ヤギ電脳

it's something humans do

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最近の記事

「他者」の登場

 何かについて語るというのはどういうことか、引き続き考えている。  まず「語る」ということは、他者に向けて言葉を放つことだ。 「他者」というワードが出てきた。話がどんどんむずかしくなっていくみたいだ。困ったな。 「他者」「自分」「言葉」「何か」と、既に4つも要素が出てきている。とりあえずそれらが関係して、「語る」という現象が成り立っているように思われる。  そもそもこんなことを考えるきっかけになったのは、観た映画についての感想がうまく言えないということだった。あらためてその

    • 納得したからとくに言うことがない?

       1週間か2週間くらいまえに『花束みたいな恋をした』を観て、せっかく観たから感想を書こうと思っていたのだけれど、いま思い返すととくに書くことはないみたいだ。観た直後にはこの点について書こうという箇所があったのだが、あらためて登場人物の年齢を調べてみたら、付き合いはじめたのが21歳で別れたのが26歳ということだったので、まあその年齢だったらそういう判断もありなのかなという感じで、勝手に納得してしまったのでとくに言うことがなくなった。  映画を観たり音楽を聴いたり本を読んだり、

      • 焦りとは何か

         昨日より書き始めるのが遅い。だから少しばかり焦っている。早く書いて早く寝たい。でも焦ると何事もうまくいきづらくなる。  焦りとは何か。それは感情の一種だ。人間だけに存在する感情なのかはわからない。地面を歩いているアリに煙草の火を近づけると慌てふためいているように見える動きをする。  しかし焦りとは、予期に対する遅れを認識したときに芽生える感情だ。予期に対する遅れを認識するというのはなかなか高度なメカニズムだと思われる。  焦るとうまくいかないのは、焦っているときには意識のフ

        • 週のなかばに長めに寝る習慣をつけるのはよいことかもしれない

           今日はわりと早い時刻に作業に着手することができたから、先日見た映画の感想記事を書くことにして、実際にある程度書いたのだけれど書き上げるというところまでは行けず、気がつくと10時を過ぎようとしていて、昨日は寝不足気味だったから今日は早めに寝るか、映画の感想記事はまた今度という考えに至り、今日は日記に切り替えて、30分くらいでざっと書いたら就寝モードに入ろう、と決めた。  今日は水曜だ。週のなかばに長めに寝る習慣をつけるのはよいことかもしれないと、ふと思いついた。さっそく実行

        「他者」の登場

          偽りのフリーライティング

           縦書きで書いてみよう。行頭一字下げもして。いわば日本語の文章として正統というか。でもあんまり「正統」に価値を置きたいとは思わないのだけど。そもそも行頭一字下げ程度のことを取り立てて言う馬鹿らしさ。それにいま僕の手元のワープロでは縦書きだけれど、アップロードしたあとには横書きなのだ。  日記をどういうふうに書こうかなと考えていて、これまではいったんフリーライティングをしてトピックを探すみたいなことしていたのだけれど、もちろんそのぶん時間がかかるし、結局トピックを探せないときも

          偽りのフリーライティング

          夜更かし

           午前四時を過ぎている。夜更かし。  九月に突入していることに気づく。九月に入る頃には夏が終わる——少なくとも終わっていく——ことになっていたと思うが、はたして実際はどうだか。近年の傾向ではまだまだ暑い日が続くかもしれないという気もするが、最近はわりと涼しくなっているような体感もあり、本当に夏が終わりに向かっているような気もする。  一週間ぶりくらいに書くからトピックは溜まっているのだが、どれも充分に消化できていないようだ。トピックだけを提示すると、中公新書『言語の本質』、

          Logseqを復活

           アウトライナーはBikeを使っていたが、Logseqを復活させてみることにした。Logseqの「日誌」を使うためだ。  これまでは日々のログもBikeに放り込んでいたのだが、いつまで経っても見返す気になれなかった。Bikeでログを見るためには、最上位項目の「ログ」の折り畳みを開いて、さらに日付の折り畳みを開いて、さらに時間の折り畳みを開かなければならない。たぶんそれが手間だから開く気になれなかったのだと思う。  また、その日のフリーライティングみたいなものはプレーンのテキ

          Logseqを復活

          過去に記した思考の断片をフリーライティングで蘇生する

           久しぶりの日記だ。1週間ぶりくらいか。もう自分が書くものを「日記」と呼ぶのをやめたほうがいいのかもしれない。  でもいちおう日記を志してはいるのである。ただ毎回失敗しているだけだ。  日記を書くシステムをいかに構築するか。それが目下の課題である。否、目下というか、それがずっと課題である。  前回同じことを検討したときには、マルチウインドウにしてみるということを考えた。マルチウインドウ環境は継続している。まだ完全に機能しているとは言い難いが、それなりに馴染んできた。  今回検

          過去に記した思考の断片をフリーライティングで蘇生する

          日記=時間的

           久しぶりに普通の日記っぽく書ける。  とりあえず前回、前々回の「空間的に捉える/時間的に捉える」という記事について振り返る。  僕なりにチャレンジングな記事だった。というのは、日記のように1時間程度で書き終えるのではなく、数日にわたって書き進めたからだ。内容はさておき、アップロードまで持っていくことができてよかった。  思考を展開するために文章を書くということはときどきあるのだが、たいていはかたちにならずにパソコンのストレージに埋もれていた。しかしそうなると、その思考はまっ

          日記=時間的

          編集=空間的

           前回の記事の続きである。前回の記事では「書き手は文章を空間として捉えていて、読み手は文章を時間として捉える」というようなツイートをきっかけに、「空間的に捉える」「時間的に捉える」ということについて考察したのだった。  そのときに考えたことをあらためて図式的に示しておこう。  書き手=空間的(全体的・有限的・第三者的)に文章を捉える。  読み手=時間的(部分的・無限的・当事者的)に文章を捉える。  前回の記事で示した図式とは異なっているが、考察の内容を取り込むとそのような図式

          編集=空間的

          空間的に捉える/時間的に捉える

          「書き手は文章を空間として捉えていて、読み手は文章を時間として捉える」というようなツイートを見かけたのだった。僕はその意見になんとなく納得できる気がした。でもそれが具体的に何を意味しているのか。  書き手は文章全体を把握しているが、読み手はそうではない。ということをまず思う。全体の把握ということが、空間と(あるいは空間という認識形式と)関係している気がする。レヴィナスの『全体性と無限』という本が参考になるだろうか。今のところ1ページも読んだことがない——どころか、直接お見か

          空間的に捉える/時間的に捉える

          マルチウインドウを有効に活用できている気がしない

           マルチウインドウで日記を書くようになってからしばらく経つ。画面の左半分はワープロあるいはエディタアプリのウインドウで、本文を書くところだ。画面の右上にはアウトライナー、右下にはライティングボード。こまかいことを言えば辞書とか音楽ミニプレイヤーとか、キーボードショートカットで表示/非表示を切り替えられるメモとか、いくつかのウインドウが展開されている。  しかし今に至ってもマルチウインドウを有効に活用できている気がしない。右上のアウトライナーと右下のライティングボードは、文章

          マルチウインドウを有効に活用できている気がしない

          しばらく

           またしばらく日記を書けずにいた。しばらくと言っても6日ほどだが、日記にとっての6日は6年に相当するといっても過言ではない。  ところでいま僕は「しばらく」を「長い時間」くらいの意味だと思って使っていたが、辞書を引いてみると「少しの時間」という意味の方がむしろ優先してあげられていた。同じ言葉がほとんど正反対の意味を包含している。まったく、むずかしいものだ、言葉というのは。  日記を書けずにいた理由はとくにない。そもそも日記を書く理由がとくにないのだ。だから理由をうんぬんする

          れいによって

           2日ぶりくらいの日記か。例によって(あるいは霊によって)行き当たりばったり書いていこう。  日記をサボって何をしていたかといえば、ミュージックアプリのプレイリストを再構築していた。  僕のスマホは容量が小さく、パソコンに入っているすべての音楽を入れることができないため、取捨選択が必要になる。そしてスマホから音楽を流すのはドライブ中であることがほとんどなので、実質的にはドライブ用のプレイリストを作っていくことになった。 「再構築」と言うからにはもちろんすでにドライブ用のプレイ

          れいによって

          わけもわからず生きている

           とりあえず書き始めてみる。日記である。  インプットが足りない、と感じている。そのせいで、日記を書くことにあまり気が乗らない、と推測する。  自分が何かをする理由、あるいは何かをしない理由について、推測するという程度の認識しか持てないことがあるのは普通のことだ。人間というのは、わけもわからず生きている。たぶん生きている理由がわかったら死ぬのだろう。  英語配列のHHKBにも少しだけ慣れてきた。とはいえ日本語配列の習熟度が100%だとすると、英語配列の習熟度は15%くらいの

          わけもわからず生きている

          「常軌」とは何かが問われている

           村田沙耶香の『コンビニ人間』という小説を読んだ。文春文庫、2018年。  最初の数ページでは、有能で仕事熱心なコンビニ店員の内面の動きが、じつに綿密に描写されているなという印象を受けた。  ところがそのパートのあと1行空きを挟んで、〈コンビニ店員として生まれる前のことは、どこかおぼろげで、鮮明には思いだせない〉と来る。ちなみに「生まれる」には傍点がふられている。  その次の行では〈郊外の住宅地で育った私は、普通の家に生まれ、普通に愛されて育った。けれど、私は少し奇妙がられ

          「常軌」とは何かが問われている