事、外交など皇帝の仕事を支える官僚団、皇帝の身の回りの世話をする家政部門の役人、各種職人団など、1万人以上の人々が付随していたと考えられています。当時の中小都市の人口が数万人程度であったことから、この移動する宮廷は1つの都市が移動しているようなものでした。
しかし、移動宮廷には様々な問題がありました。まず、宮廷はどこかの都市に受け入れてもらわなければなりませんでしたが、1つの都市に匹敵する人口を抱えることは、受け入れ先にとって物理的・経済的に大きな負荷をかけることでした。また、皇帝と都市が対立関係にあれば、現地の人々に主導権を握られ、皇帝側が圧力をかけられることもありました。
こうした不安定な移動宮廷を放棄し、皇帝がコンスタンティノープルに定住するようになったのは、テオドシウス1世の治世においてでした。テオドシウスは387年から390年までの帝国西部への長期遠征以外は、そのほとんどをコンスタンティノープルで過ごしました。テオドシウス以降の皇帝たちは戦場に出征しなくなり、軍の指揮は派遣した将軍に任せるようになりました。
6.「新しいローマ」の誕生
395年、テオドシウス帝が死去すると、アルカディウスとホノリウスの2人の息子が皇帝に即位し、帝国を東西に分割統治するようになります。国制上はひとつのローマ帝国でしたが、これ以降、東西の皇帝が対立し、ローマ帝国は東西に分裂状態になりました。しかし、西と東、2つのローマ帝国は全く異なる歴史をたどることとなりました。
370年以降、東方の遊牧民フン族がヨーロッパに侵入し、現ポーランドあたりに住んでいたゴート族が西方へと移動を開始しました。いわゆる「ゲルマン民族の大移動」です。ゴート族はドナウ川を越えて帝国の諸都市を襲い、略奪を働くようになり、410年には永遠の都といわれたローマを占領します。
一方、帝国東方では、ローマ陥落を受け、413年にテオドシウス2世によって新しい城壁がコンスタンティノープルに建設され、強固な防衛体制が整えられました。447年に修復・補強されたこの「テオドシウスの大城壁」は、ゴート族やフン族だけでなく、その後1000年もの間、あらゆる敵に対し難攻不落を誇りました。
476年、傭兵部隊長オドアケルによって最後の皇帝が廃位され、ここにおいて西方のローマ帝国は滅亡しました。「西ローマ」の滅亡を受け、5世紀末には皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになりました。そして、6世紀になると、「コンスタンティヌスが330年に帝都が新しいローマを建都した」という神話が生まれ、開都した5月11日に毎年盛大な式典が催されるようになりました。こうしてコンスタンティノープルは名実ともに「新しいローマ」となりました。
7.まとめ
このように、コンスタンティノープルは東方の支配拠点としてコンスタンティヌス帝によって建造され、ローマの陥落・西ローマ帝国の滅亡を経て、「新しいローマ」へと変化していきました。その間、実に200年近い時間がかかりました。コンスタンティノープルは、その滅亡までビザンツ帝国の帝都であり続けたため、この都の出現は、ローマ帝国がビザンツ帝国へと変貌する第一歩であったと言え、それを建造したコンスタンティヌスが初代ビザンツ皇帝と見なされる所以でもあります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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