ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史10 大国支配下の合同教会
1.はじめに
1596年のブレスト教会合同により誕生した合同教会は、その後、ポーランド・リトアニア領内で正教会に代わって勢力を拡大しました。しかし、ポーランド・リトアニアは18世紀末に大国によって分割され、合同教会も教区をロシアとオーストリアとに分断されてしまいます。今回は、全く異なる道をたどったロシアとオーストリアにおける合同教会の歴史を見ていきたいと思います。
2.正教会への「再合同」
1772年、ロシア、オーストリア、プロイセンによる第一次ポーランド分割が行われ、ロシアは現在のベラルーシ東部を獲得しました。当時の皇帝エカチェリーナ2世は、元ルター派から正教会への改宗者で、啓蒙主義に親しんでおり、バチカンの権威を重要視していませんでした。彼女は、帝国領内のカトリック組織を宗務院の管轄下に入れるとともに、合同教会の教区組織を正教会に吸収する「再合同」の方針を示しました。
1793年、第二次分割が強行され、ベラルーシ中部と右岸ウクライナを獲得すると、合同教会信徒に対する正教への改宗作戦が始動しました。正教会聖職者と地域の官吏は、合同教会信徒から改宗の声明を集め、聖堂を再聖別して回りました。こうした動きに様々な階層から抵抗にあいましたが、抵抗や拒否は反逆と見なされ、従わない者は逮捕され、流刑に処されました。不本意ながら多くの者がこれに従い、94~96年にかけて160万人以上が改宗したとされています。
1795年、第三次分割によって、リトアニア、ベラルーシ西部、ヴォルイニ地方がロシア領に加わりました。同年9月には、第二次・第三次分割で手に入れた領内の合同教会教区の廃止が布告され、バシリウス会を含む修道院の減縮も命じられました。こうした正教化政策に対する反応には地域差がありました。合同教会の普及が比較的遅かった右岸ウクライナでは、躊躇なく移行するケースが多数派でしたが、普及の早かったヴォルイニ地方やベラルーシでは大きな抵抗にあいました。
3.合同教会の解体
エカチェリーナ2世の息子パーヴェル1世、そして孫のアレクサンドル1世は、宗派問題に関して女帝ほど徹底しておらず、合同教会の存在そのものは容認されました。しかし、アレクサンドル1世の跡を継いだニコライ1世の時代から、合同教会は解体へと向かいます。
1830年11月29日、保守的なニコライ1世に対し、士官候補生を中心とするポーランドの愛国派が起こした11月蜂起は、翌年5月に蜂起軍の主力が敗退したため、9月には収束に向かいました。これを受け、ニコライ1世は旧ポーランド・リトアニアに対する締め付けを強化し、その一環として、1839年のポロツク教会会議において、合同教会の正教会への統合が決議されました。「再合同」を拒否した信徒が摘発されれば、シベリア送りとなりました。
ポロツク教会会議以降、合同教会の教区は徹底的に解体されましたが、唯一残っていたのがポーランド王国領内のヘウム主教管区でした。ポーランド王国は1815年のウィーン会議後に成立した国家で、ロシアと同君連合を組み、その監督下に置かれながらも、広範な自治権を享受していました。
転機が訪れたのは、1863年に勃発した1月蜂起です。革命思想に影響された蜂起は、リトアニアや西ウクライナ全域に広まりましたが、ロシア軍による過酷な弾圧や、蜂起指導者の処刑を受けて、衰退に向かいました。皇帝アレクサンドル2世は、ポーランド語教育の禁止や、ロシア人官僚の登用などの脱ポーランド化・ロシア化政策を実施しました。そして、合同教会信徒の蜂起への大々的な関与はなかったにも関わらず、ヘウム主教管区の正教会への統合を指示しました。統合は1873年に告知され、ヘウム主教管区にあった合同教会の聖堂からは、オルガン、告解室、聖体顕示器が次々と撤去されました。しかし、合同教会が長く根付いたヘウムでは、正教化に対する抵抗が激しく、憲兵のコサック部隊による合同教会信徒の殺戮など、過酷な弾圧が行われました。
ヘウム主教管区の正教会への統合は1875年に完了し、こうしてロシア帝国領内のすべての合同教会教区が解体されました。
4.オーストリア帝国の宗教的寛容
ポーランド分割によって、リヴィウ、プシェミシル、ヘウム(1815年以降はロシア領)の3つの合同教会主教座管区が、オーストリア領となりました。ポーランド分割が行われた当時、オーストリアはマリア・テレジアとヨーゼフ2世という啓蒙主義の時代であり、ロシアと比べると政治的にも宗教的にも寛容でした。
ヨーゼフ2世は、1781年に、非カトリック教会にカトリックと同じ権利を認める「宗教寛容令」を発布し、合同教会も手厚い保護を受けました。帝都ウィーンや、リヴィウ大学には合同教会のセミナリア(司祭や修道士の養成学校)が設立され、聖職者の養成を担いました。さらに、1806年には、皇帝フランツ1世から府主教座設置の許可を得て、1808年にリヴィウを拠点とするハーリチ府主教座が設置されました。
オーストリアの宗教的寛容は、多民族国家を維持するための方策のひとつでもありました。つまり、合同教会信徒の社会的地位を向上させることで、土着の支配階層であるローマ・カトリックのポーランド人の影響力を相対的に低める、という思惑がありました。実際に、1848年、フランスの2月革命に刺激され、ポーランド・シュラフタたちが独立運動を行った時も、合同教会の聖職者たちは帝国への忠誠を貫きました。
5.合同教会とウクライナ・ナショナリズム
社会的地位が向上し、リヴィウ大学などで高等教育を受けられるようになったウクライナ人たちの間では、ナショナリズムが高揚していきました。彼らのナショナリティ形成に大きく影響したのが、ポーランド人との関係です。ウクライナ人たちは、何世紀にもわたるポーランド人とローマ・カトリック教会の優位、合同教会の成立後も現地貴族のカトリック改宗が続けられたことに対し、怨嗟を抱いていました。
こうしたポーランド人・ローマ・カトリックの優位に反発する人々は「ルソフィル」と呼ばれ、その中でも、ロシアに対して親近感を表明する人々は、「モスカロフィル」あるいは「モスクヴォフィル」と称されました。ルソフィルの中からは、合同教会から正教会に改宗する人々も現れ、1881年には、フニリチキ・マリが村ごと改宗しようとした事件も起こりました。さらに、合同教会聖職者の中でも、ラテン典礼の影響を排し、東方典礼を純化しようとする「典礼運動」が起こりました。
一方で、ルソフィル、特にモスカロフィルを恐れるガリツィアの人々は、ロシアによる合同教会迫害に対し、迫害を受けた人々に対する支援運動を展開しました。彼らの中で、ポーランド文化に親和的な人々のことは「ポロノフィル」と呼ばれました。ポーランド人歴史家ヴァレリアン・カンリカは、リヴィウで合同教会信徒の教育啓蒙活動に務め、モスカロフィルを防ぎ、ローマ・カトリックにつなぎとめようとしました。
6.まとめ
ロシアでの合同教会への弾圧は徹底していたため、1905年に「宗教寛容令」が発布され、合同教会が正教会から解放されても、再建運動は起こりませんでした。一方で、オーストリアでは宗教的寛容のもとに生き残り続け、ウクライナ人のナショナリズムのアイコンのひとつとなりました。20世紀に入ると、宗派的帰属と民族的帰属を一致させる時代的要請により、アイデンティティにあいまいな部分を残していたガリツィアの人々も、完全なポーランド人(ローマ・カトリック)とウクライナ人(合同教会)へと二分されるようになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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