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サーフィンは五感のチューニング

奈良の山奥で寺の住職をしています。サーフィンを始めて今年で14年目になります。いつの頃からか「サーフィンは五感のチューニング」という思いがありましたが、今まで言葉にはしていなかったので、noteを始めた事を機に、文章にまとめておきます。

自然・人・五感・仏教・さとり・サーフィン・ウェルビーイングなどのキーワードに関心のある方、読んでいただけると嬉しいです。

まず私のサーフィン観を述べる前に、この論の根幹をなす「仏教思想」と、養老孟司氏の「自然とは」のお話をさせてもらいます。

心田を耕す

仏教では、ブッダが説かれた教えに学ぶことを「心田(しんでん)を耕(たがや)す」と言います。

我々がふだん目にする田畑のように、放っておけば荒れてゆく、自身の心、「こころの田」を、ブッダのさとり、つまり、ブッダが確認された、宇宙・世界に遍満する、あるがままの法則・道理にリードされながら、その道理・法則に合わせて、つねに「こころの田を耕す」ことが大切であるとされています。

仏教思想に生きる私、また仏教徒であれば、みな当然なすべき事柄ですが、

それと同様に、仏教徒に限らず、何人であっても、人は、自然を通じて、畏敬の念や畏怖心を持ちつつ、地球・自然のリディム(周期的な動き、進行の調子、人間の是非を超えた極端な気象変動等)に人間の思考や感性、五感をチューニング(調律)していくことも「心田を耕す」ことと同じく(時にはそれ以上に)大事なことと私は考えています。自分が、サーフィンをするとはそういうことです。

「自然とは」 養老孟司氏

ところで、「自然」という言葉についてですが、先日、医学博士で解剖学者の養老孟司先生の「自然とは」を、たまたまYouTubeで目にしたところ、私のサーフィンへの思いを察っしてくれていたかのような内容に大変感銘を受けました。

おかげで、以前から感じていた「サーフィンは五感のチューニング(調律)である。」という思いに確信が持てました。

1人でも多くの方と、先生の自然観を共有したいと思い、文字起こしをしましたのでリンクを貼っておきます。


養老孟司先生の自然観の要点は以下の通りです。

・自然の定義は、人が意識的に作らなかったもの。

・人も自然。なぜなら意識的に作られていないから。

・人が自然にどう向かい合うかって言うのは、自分が自然だって言うことをうっかりすると忘れてしまう。

・物質的に人を考えると、完全に周囲と繋がっている。

・自分が自然であることの典型が体。自分の一番始めは意識してない。例えばそれは、0.2㎜の受精卵。現在体重が60㎏あるとすると、その体はどこから来た?全部食べた物である。ゆえに田んぼが私であり。将来の私。

・しかし現代人には、その感覚がゼロ。しかし昔の人はあった。だから「土から生まれて土にかえる」と言った。


・その感覚が無い人間が、自然と人間が対峙していると考える。

・ぜんぜん違う。おまえさんどこにいるの?自然の一部に過ぎないでしょ?

・自然が物質でできているとしたら、その結節点(つなぎ合わされた部分。結び目。)、その塊(かたまり)が人である。その塊はいずれ死んでほどけちる。別の部分は別の人に入っていくかもしれない。

・そっちから考えると世界は繋がっているから自然っていう言葉も消えてしまう。

自然の中に身を宿し、しずかに語る氏の「自然と人」のお話。

仏教の思想の核心である、「一即一切、一切即一(※いちそくいっさい、いっさいそくいち)」「縁起(※えんぎ)」「身土不二(※しんどふに)」という、ブッダのさとりの境地を、大変わかりやすく、語って下さっているように思えます。

また、大事なところは言葉に置き換えないところが、ブッダのさとり、縁起の理法とは、不可思議(ふかしぎ=人間の思いはからい、思慮分別を超えている)、不可得(ふかとく=あらゆる存在に固定不変な実体・本体を認めず、その存在が知覚されない。)である、というさとり本質にも通ずるところで大変有難かったです。

※「一即一切・一切即一」
 個(一 いち)が、全体(一切 いっさい)に遍満し、かつ、全体が個に統合されつつ顕現して不可思議円満に相即するさま。

※「縁起」
 物事は、原因と縁と結果によって、相互に依存関係し合い、時々刻々と変化消滅しながら仮に姿を現しているにすぎない、という仏教の根本教理の一つ。言葉に対応する固定的な実体は無いということ。

※「身土不二」
仏教では仏陀とその環境、世界は、別々のものではなく不二(ふに)であり、ひとつであるという。つまり、私と、生きているこの世界、自然は、切り離された別々のものではなく、つながり合っているということ。しかし我々はそれを分けて考えてしまっている。

サーフィンの醍醐味  "サーフィンは五感のチューニング"

いよいよ本題の「サーフィンは五感のチューニング」についてですが、それは、僕が、意識的に作られた人間社会から、海に向かって行き、サーフィンに至る道程を見ていただけると分かってもらえると思います。

サーフィンは、海に到着する前から始まっています。サーフィン前日の夜(あるいはもっと前から)、明日早朝、波が立つところを推測し、うねりの方向や波の大きさ、風の向きを予想して、サーフボードの選択やウエットスーツ、道具の荷造りをします。

そして目的地に向かう車の中で音楽を聴きながら自分と向き合い、ポイントに向かいます。

数時間後到着し、夜空にきらめく星や、夜から朝に空が移り変わってゆく天体ショー(←本当に美しい!知らない人にはぜひ知ってほしい!)を見て童心に返り、海が見えるまでの道中を、潮の香りをかぎつつ、波の音を聞きながら、その大きさからサイズを想像し、胸が高鳴ります。

目の前に広がるクリーンな水面に筋の入ったうねり、規則正しく崩れていく波! 予想通り波が当たり最高の1日の幕開け!!

急いで車に戻り、ウエットスーツに着替え、ボードにWaxをかけている時のWaxの匂いと朝の静けさに響く音。

海に入る瞬間の非日常に飛び込む感覚!

パドルアウトしてドルフィンスルーの最中、全身で水温を感じ、耳で海中の音を聞き、沖に出て、最初の波をキャッチし最初に波に乗ったその時、歓喜のあまり叫び声を上げずにはおれません!!

生命のエネルギーと同期した瞬間です。

あとは海のリズムに身をまかせ、周囲のサーファーと協調し、波をシェアしながら、自然の中にひたすら身をひたし、

地球の鼓動のごとく、打ち寄せてくるうねりが進んでゆく方向にパドルを合わせ、その高まってゆくエネルギーが1番大きく解き放たれる瞬間に向かい、波のパワーゾーンに身を置き、海からのGO!サインを体で感じテイクオフ!不可得の生命のエネルギーとの同期。至福の時間の無限ループです。

Sunset Timeに海で目にする溶けたガラスのような水面に映る夕焼けや、空を飛ぶ鳥、目の前で跳ねる魚。人がこの世に現れる前からある楽園のような自然に融け込んでゆくサイケデリックな感覚。。

サーフィンの醍醐味を上げていけばキリがありません。

生命の源である海を通して、意識的に作られた人の世界のすべてを、かなぐり捨て、私たち本来の生きるフィールドである地球・自然をこころと身体で享受し、そのリディムや声に、人間の思考や五感をチューニング(調律)していくこと。これが私にとってのサーフィンです。

最後に "ギフト・気付き・ポジショニング"

サーフィンについては、まだまだ文章にしておきたい事や思いがありますが、今回はこのへんにさせてもらいます。

自然は、時として、我々をコテンパンにやっつけてくる時もあるでしょう。それは私たちのフィールドの本来の姿なので仕方がありません。あるがままに受け入れるしかない。それを、養老氏は、「昔の人間は、覚語してます。」と言ったと教えてくれました。

しかし、その多くの時間は、自然からの人間へのギフトに満ちあふれています。我々は最高のギフトが享受できる場所に、五感を研ぎ澄ませ、身を置くだけです。

自然からの贈り物は無限にある。それに一つでも多く気付きたい。

と、いつも思っています。またそれが人のほんとうの仕合わせだと思います。


☆長文にも関わりませず最後まで読んでいただき有難うございました!



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