【人物史】中世の女性歴史家アンナ・コムネナ
こんにちは、ニコライです。今回は久々に【人物史】です!
古代ギリシャで誕生した「歴史学」は、ヨーロッパでは長らく男の学問とされてきました。なぜなら歴史とはすなわち政治や戦争のことであり、それらに実際に携わる男性が自らの体験を踏まえて書くものとされてきたからです。しかし、現代に知られている中世の女性歴史家が一人だけいます。それがビザンツ皇帝アレクシオス1世の娘、アンナ・コムネナです。今回は、アンナの生涯と彼女の作品『アレクシアス』について見ていきたいと思います。
1.緋色生まれの皇女
アンナの父はビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノス、母は10歳年下の皇妃エイレネ・ドゥーカイナです。二人は名門貴族コムネノス家とドゥーカス家の出身でしたが、両家の関係は決して良好ではなく、日本史でいれば源氏と平氏のようなライバル関係にありました。しかし、アレクシオスはコムネノス家が再び帝位に就くために、ドゥーカス家当主の幼い孫娘エイレネと結婚したのです。アレクシオスの期待通り、ドゥーカス家の全面的支援を受けて、彼は帝位簒奪に成功します。
ところが、戴冠したアレクシオスには迷いが生じました。それは自身が廃位した先帝の后マリア・アラニアの存在のためです。先帝の后との結婚は帝位に正統性を与える伝統的な手段であり、アレクシオスはエイレネと離縁し、マリアと結婚することで自身の地位を確固たるものにできるのではないかと考えたのです。さらに、マリアが意に沿わない結婚相手であったニケフォロス3世を裏切り、アレクシオスのクーデターを支援してくれたことに対する恩義もありました。
大のドゥーカス家嫌いである母アンナ・ダラセナはただちにエイレネと離縁するようアレクシオスに迫りますが、当主ヨハネスをはじめドゥーカス家の一族郎党は猛烈に反発しました。1週間考え抜いた末、アレクシオスはドゥーカス家をはじめとする貴族たちと連合することを選び、エイレネの皇后戴冠式を行いました。
そして、アレクシオスが帝位に就いた2年後、1083年12月2日、大宮殿の「緋色の産室」で第一子が生まれました。産気づいた母エイレネは、遠征先からアレクシオスが帰還するまで待つようにお腹の子供に言い聞かせは、赤ん坊はその言いつけを守ったといいます。この子が二人の長女アンナでした。
2.最初の結婚と陰謀事件
アンナは生まれてすぐに婚約することになりました。相手はコンスタンティノス・ドゥーカス、マリア元皇后と先々代の皇帝ミカエル7世の息子です。アレクシオスは、エイレネが正式な后となったことで宮殿を出なければならなくなったマリアに対し、せめてもの償いとして彼女の息子を帝位継承者にしたのでした。コンスタンティノスはアレクシオスの共同皇帝となったため、アンナは将来の皇妃となるはずでした。
ところが、1087年、皇帝夫妻に待望の長男ヨハネスが生まれ、コンスタンティノスに代わって共同皇帝に戴冠しました。これにより、コンスタンティノスが皇帝となる可能性はなくなり、アンナの皇妃への道も閉ざされてしまいます。それでも婚約は解消されず、7歳になったアンナは、花嫁修業としてマリアのもとで暮らすようになりました。
しかし、マリアは息子の帝位を諦められないでいました。そして、アンナとコンスタンティノスの結婚が近づいた1094年、思いがけない出来事が起こります。3代前の皇帝ロマノス4世ディオゲネスの息子ニケフォロスが、皇帝暗殺未遂事件を起こしましたが、この事件には、なんとマリアとコンスタンティノスも関わっていたのでした。
アレクシオスはマリア母子の関与していたについては、見て見ぬふりすることにしました。しかし、この事件の翌年、コンスタンティノスは急死してしまいます。死因はわかっておらず、身体が弱かったため病死という可能性もありますが、陰謀事件のせいで皇帝の意に反して処刑されたとも考えられています。アンナは宮廷に戻ることとなり、マリアはプリンキポス島の修道院へと隠棲しました。
3.2度目の結婚
最初の夫を失ったアンナでしたが、すぐに新しい婚約者を迎えることになります。今度の相手はアドリアノープルを拠点とする名門貴族の子息ニケフォロス・ブリュエンニオスです。
コムネノス家とブリュエンニオス家には確執がありました。かつてブリュエンニオスの祖父が皇帝を僭称して反乱を起こした際、当時青年将軍だったアレクシオスによって討伐されたのです。しかし、20年以上の歳月を経てついに和解し、その条件として皇帝の娘と彼の孫とが結婚することとなりました。
1096年、12歳のアンナと16歳のブリュエンニオスは結婚し、その後生涯を共にすることとなります。皇帝の娘との政略結婚という都合上、アンナとブリュエンニオスは妻上位の夫婦であったようです。それでも夫婦仲は良好だったようで、『アレクシアス』の中で、アンナは彼を「私のカイサル」と呼び、度々愛情を口にしています。また、正確な人数はわかっていませんが、二人は少なくとも4人以上の子供を授かりました。
ブリュエンニオスはその驕ることのない控えめな性格や、気品のある立ち振る舞い、さらに学問に精通して教養深かったことから、コムネノス家の人々からも評判が良かったようです。特に皇后エイレネは、息子ヨハネスを差し置いて、娘婿のブリュエンニオスを夫の跡継ぎにするように言い出すほどでした。
4.帝位への野望
1118年8月15日、皇后エイレネやアンナをはじめとする娘たちの懸命な看護にもかかわらず、病に伏していたアレクシオスは息を引き取りました。アンナは「私の太陽は沈んでしまった」と嘆き悲しみましたが、このとき弟ヨハネスは宮殿へ向かい、即位の手続きをとっていました。彼は実の息子ではなく、義兄ブリュエンニオスを次期皇帝に推していた母エイレネを警戒し、簒奪まがいに宮殿を掌握したのです。こうして新皇帝ヨハネス2世が誕生し、母エイレネは修道院へと引退しました。
しかし、アンナは帝位への野望を捨てておらず、翌1119年の春、ついに行動を起こします。彼女は趣味の狩猟をしに城外へ出かけたヨハネスを暗殺し、夫ブリュエンニオスを皇帝に就けようとしたのです。アンナは城門の衛兵に金をつかませるなど周到に準備しました。しかし、肝心のブリュエンニオスが土壇場で優柔不断を起こしたせいで、暗殺は失敗に終わります。アンナは不甲斐ない夫に激怒し、「神が両性の別を取り違え、夫ブリュエンニオスに女の魂を賦与した」と罵ったといいます。
ヨハネスはアンナを含め陰謀の関係者を逮捕しますが、側近ヨハネス・アクスークに「姉君を赦し、陛下の徳でその魂を浄化してあげてください」と進言され、姉と和解することとなります。この和解の条件として、アンナは財産を保証される代わりに、修道院へと隠棲することとなります。
5.修道院での生活
アンナが身を寄せたのは、創設者である母エイレネ自身が引退していたケカメトリナ女子修道院でした。ただし、修道院といっても皇族女性に対しては集団生活や禁欲・修行などが免除され、「独居房」とは名ばかりの瀟洒な邸宅に住むことが許されていました。アンナはここで、母エイレネ、6歳下の妹エウドキア、さらに自身の娘エイレネとともに残りの後半生を過ごすことになります。
ケカメトリナでは来客さえも許されており、学問好きの母エイレネは多くの文人たちを招き、文芸サロンを主宰していました。サロンには神学者トルニケス、哲学・修辞学教師イタリコス、宮廷弁論家プロドロモス、詩人にして古典学者ツェツェス、アリストテレス学者であるニカイア府主教エウストラティオスなど、多彩な知識人たちが集まっていました。
アンナは宮廷において古典ギリシャ語、聖書やホメロスなどの基礎的な教養を身に着けていましたが、このサロンで、哲学、神学、医学、文学などさらに高度な学問を修めました。このことは、アンナ自身が自慢していますが、ケカメトリナの文人たちも口を揃えてアンナの学識を称賛しています。
6.歴史書の執筆
このサロンには、アンナの夫ブリュエンニオスも出入りしていました。学識が高かったブリュエンニオスは、皇后エイレネから夫アレクシオスの治世を長く後世に伝えるために、一代記を書くように依頼されていたのです。ブリュエンニオスはヨハネス2世のもとで将軍として活動する一方で、寸暇を惜しんで資料を集め、原稿の執筆に取り組み、そして遠征から返ってくると、エイレネや妻アンナのもとを訪れ、書きかけの一説を朗読しました。
しかし、歴史書の完成を待たず、1133年にエイレネは死去します。さらにその3年後、ブリュエンニオスは遠征先で病を悪化させ、重体で帝都へと帰還してそのまま返らぬ人となってしまいました。彼の執筆していた『歴史』は、アレクシオスが皇帝に即位する直前で絶筆となってしまいました。
アンナは葬儀を済ませた後、夫の仕事を引き継ぎ、自分が尊敬する父の歴史を書くことを決意します。彼女は夫の原稿や草稿、宮廷に保管されている公文書、皇帝の活動日誌、父を知っている人々からの聞き取り調査を行い、執原稿を書き続けました。こうして50代に達していたアンナが、残りの人生を捧げて執筆したのが『アレクシアス』です。
7.『アレクシアス』
『アレクシアス』は「歴史書らしからぬ歴史書」といわれています。というのも、通常の歴史学は史実を客観的に記すものとされていますが、『アレクシアス』には、アレクシオス1世のことのみならず、父を称賛するアンナの個人的な想いや彼女の個人的な思い出、さらに彼女自身の人生についても書かれているからです。
アンナは『アレクシアス』の中で自分は不幸だったと繰り返し述べ、「嘆きこそが本書の主題である」としています。つまり、アンナは尊敬する父の治績だけでなく、皇女に生まれながら、帝位に就くことができなかった自分自身についても語りたかったようです。
このことは、アンナがアレクシオス1世だけでなく、祖母ダラセナのことを称賛していることからも伺われます。ダラセナは、アレクシオスがノルマン人との戦いに出陣する際に留守中の全権を委ねられたことがありました。祖母が政治を行ったことを強調することで、女性も政治を行うことができる、自分もそうなることができたはず、といいたかったのでしょう。
『アレクシアス』は単なるアレクシオス1世の伝記ではなく、アンナのことも後世に伝え、そして彼女の生涯にわたる不幸と嘆きを語るために書かれたものだったのです。
8.まとめ
アンナの没年は1148年、あるいは1153~54年頃とする説がありますが、正確な年や日付はわかっていません。彼女は修道院で人知れず息を引き取ったと思われます。もし、没年が1154年だったとすると、享年は70歳となります。
アンナは『アレクシアス』の中で、自分自身に起きた不幸を嘆き悲しんでいます。しかし、もし弟を暗殺して夫を皇帝に即位させ、自分は皇妃となっていたなら、果たしてそれは彼女にとって幸せだったのでしょうか。もしそうなっていたら、アンナが自ら筆を執って最愛の父の伝記を執筆することもなかったのではないでしょうか。
アンナは無念な気持ちでいっぱいだったのかもしれません。しかし、僕には彼女がいうほど不幸ではなかったのではないか、と思います。皆さんはどう思われますか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
関連記事
アンナの父アレクシオス1世については、こちら
アレクシオス1世から始まるコムネノス朝の支配体制については、こちら
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アンナについては、佐藤二葉さんが彼女を主人公とした漫画を描かれています!興味を持っていただけた方はぜひどうぞ!
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