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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史9 ロシア帝国の教会支配

1.はじめに

ロシアにおける教会と世俗権力の関係は、時代によって様々に変化していました。あるときは、教会が政治に積極的に介入し、またあるときは、世俗権力によって教会が虐げられることもありました。ロマノフ朝初期においては、ミハイル・ロマノフの父フィラレートは、「大君主」を名乗り息子とともに政治を行い、儀式改革を行ったニコンは総主教の地位はツァーリよりも上であると考え、独裁的に権力を握りました。

しかし、教会はやがて国家へと従属していくこととなりました。それは、ロシアの近代化が開始する、ピョートル大帝の時代から始まりました。

2.ピョートル大帝とロシアの西欧化

1694年、実権を握っていた母ナタリアが亡くなり、ピョートル1世(その業績から大帝とよばれる)の親政が始まりました。当時の西ヨーロッパの発展に衝撃を受けたピョートルは、ロシアの後進性を自覚し、大々的な西欧化政策に着手しました。

ピョートル大帝(1672-1725)

特にピョートルが力を入れたのは軍制改革でした。徴兵制を導入し、ヨーロッパと同様の「常備軍」を組織しました。また、軍事費をまかなうための税制改革も行われました。これにより、1700年から20年以上におよんだスウェーデンとの戦争(大北方戦争)に勝利し、対外的威信を大いに高めました。この勝利の後、ピョートルは「インペラトール(皇帝)」という西欧風の称号を与えられ、ここにおいて「ロシア帝国(インペーリヤ)」が誕生しました。

さらに、1703年からはネヴァ川河口のデルタ地帯に、「ロシアのアムステルダム」として新首都サンクト・ペテルブルクの建造に着手し、1712年には首都機能が移転しました。改革は軍隊・行政にとどまらず、臣民へ洋服の着用や髭剃りの強制、西洋暦の導入、教育を受けない貴族の結婚禁止など、国民生活に関わる範囲にまで及びました

古儀式派の髭を剃ろうとする床屋

3.改革とロシア正教会

しかし、力ずくで実施されたあまりにも急激な西欧化は、臣民の強い反発を招きました。特にピョートルの西欧化政策に反対する保守派の一大拠点となっていたが、ロシア正教会でした。教会からは、ピョートル以前から高官の間での洋服着用や髭剃りの流行に対する批判が上がっていました。さらに、ピョートル時代の総主教アドリアンは、外国人嫌いで、ピョートルの改革について先頭に立って批判をしていました。

総主教アドリアン(1638-1700)

強力な絶対君主を目指していたピョートルにとって、世俗の問題に教会が干渉するのは許されないことでした。1698年、アドリアンが謀反の罪で死罪を宣告された親衛隊に慈悲を垂れるように、ピョートルに直訴を試みた時、彼は「聖職者に軍隊の規律の問題に口出しする権利はない」と罵ったといいます。

さらに、ピョートルが目を付けたのは、教会の持つ財産でした。当時のロシアでは、農民の4人に1人は聖界領に住み、領主である教会や修道院に地代を納めていました。教会の持つ莫大な財産は、ピョートルの改革にとってなくてはならない財源だったのです。

こうして、ピョートルの改革の手は、教会にまで及ぶようになります。

4.総主教制の廃止と宗務院の設立

1700年10月の総主教アドリアンが死去しました。通常であれば、すぐに公会が開かれ、新しい総主教が選出されるのですが、ピョートルは後任者選出を当面の間見合わせることにしました。そして、12月に、リャザン府主教ステファン・ヤボルスキーを「総主教代理」に任命しました。しかし、ヤボルスキーは「聖務」に対する権限のみが与えられ、教会の所領と行政については、翌年に設立された修道院庁が監督することとなりました。こうして、教会の土地財産からの収入は国庫に吸い上げられるようになりました。

1721年には、総主教制そのものが廃止されました。その代わりに、ツァーリ自身が任命する12人の聖職者から構成される聖職参議会が、教会のすべてを管理・統制するようになりました。その後、聖職参議会は、宗務院(シノド)と改名され、俗人の宗務院総長がその監督にあたるようになりました。

サンクト・ペテルブルクにある旧宗務院本部
CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=990028

宗務院制度のモデルとなったのは、ルター派教会における領邦教会制度でした。これは、領邦単位の国家教会であり、ドイツのルター派諸領邦では、領邦君主はその領邦の教会の首長となり、宗務局という教会行政機関を設立し、教会監督権を掌握していました。

こうして、ロシアの「聖なる教会」は、「世俗国家に仕える一機関」となりました。

5.「聖職規則」

こうしたピョートルの教会政策を理論的に支えたのが、ノヴゴロド大主教フェオファン・プロコポヴィチでした。プロコポヴィチはキエフ神学校(ペトロ・モヒラ・コレギウム)の出身で、イエズス会の「学院」でも学んだ経験をもつ神学者でした。その代表的著作『君主の意志の正義』では、「ツァーリ権力の神的起源」についての定式を、同時代のヨーロッパの自然法思想と結びつけ、聖界権力に対する世俗権力の優位を根拠づけました。

フェオファン・プロポコヴィチ(1681-1736)
ピョートルの時代には、プロポコヴィチ以外にもキエフから多くの知識人や聖職者が招かれていた

さらに、聖職参議会の規則として「聖職規則」を執筆し、その中には、教会の統治はツァーリと元老院の議決によることや、聖職者も世俗の役人と同じく、ツァーリに対する宣誓の義務があることなどが規定されました。

「聖職規則」においては、痛悔(懺悔)機密における、司祭の守秘義務が否定されました。司祭たちは、「謀反」の企てを未然に防ぐために、政府が治安破壊にあたると判断する可能性のある告解を聴いた際は、官憲にその情報を提供しなければならなくなりました。彼らは、政治的な情報収集の代理人となったのです。

修道制もまた、改革を免れることはできませんでした。特別な許可なしでは修道院の設立は許可されなくなり、修道士の数にも制限が加えられました。前述のとおり、教会の収入は国庫に入るようになっていたため、旧来の収入源を断たれた修道士たちは、国家から一定の俸給と穀物を受けるようになりました。

6.司祭の教育改革

「聖職規則」の中では、司祭の質向上や異端や迷信の流布に対処するため、「叙任以前の」教育の義務が記載されました。というのも、キリスト教を受容してから700年以上が経過したピョートルの時代にさえ、ロシアには司祭を教育する正規の神学校がなかったからです。

プロコポヴィチによって、正教会の教義についての簡易な入門書を作成され、在俗の司祭たちはこれを定期的に教会で読み聞かせるように指示されました。神学校は、ピョートル末期には46校が設立され、約3000名の生徒が在学していました。

しかし、この司祭の教育には反発も多くありました。まず、キエフ神学校の伝統を引き継いだカリキュラムは不評でした。カリキュラムでは、ラテン語の学習が義務付けられていましたが、なぜ「異端の言葉」であるラテン語を学ばなければならないのかが、一般の聖職者には理解できませんでした。また、子供を労働力と考えていた司祭たちは、自発的にやろうとはしませんでした。

7.まとめ

総主教制の廃止と宗務院の設立により、ロシア正教会は独立と自治権を失い、世俗権力に従属することとなりました。ピョートル大帝の教会に対する態度は、冒涜的なものであるとみなされました。民衆や政府から弾圧されていた古儀式派は、ピョートルのことを「アンチキリスト」とさえ呼びました。

その教会政策は、その後のツァーリたちにも受け継がれました。ピョートルの娘エリザヴェータや、生粋のドイツ人ながら皇帝にまで登り詰めたエカチェリーナ2世も、修道院の閉鎖や財産没収を行いました。こうした国家による教会支配は、1917年にロマノフ朝が崩壊するときまで続きました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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