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【歴史エッセイ】名家のあれこれ②─屋敷の考古学─

 私の出た家は、大昔から今の場所にあったとされている。

 伝承という面からは、関東下野の名家宇都宮氏と縁戚関係にあったり、関ヶ原の戦いに参加してたりという話があることから、戦国から安土桃山辺りにはいたと推測できる。また、記録という面では、過去帳に元禄時代の人がいた。このことから、生類哀れみの令が出ていたころや赤穂浪士の吉良邸討ち入りの辺りにはいたことがわかる。

 何を基準とするかで、いつから私の先祖がその土地にいたのかという話が変わってくるのだ。

 先ほど話したのは、確かにこの時代まで伝わったものだ。形の有無を問わず。

 2回目の今回は、土塁や堀といった城としての最低限の設備や、土の中から出てきたものなどといった、物理的なものから考えられることについて書いていこう。


 屋敷の中に竹やぶがあった。

 竹やぶの竹は屋敷の周りを覆うように生えていて、生えているところは周りよりも少し高くなっている。竹の中に杉や楠といった樹木(しかも結構大きい)も混じって生えている。

 竹やぶにある少し高くなっている場所は、場所によっては大人と同じくらいの背丈がある。そしてその裏側は小さな崖のようになっている。向こう側にある小さな崖は、少し傾斜が急な感じだ。

 このことを昔専門家に話したことがあるのだが、そのとき、

「中世の城跡ではないのか?」

 と言われたことがあった。

(なるほどな)

 私はこの説明に納得できるものがあった。

 竹が生えている場所は、大体盛り土がされていていて小高い場所だったからだ。それが日本史の教科書や資料集に載っていた中世の武士の屋敷の土塁に似ているなと思ったからだ。あと、竹やぶが描かれてのも納得させる要素の一つとなった。関係ないものだと、堀や川があること、見晴らしのいい小高い場所にあることなどといったことがあった。

 とにかく、そっくりなのだ。いろいろな要素が。流浪の身となって、いろいろな城跡を見てからは特にそう感じる。

 このことからは、伝承にある関ヶ原や戦国以前、つまりは室町や南北朝、遠くて鎌倉辺りにいてもおかしくはないということがわかる。物的証拠が残っていないので、それを証明できる手だては何一つ無いのだが。

 ただ、城もしくは館の跡だと証明する根拠として、

①井戸が複数あった
②曲輪と思われるものがあったという伝承がある
③今道路となっている道が昔は堀だった

 ということが伝わっていることだろう。このことから、戦闘への備えをしていたことは確かだ。そうでなければ堀も掘らないし、曲輪のようなものがあったみたいな伝承も残らない。


 敷地内の発掘をしていたことがある。

 敷地内のを掘っていると、いろいろなものが出てくる。今まで出てきたものだと、瓦や陶器の破片が多かった。まれに甕や土器(かわらけ。昔の日本で使い捨ての皿などに使われたもの)の破片、おはじき、寛永通宝が出てくることがあったのだが。

 瓦や陶器の破片が出てくると、

「またかよ」

 とよく呆れていたものだ。それぐらい陶器の欠片が出てくる。特に畑の近辺からは。

 これに関しては、昔畑の辺りには蓮池があって、埋め立てる際にたくさんの陶器を埋めたからだと言い伝えられている。たくさんの陶器の欠片が出てきていることから、この言い伝えは本当なのだろう。

 たくさん出土する陶器。それでも、その中には珍しいものもあった。

 ある日の発掘で、青い陶器の破片と錆色の陶器の破片が畑から出てきた。

 発掘したとき、青い陶器の破片はなんとなく青磁かなと思った。昔テレビか何かで見た青磁と色が何となく似ていたからだ。錆色の陶器の破片についてはよくわからない。けれども、どこか色合いにわびさびを感じられたから、ただの物ではないなと思った。

 ある日、これを区の埋蔵文化財センターに持っていこうと考えた。持っていったら、何かわかるのではないかと思ったからだ。

 優しい陽ざしが降り注ぐ3月の中ごろ。カバンに発掘品を入れ、区の埋蔵文化財センターへと向かった。もちろんその中には青い陶器の破片と錆色の陶器の破片もある。


「青いのは有田焼で、錆色のは唐津焼ですね。どちらも江戸時代に作られています。というより、全部江戸時代後期の物ですね」

 埋蔵文化財センターの人は、発掘品を見終えた後そう答えた。

 青い陶器の破片は青磁ではなく、有田焼だったのだ。錆色の陶器の破片は唐津焼だった。青い陶器の破片が青磁でなかったことは少し残念だったが、それでも名のある焼き物だということがわかってよかった。

 同時に『江戸時代後期』といってもいつのものなのだろうか? と考えた。

 江戸時代といっても、時期によって大きく違う。例を出すなら、初期の慶長から寛永期にかけてと、末期の文化・文政期がわかりやすいだろうか。

 慶長から寛永期にかけては、戦国時代に近いこともあって、どこか派手で南蛮の影響がわずかに残っている。それにまだ文化の担い手は、ほぼ武士や知識人が中心だった。対して文化・文政期は、質素だけれど機知に富んでいて、現代の私たちにもわかりやすいものだ。そして何より日本人らしい。文化の担い手は庶民が中心だった。

 どれも同じように見える江戸時代でも、こうも違うのだ。これを埋蔵文化財センターの人は知らないわけがない。そう考えた私は、

「大体江戸時代後期のいつ頃ですかね?」

 と聞いた。

 埋蔵文化財センターの人は、

「一番新しいものだと幕末、古いものだと寛政くらいですかね」

 と答えた。

「なるほど」

 どうやら、新しいものは新選組とか維新志士が京都で派手にやりあってたくらいのときのものらしい。古いものは、松平定信が湯島に朱子学の研究所を作ったり、石川島に人足寄場を作ったりしてたときのもののようだ。

「この屋敷には寛政の辺りには人がいた」

 発掘調査ではっきりこのことが証明された。そして、僻地でも有田焼や唐津焼を仕入れることができたということは、かなりの資産家であったことがわかる。

 この戦果は、どの伝承から考察された仮説よりも確かなものであることは確かだろう。文献の記述と物的証拠の年代が初めて一致したのだから。


 さすがに敷地内に土塁があることは少ない。だが、名家の屋敷には何かしら昔の名残を留めている。それが伝承だけの不確かなものか、歴史的考古学的にも裏付けの取れたものかはケースバイケースになるが。

 仮に不確かなものであっても、こうして忘れ去られずに令和の世にも残っているというのは奇跡に近い。形を保っているものは言うまでもない。


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