【短編】『僕が入る墓』(遡及編 六)
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僕が入る墓(遡及編 六)
太助は又三郎の必死な表情に潜む見えない圧力に動じることなく、困惑した顔を隠して言った。
「いっぺん、考えさせてくれんか?」
又三郎はじっと太助の顔を見つめると、視線を他に移した。
「わかった。早めに返事をくれや」
「ああ――」
清乃はちょうど井戸から水を汲み終わって家へと戻ろうとすると、昼間なのに珍しく父の声が中から聞こえた。母は父を問いただすように、そして父は母に言い訳をするかのようにお互いに何かを言い争っていた。その真剣な母の声からはいつもの私を叱る時の熱量は感じられず、どこか焦りが滲み出ているような脆さを感じた。
「でも組合さ作ったら、久保田はん怒るでねえか? そしたらおめえ、土地とりあげられんか?」
「わからへん――。久保田はんは怒るにちげえねえ。けどそれを納得してもらうための組合なんや。それで駄目なら組合はやめだ」
「ほんまにうまくいくん?」
「わからん――」
太助は申し訳なさそうに視線を下に移して顔を顰めた。妻は心配する一方だったが、これ以上質問をしても意味はないと悟ったようで正座のまま片膝を立てずに立ちあがろうとした。すると、婆さんが寝たきりのまま後ろから二人の話に割って入った。
「太助や。あしの話を聞け」
「ああ、おかあ。なんだ?」
「あしゃこの話にどうこう言うつもりはねえだ。ただ一つだけおめえに言っておきてえことがあるだに」
婆さんは口を開くたびに何度も咳き込みながらも強く布団にしがみついた。筵の下に敷いた笹や葦草は、長い間寝たきりであるためもはや潰れてしまって、ないも同然だった。
「何にしたってまずはおめえ、家族のことを考えなあかん。そうすりゃ自ずと答えが出てくるんでねえか?」
「ああ――」
妻も婆さんの言葉に納得した様子で再び座り直した。無言のまま長い時間が経過した。清乃は流石にくたびれてしまい桶をその場に置いて不貞腐れた。沈黙を破ったのは太助の方だった。
「やっぱし、今一度考えてみたんだが、おら組合さ作ろうかと思う。おら本気で今の生活変えてえ。又三郎にも何か案があるにちげえねえだに。おら又三郎に賭けてみよう思おとる」
「――勝手にしい」
妻は深くため息をつくと、男というのは争いごとに懲りないといった呆れた目つきでそう言った。清乃は家の中から出てくる太助とばったり会ってしまい気まずくなった。真剣の顔のまま少しにこやかに太助から告げられた。
「清乃、おとうこれから一仕事すっから待っとれよ」
清乃にはそれが何のことかさっぱりわからなかった。
又三郎はだいぶ張り切った様子で太助の話を聞いていた。
「ありがてえ。ほんまありがてえ」
「おらこそ感謝せにゃ」
「こんな早く返事もらえるたー思わんかったよ」
あんたが早よしろ言うたでねえか」
「そりゃそうやけど。でもどうしてや?」
太助は誇らしげな顔で返した。
「おらあんたに賭けてみとうなったんや。だって昔は偉かったんやろ?」
「まあ、そりゃ地主やってたさかい」
「又三郎はんのとこでも組合さあったんか?」
太助がそう質問すると、突然又三郎は表情を曇らせて黙り込み、限りなく低い声で呟いた。
「あったで――」
すると又三郎は嘘のように明るい顔を太助に見せて続けた。
「それもすんげえ組合やった。からくりはみんなここにあるで」
又三郎はそう言って頭蓋骨に人差し指を軽く二度当てた。
「ほんまか。そりゃ頼もしい限りや」
母が父と畠に行って不在の中、清乃は弟たちの面倒と家事を任されていた。弟たちは走り回っていたかと思うと、次見た時には筵の上でぐうぐう眠っていた。目を覚ますと、二人揃ってお腹が減ったと訴えかけるように清乃のことを睨め付けた。清乃は彼らの可愛げに押し負けて仕方なく、備蓄している野菜や果物を見に行った。
おかあの許可なく弟たちに食べさせることに尻込みしたが、自分も腹が減ってしまったためとうとう蔵に備蓄してあった栗に手を出してしまった。その時、家の外から何か妙な音がしたのを清乃は聞き取った。即座に表に出てみると、又三郎が坂を下っていく後ろ姿が目に入った。清乃は思わず声をかけようとしたが、急ぎ足で去っていく又三郎を見て口をつぐんだ。また小屋に農具を返しにきたのだろう。
清乃はふと、小屋の中を覗いてみようと思った。又三郎はいつもどんな農具を使っているのだろうかと気になった。しかし清乃は、畠仕事には無縁であったのと、そもそも小屋の中の暗闇を恐れて一度も入ったことはなかったのだ。弟に与える飯のことを忘れて、一歩一歩と小屋の入り口を進んでいくと、徐々に中の暗闇に目が慣れていった。
そこら中に、斧や鎌、木槌、鍬などの農具が横に寝かされた状態で丁寧にしまってあった。外からの光が反射し農具の刃の鋭さを物語った。そして一番下の層には、寝床用か筵が何枚も重ねて積み上げられていた。奥には均等に切られた竹の棒が何本も壁に立てかけられており、何の作業に使うのかと不思議に思った。清乃は小屋に入ってから恐れどころか興味すら湧いてきて、どこか普段の生活の中で押し殺してきた本来の気持ちが解放されたような気がした。その解放の喜びの矛先は又三郎のようだった。
「皆はん、よくおいでなんしょ。この度はおらの頼みで集まってもろてほんまにありがてえ。すでに話したんやが、この村の小作人の皆は長い間てえげな思いをしてきただ。それも小作料がでえぶ家計を圧迫しとるからだに。そこでこの又三郎はんの発案で組合さ作ろうっちゅうことになった。どうか皆の力を貸してもらいてえ」
太助の家は村の小作人たちでいっぱいだった。中に入れずに外から話を聞いている者までいた。太助の熱い思いが小作人一人一人に伝わったようだった。何人か夫についてきた女性の姿も見受けられた。清乃もその中に混じって前に立つ又三郎のことを見つめていた。
「待ってたで!」
「よろしく頼むで!」
「何だって言ってくれや!」
太助は小作人たちから投げかけられる温かい鼓舞に胸が熱くなった。
「簡単な話、久保田はんを納得させりゃ、おらたちの生活も今よりましになるはずや。でなけりゃ、おらたちはこの村さ捨ててもええ。そうやろ?」
「その通りや!」
太助の家がこの日ほど盛り上がったことは生涯に一度もなかった。しかし婆さんと妻は家を出て、人目につかないところで待機している必要があった。婆さんを移動させるのには一苦労だった。たまには日光を浴びることも良いと無理に連れ出したのだ。婆さんは呟いた。
「聞こえるで。太助の声だに――」
「そうやね、太助の声だに――」
そう妻は返事すると、覚悟を決めたかのごとく赤い簪で髪をまとめあげ、ただ事がうまく進むよう心の中で強く祈った。
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